♪祖母が持って行ってくれたもの、遺してくれたもの
<はじめに>
初めての方も、以前も読んでくださった方も、ご訪問ありがとうございます。
先日、私の祖母が亡くなりました。享年99歳でした。
お盆で帰省した際に、入院していると聞いていたのですが、
まもなく退院ということと、私も母の新盆だったこともあり、
会いに行けず…いえ、ある理由で会いに行きづらく、
それから一ヶ月も立たないのに、病状が急変し、
とうとう生前に会うことは出来ませんでした。
祖母は父親の母親に当たるのですが、この父親の兄弟の団結力が
とても強いのです。
父が亡くなった時も、母が亡くなった時も新盆の時も何かと
気にかけて下さり、協力して頂きました。
そんな御恩に対し恩返しをしたいという気持ちもあって、
祖母の葬儀が行われる福島県までの520kmの距離を
移動する為の費用面や時間は躊躇することなく行くと
決めたのですが、
納棺の時間に間に合わせるには東京に前泊が必要でした。
普段なら、東京に普通に宿を取り、朝一で電車で
移動しようと思っていたのですが、
…埼玉にいる親戚から親戚の家に前泊して車で一緒に
行かないかという提案を頂きました。
以前の私なら、おそらく遠慮していたと思います。
…というより、”ある理由”の為に親密に接し難かったのです。
それは父方の兄弟に対しても同じでした。
<父方の兄弟への罪悪感>
今回、祖母の死をきっかけに親戚のお世話になるかどうかで、
…”ある理由”が引っかかっていました。
それが何なのか、忘れていましたが、とりあえず一緒に
行くことにしました。
その時は、単に「普段のパターンと違う行動をとってみよう」
という感じの選択でした。
そして親戚宅に前泊した時、泊まった部屋に昨年亡くなった、
父の妹さんの遺影を見た時に、親戚のお世話になるかを
迷った「ある理由」に気づきました。
それは、祖母の旦那様…、私の祖父に対しての罪悪感でした。
<祖父への宛てた手紙>
それは、私が小学校の5,6年の頃だったと思います。
父が借金の保証人になっていた、お友達が逃げてしまい
その借金を支払わなくてはいけなくなりました。
父は母方の親戚からお金を工面したりしていましたが、
その親戚から電話がかかってきては
「お父さんはいないか」
「父がお金を返してくれない」と言われ続けたり、
◯◯商事という名乗る方が、毎日のように訪問して
きたりしてました。
幸い、暴力とか破壊とかは無かったものの、
母親と父親のけんかも増えて、子どもとしては
不安一杯でした。
「あなたはお人好しにも程がある」…そんな事を
母は切ない表情でいつも言っていました。
子どもの私は、誰かが助けてくれれば…のような
発想だったのでしょう、
ある日、私は父の父…私の祖父に手紙を書きました。
…「借金に苦しんでいる父親を助けて欲しい」と。
その時、父が既に父方の親戚に既に助けてもらっていたのかとか、
相談していたのかは知りませんでした。
…ただ、早く安心したかったのだと思います。
手紙を出した後も、しばらくは同じような状態が続きました。
借金する人が変わり、家に訪ねてくる人も変わる感じでした。
そんな中、祖父が倒れたという連絡がありました。脳溢血で、
生命はとりとめましたが、半身不随、言語障害という
ハンディキャップが残りました。
そして祖母の献身的な介護の中で数年後、他界しました。
…祖父がそんな状態になったのは、自分が手紙を
書いて心配させたからではないか。
そんな罪悪感に押しつぶされそうになったのを覚えています。
何度かお見舞いとか親戚の集まる場に行きましたが、
父方の親戚は私の顔を見て態度を変えること無く、
祖父の病気と私が関係あるというそぶりは全く
みせませんでした。
そんな中、罪悪感は顕在意識からは、たまに思い出しては
苦しくなる程度まで遠のき、しかし潜在意識には、
…どこか深いところに”残されている”ようでした。
そして、そのことが父方の親戚に心から溶け込めない…
…自分の罪がばれたら、嫌われてしまうので、
今以上に近づかないほうがいい…。
そんな気持ちがあったのか、父方の親戚とは、すこし心の
距離を置いた付き合いを続けていました。
<借金がつくった価値観>
私が社会人になって自分でお金を稼ぐようになってからも
「借金」は「してはいけないもの」でした。
やはり父が借金して、いろんな方が取り立てに来るのに対し、
対応した嫌な思い出が、「借金=嫌な気持ちになる」と
心に刻みつけられたと思います。
また、祖父への罪悪感もあって、「借金=大事な人を失う」
という価値観もできていたように、今思っています。
なので、借金…特に保証人を立てる借金は出来ませんでした。
よく巷で言われる「お金のブロック」…。お金に対して潜在的に
恐怖があったりするとお金に関わる行動がなかなか出来ない…。
…私も、そんなブロックを抱え続け、父の自営業を次ぐのを止め
サラリーマンになりました。
ある意味、自営業ではお金のトラブルに巻き込まれる…
という怖さがあったのだと思います。
…父が他界する前にきれいに借金を返し、蓄えを作っていたと
いう事実を知っても、そのブロックは残り続けました。
<無言の温かさ>
祖母の数々の葬儀の合間に親戚と話す中で、気づいたことが有りました。
それは、親戚は皆、相変わらず温かく迎えてくれたこと。
そして、私は、祖母の事を程んど、知らないということでした。
葬儀のなかで思い出の写真が映される中、祖母について、
隣の親戚が教えてくれました。
「祖母は、自分のことを語らない人だった」
「祖母は、昔、学校で学芸会とかで主役ばかりだった…
でもそんな事を自分で話す人では無かった」
「自分では、自分の事を語らないので、
他の人の話からしか祖母を知ることができない」
「おばあさんは、恥ずかしがり屋さん、照れ屋さん」
…祖母は、そんな人だったようです。
私が就職後に、祖母を訪ねた時も、なんか照れくさそうに、
無言で、でも手作りのお料理とかで、もてなしてもらった事を、
ふと思い出しました。
そんな祖母の美学を受け継いでいる人が、身近にいました。
…それは父でした。
思えば、父の事もよく知らない…。
聞いてもあまり教えてくれなかったのです。
<引き継がれた美学>
葬儀の後、いつも親しくして下さる親戚数人と
宿泊することになりました。
ビールを飲みながら、いろんな話をしていましたが、
4人で12本目を開けた頃に、
父を尊敬しているという父の弟に当たる叔父が、
父が病気で入院して遅れた学歴を取り戻すために、
夜間学校に行ってたこと、
その稼ぎの中から、弟や妹に本などを買い与えていた
ことを話してくれました。
それを聞いて、「人が良い」つながりで、父の借金の話を
してみました。
…しかし叔父は、「私はその話は初耳だ」
「お金の相談は受けたことあるけどね」と何となく
隠し事をするように照れ笑いをしながら答えてくれました。
その時、びびーんと身体中に電気が走った気がしました。
「父の借金をしらない」ということ。
何となく父の名誉の為に、知らない振りをしてくれている
ように感じたのです。
もしくは、私の手紙を受け取った祖父や祖母が、
父親の兄弟に隠し通してくれたのかもと。
結果的に私は、これまで祖父の死に関して誰にも
責められたことがありませんでした。
…しかし、親戚全員が私の為に「知らないふり」を突き通して
くれているのでは、
…あるいは祖父や祖母が最後まで隠し通してくれたのではと
感じたその時、
…罪悪感が感謝に変わったのです。
<祖母が持って行ってくれたもの>
私は罪悪感故に、本当の意味で親戚に心を開けなかった、
近づけませんでした。
けれども、親戚の皆さんは、私を傷つけまいと、今も尚、
守ってくれている…。
そんな、思いやりにあふれた人が、わたしには、いる、
いてくれると思うと胸がいっぱいになりました。
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