母よりも母だった貴女(ひと)
街に、七夕飾りの色がひるがえり始めると、
胸の奥が、きゅっとする。
甘いような、切ないような、人込みからすっと離れて、一人泣きたいような想いになる。
今はもう、その顔さえ、定かに思い出せないのに。
☆彡1、孤独な貴女(ひと)
やえちゃんと出会ったのは、いつだったのだろう。
物心ついた時には、一緒にいた。
弟が生まれた3歳の頃、母にうるさいと家を出された私は、炎天下の道路をふらふらと歩いていたらしい。その頃、見かねてやえちゃんが声をかけてくれたのかもしれない。
私が生まれ育ったところは、山の中腹の観光地だった。
小さな町の表通りには、旅館とホテル、物産展が立ち並んでいた。
裏通りには、そこで働く人たちの住居や寮があった。
やえちゃんは、ホテルの従業員寮に一人で住んでいた。
あの頃、やえちゃんの歳がいくつだかわからなかったけれど、今考えると、35歳から40歳くらいだったろう。
小柄で細目、華奢な人だった。
色が白く、手はやわらかく丸かった。
生まれは、東北だと言っていた。
それが、遠く離れた僻地の観光地で、なぜ一人で働いているのか、幼い子供には知るよしもなかった。
観光地のそこでは、人の出入りは多かった。3,4年いたと思うといなくなり、また新しい人がやってきた。
やえちゃんは、料理が得意だったわけじゃない。
ご飯を、しょうがとハムだけで炒めて、醤油とごま油で味づけしただけ。そんな簡素なものが多かった。
それでも、
やえちゃんと2人で食べるご飯は、のどにすっと入って、体をあたためた。
「おいしい!」
「おいしいね!」
「うん、おいしい!」
そんな単純な言葉の掛け合いが、私をほっとさせた。
家では、母は弟の世話と家事につねにあわただしかった。
やえちゃんもホテルの仕事をしているのだから、忙しかったはずなのだけれど、いつも「大変だ、大変だ」と騒いでいる母と違って、そのまわりには、ゆったりとした時間が流れていた。
その空気のなかにいるのが、私は好きだった。
その静かな空気のなかで、私はのんびりとご飯を食べ、のんびりと折り紙をし、のんびりと絵を描いた。
母は、いつも大変そうだった。
その世界には、大変なことがいつも降り注いでいるかのようだった。
少し声を大きくすると、「正志が起きる!」と怒られた。
そのわりに、母は食器をがちゃがちゃと移動させ、大きな声で文句を言い、どしどしと歩いていた。
昨日はAでなければと怒り、今日はBでなければと怒り、明日になればCでなければと怒る。
そんな人だった。
幼い私はその一貫性のなさにとまどったが、やえちゃんに言うと、やえちゃんはいつもふふふと笑うだけだった。
そのふんわりとした微笑みを見ていると、母のことはどうでもいいと思われた。
母は、そういう人なのだ。
私には、やえちゃんがいる
幼い私が、そうはっきりと認識していたわけではないけれど、その体と魂は、やえちゃんとしっかりとつながっていた。
母は単純な人で、やえちゃんに嫉妬するということはまるでなかった。ただ単純に、私の世話から解放されるのをありがたがっていた。
その単純でがさつなところが私は嫌いだったけれど、単純だから助かったことも多かった。
私は誰にじゃまされることもなく、やえちゃんの家にいりびたった。
やえちゃんも、嫌がらなかった。
今思えば、孤独な貴女(ひと)だったのだ。
☆彡2、やえちゃんの涙
やえちゃんの仕事は、朝番と夜番があった。
朝番は朝6時から夕刻4時まで。夜番は、夕刻4時から夜10時まで。
かなりきつい労働だったろう。ホテルといっても、旅館のような畳じきで、布団の上げ下げ、給仕、掃除、やることは大変だったろうと思う。
その日は朝番で、夕方4時には帰ってくるはずだった。
私は、やえちゃんの時間割をしっかり把握して、自由時間にはほとんど一緒にいるような感じだった。
やえちゃんは、なかなか帰ってこなかった。
脚のつかれた私は、ドアの前に腰をおろして待っていた。
コンクリートの上にすわっていると、体が冷えてくる。6月で、雨が降っていた。
共同の廊下の窓から見える、空。
灰色の空から、雨が降り続ける。
まるでそれが、永遠に続くかと思われた。
やえちゃんが、帰ってこないかもしれない。
幼い私はふとそう思い、そう思うと、体が身震いした。コンクリートで冷えていた体が震えたのか、心と魂が震えたのか。
気がつくと、まるで空から降る雨のように、涙を流していた。
やえちゃんが、帰ってこない。
それは、世界の終りのように感じられた。
世界が、終わってしまう。
私は、この世界に、たった一人になってしまう。
優しかった時間が、なくなってしまう。
なんという、恐怖だろう。
私は、眠ってしまっていた。
ふわっと体があたたくなった。
やえちゃんが、私をぎゅっと抱きしめていた。
「ごめん。ごめんね。こんなに冷えちゃって」
「泣いてるの? やえちゃん」
その瞳は、赤かった。まぶたも少しはれ、奥二重ぎみになっていた。
今泣いたという瞳ではなかった。
その時のやえちゃんに何があったのか、わからない。まだ35歳から40歳だ。恋愛でつらいことがあったのかもしれないし、職場の関係でつらいことがあったのかもしれない。
ホテルで働くおばさんのなかには古株の人がいて、ずいぶん意地悪だと母さんが言っていた。
綺麗で、どこかはかなげなところがあるやえちゃんは、そんな人たちにいじめられやすかったのではないだろうか。
やえちゃんは、私をりいちゃんと呼んでいた。
やえちゃんは、私をぎゅっと抱きしめた。
私は、母さんよりもずいぶん薄いその背中を、ぎゅっと抱きしめ返した。
やえちゃんの温もりがすうっと私の中に入り、冷えた体も、不安になった心も、またたくまに温まった。
私とやえちゃんは、歳がずいぶん離れていたけれど、孤独な魂と孤独な魂で、よりそって温めあっていたのかもしれない。
その後、部屋の中で2人で飲んだココアは、世界でこれほどおいしい飲み物があったろうかというくらい、甘く優しかった。
☆彡3、七夕の夜
私とやえちゃんは、ずうっと一緒にいるのだと思っていた。
母とよりも、ずうっと一緒にいるのだと。
行く!
○○市の七夕祭りは、あたりでは有名だった。
少し遠くて、バスと電車で行かなくてはならない。夜の七夕祭りを見ていたのでは、山の中へ上るバスの最終はなくなってしまう。
やえちゃんの部屋に泊まることは、何度もあった。でも旅行は初めてだ。うれしくてたまらなかった。
家でぴょんぴょん跳びはねていたら、弟がうらやましがって泣き出し、母に注意された。
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