高木教育センターのありふれた日々(5)
高木教育センターのありふれた日々(5)
第四十一章「塾の教室から」
第四十ニ章「タイムカプセル」
第四十三章「なんで数学者なのに、神様を信じる人がいるのか」
第四十四章「ボクは学校が嫌いだ!」
第四十五章「隠れ家」
第四十六章「サイレント・クレーマー」
第四十七章「脱スマホ宣言」
第四十八章「yahoo 知恵袋の英作文」
第四十九章「少林寺拳法がすき」
第五十章 「グッバイ、お父さん」
第四十一章
「塾の教室から」
私は全ての人が勉強ができるようになると思っていない。塾を訪れる方には正直に言えない。言うと怒る人が多いから。しかし、冷静に考えて欲しい。小学校の頃に、足のはやい運動会のヒーローがいたはず。逆に、鈍足の子がいたはず。それは努力の結果ではないですよね。
生まれつきの向き、不向きがある。人間だもの。当たり前のこと。それが、私の塾にみえられる頃には努力の積み重ねが10年以上行われた後。勉強とは教師から指示されたことだ。強制される嫌なものだ。我慢がすべて。そう思い込んでいる子が多い。
親もそう信じていて、教師の指示どおりに動くようにプレッシャーをかける。そして、塾にも
「どんどん宿題を出してください」
とプレッシャーをかけてくる。塾の多くはその要望に応じる。商売だから。しかし、それだけでなく、塾講師にも勉強とは強制だと信じている人が多い。結局、
「やればできる!」
と無責任な言葉を吐く。鈍足で、小学生用の練習しかしていない子にオリンピックに出られるようなことを言う。悪意ではないですよ。善意で。でも、オリンピックならオリンピック用の練習をしなければならない。小学生用の練習ではオリンピックには出られない。
たとえば、高校では英単語が6000語は必要だ。公立中学校では1000語しかやらないから、高校で残りの5000語を覚えなくてはならない。だから、中学校の5倍はやらないといけない。合格する子はやっている。それで、私は
「5倍の量を覚え続けてください」
と言う。それが出来ないなら、クラブも生徒会も全ての時間とエネルギーを勉強に向けるしかないと言います。これは統計の示すデータだから正直に言う。もちろん、例外はある。こっち側から、あっち側に行く道は一つではない。
ただ、ハッキリしていることは誰かの言いなりになるだけではトップに上り詰めることは出来ないこと。きみの性格も置かれた環境も他の誰とも違う。どのレベルの問題集を使い、分からない時は誰に尋ね、どこで勉強するのか。どの大学のどの学部に行くのか。
決めるのはキミだ。もし、学校の宿題やカリキュラムが自分の計画と違ったら自分の計画を優先すべき。
ところが、そこまで真剣に受験勉強に向き合っている人は少ない。だから、先生の指示に従う必要がないなどと口にすると蛇蝎のように嫌われる。ここはそういう地域性のある田舎なのだ。「和」がすべてに優先して、人と違ったことをすることが許されない雰囲気なのだ。
数学でも、高校レベルならある程度分かったと思えるまでには2000題ほど解く必要がある。毎日2題か3題解くのは当たり前の練習量だ。その時間を確保できないのなら(電車通学などでどうしようもない子も多い)勉強以外の時間を削る必要がある。最も問題なのがクラブ活動だ。強制されていると、教師に逆らうのが難しいからだ。
でも、現実の入試を考えて欲しい。強制クラブのない私立高校だってある。そもそも学校に行っていない浪人生も受けにくる。私のようなオジサン、オバサンも受けにくるのが入試だ。
「クラブで勉強時間がとれない」
なんて、単なる言い訳にしかすぎない。
落ち着いて考えてみると、三角関数や微積分を必要とする子の方が少ない。だから、自分が勉強に向かなくても問題はない。足が遅くても、音痴でも生きていける。心配する必要はない。なのに、無理して勉強させようとするから息苦しくなるのだ。
塾講師の立場から見ると、生徒本人の強い動機付けがないと勉強がはかどらない。複雑な数学の数式を受け入れてもらうための最低限の必要条件だ。教師のロボットのような生徒では無理な話だ。
蛇蝎のように嫌われている。そう自覚している。本当のことを口にすると、嫌われる。英検1級や京大を7回受けて成績開示した。全て本当のことだ。すると、
「そんなに威張りたいのか!」
と怒声が飛んでくることがある。私は塾講師なのだ。すべては教室の授業で評価が決まる。実際、東大を出ても生徒から支持されない講師は多い。私は、信用してもらう傍証として開示しているだけ。本当の勝負は毎回の授業だ。そして、その評価を決めるのは英検の採点官や京大の採点官ではない。生徒の方だ。
「おまえごときが!」
と罵声が飛んできても平気なのは、優秀な成績の生徒たちが支持してくれるからだ。
「その程度の数学力で」
と揶揄されても、現実に京大医学部志望の生徒や名大医学部志望の生徒が塾に来てくれた(両名とも通塾生。両名とも合格)。そういう生徒が、私の数学の指導に満足してくれたという現実がある。私はそれだけで満足なのだ。どこかの誰かの評価など、どうでもいいのだ。
学園ドラマを見ていると
「今日は塾があるのでごめんね」
と掃除当番を代わってもらったり、クラブを早退する場面がよく出てくる。掃除やクラブ活動より勉強優先という意識を学園全体が共有しているわけだ。ところが、この地区は
「今日はクラブで帰りが遅いので、塾を休みます」
と言うのが当たり前。つまり、勉強よりクラブが優先されるという意識が共有されている。全国の常識がここでは非常識。ここの常識は全国では非常識という状態だ。そうでなければ、隣町の陵成中学校や光陵中学校の四日市高校合格者が毎年15名から20名なのに、地元の東員第二中学校や北勢中学校は去年も今年も1名などという異常事態にはならない。
第四十ニ章
「タイムカプセル」
1970年に大阪で開かれた大阪万博で、タイムカプセルというものを初めて知った。当時、14歳だった私は40年後、50年後のことなど想像もできなかった。中学生の自分が結婚して、ハゲたオッサンになっている図など遥かかなたのことであった。
その頃には鉄腕アトムが空を飛び、人類の植民地として月や火星に基地でもあるのかもしれないと夢想した。テレビ電話も夢物語だった。あれから45年。自分はハゲたオッサンになったが、鉄腕アトムはいない。月や火星に植民地もない。かろうじてテレビ電話が実現しただけだ。
しかし、個人的には子供がいて、英語がペラペラになり、高校レベルの数式が自由に操れるようになっている。これは驚きだ。一方、世界では紛争は相変わらず続き難民がヨーロッパに押し寄せている。アジアでも、中国が侵略を繰り返している。
こうして見ると、私が生まれた1956年から45年遡ると中国で清朝が倒れ日本では大逆事件が起きている。まだ、中華人民共和国どころか中華民国ができたばかりだ。さらに45年遡ると明治維新の頃、つまり江戸時代になる。
そう考えると、武士の時代もそんな昔のことではないことを実感する。私たちが大騒ぎをしているAランク・東大・京大、Bランク・旧帝や早慶というランク付けなんかすぐに歴史の闇の中に消えていく。どこぞのだれちゃんが頭がいいとか悪いとか。そんなことは歴史に残らない泡ブクのようなもの。
さて、塾や学校の学習環境はどうなったか。明治維新の頃も、明治の終わりの頃も、視聴覚教材などあるわけもなく、ネットもなく、外国人も周囲にほとんどいなかった。それでは、格段の学習環境の改善により日本人のほとんどが英語を使えるようになったのだろうか。現実を見れば結果は明らか。
これは、英語だけに限らない。数学も理科も社会も、学習環境は格段に改善された。では、誰でも三角関数や対数関数の微分ができるのか。現実はそうなっていない。だから、今は話題になっているが「受験サプリ」も「Try it」も学力向上に何の役にも立たないことが近いうちに判明するのは間違いない。
ハッキリ言えば、映像授業などクソだ。高額で暴利をむさぼっているDVD授業は論外だ。巨大ビルなど学力向上に何の関係もない。タレントがCMに出ても指導の確かさと比例しない。いや、むしろ反比例している可能性が高い。山口県の松下村塾を見た方は、ただの小屋のように感じたはず。
真の教育とは、先生と生徒だけでいいのだ。黒板やノートで十分。
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