君の哀しみが癒せたなら...1

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過去の記憶、言えなかった言葉、ほんとうの気持ち。。日々の暮らしの中に人生が

織り込まれていきます。そのときはそうと気づかなくても。。


プール


奈津は自分の靴をみながらつぶやいた。

「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。」


胸がどきどきしてる。

まわりは明るい水色の光がゆらめいて

奈津は自分が立っているのか寝ているのかさえわからない。

まるでゼリーの中で泳いでいるようだ。


「ほら、ソーダゼリーができたわよ」

母が呼んでいる。

奈津はそちらを見ようと振り返ったとたんに目を覚ました。


またあの夢だ。

奈津はそっとタオルケットにくるまって目をつむった。

それからゆっくりと思い出をたどった。

あの夢をみるとどうしてもそうせざるをえない。





遠い夏_。

奈津は自分の靴と女物のサンダルを広い玄関にしゃがんで

何度もきちんと揃えなおしていた。


父は自転車で仕事に出かけていて留守だったし、妹のまりあは

親戚の家に預けられていたので家には奈津一人だった。


奈津は玄関を上がって畳の上に座ると、長いことじっとしていた。

柱時計のぜんまいがぎぃという音をたててぶるっと戻ると

また何事もなかったかのように、チクタクと時を刻み始めた。

時計はまだ11時をまわったばかりだ。


奈津はプリーツスカートからのぞいている自分の膝小僧を撫でてから立ち上がり、

顔をあげるとキッチンへ行って蛇口をひねった。

家の水道は蛇口をひねるとひゅる〜っと鳴ってどどーっと冷たい水が出る。

コップを出して水をくむと、奈津は蛇口をきゅっとしめた。

水はわずかに鉄さびの味がする。

奈津はコップの水を全部飲んだ。


キッチンのまな板がまだ湿ってる。

朝ご飯のお味噌汁に、母がネギを刻んでいたことを奈津は思い出した。

ガス台の上にある鍋にはまだ朝のみそ汁の残りが入っている。

お豆腐とネギのお味噌汁だ。

お豆腐はくずれネギはくったりしてしみしみになっている。

奈津は鍋に入れっぱなしのおたまでお味噌汁をすくって一口飲んだ。

ちょっと冷えていて美味しい。

こんなことをしているところを母や父に見つかったら大目玉だな。と思う。

けれども今は二人ともいないからそんな心配は無用だった。

「二人ともいないから。。」そう思ったとたんに奈津の身体から力が抜けていった。


「元気でね」と言った母はへんな顔で笑ってた。


綺麗にお化粧をして、タイトスカートにハイヒールの

母は綺麗だった。

よそゆきの白いブラウスのボウが柔らかく揺れ、香水の

匂いがした。


「お出かけするの?」

何て言えばよかったのだろう?


母は答えてはくれなかった。

困ったような顔をして奈津を見つめ、小さく「ごめんね。。」と言うと

それきり目を伏せている。

「何で、‘ごめんね’なんだろう。。?」

奈津は何か言わなきゃと必死で考えようとしたけれど

何を言っても、母は出かけてしまうのだと感じていた。

母はやがて小さな鞄をひとつ提げて、「元気でね」と言って

行ってしまった。


「元気でね」?奈津の胸に母の声がこだまする。


奈津は追いかけなかった。

いい子にしてたら母はすぐ帰ってくると思いたかった。


いい子にしてたら。。


奈津は家中のぞうきんがけをすることにした。

バケツに水を汲んで、ぞうきんを絞って

廊下をいきおいよくかける。

お二階へ上がる階段も丁寧に一段ずつぞうきんをかけた。

バケツの水もなんども取り替えて。

そうして、てっぺんまで階段をのぼると二階の窓から外を見た。


お隣の畑が見える。

水密桃の実がたくさんなっているけれど、収穫はまだだ。

遠くに見える山々のこちら側が奈津の世界の全てだった。

「あの山の向こうはどんなふうになっているのかな?」奈津は考える。

いつか向こう側に行ってみたい。

もっと大きくなったら。。奈津は無言で空を見上げた。

おひさまは真上にあって、奈津の家のトタン屋根を熱く照らしている。

お屋根でホットケーキが焼けるかしら?と、奈津は思う。


「そうだ、おふとんを干さなきゃ。」奈津は声に出して言うと

トタン屋根の上に段ボールを広げ、その上に家族のふとんを並べた。

奈津の家ではいつもそうやって布団を干していた。

下へ降りていってぞうきんを洗い、庭の物干竿に干す。

丁寧に洗ったのにぞうきんは薄汚れている。奈津は顔をしかめた。

ぞうきんは母が縫ったものだ。

「漂白すればよかったんだねえ。。」やっぱり声に出して言ってみる。

玄関で声がしたような気がして、奈津ははっと振返った。

でも、誰もいない。

庭からみる家の中はなんだかちょっと不思議な感じがした。

掃除をして片付いた部屋は、なんだかいつもと違う。


奈津はキッチンへ行くと冷蔵庫をあけてカルピスの瓶を出し、

コップに液体を入れると、水道の水で薄めた。

自分で好きなだけカルピスが飲めるなんて素敵だと思った。

誰もいないキッチンで、奈津はカルピスをごくごくと飲む。

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