私が尊敬する偉人たち……瀧廉太郎、サリバン先生、中村久子さん、ダミアン神父……

私は「荒城の月」という歌曲が、ものすごく好きだ。
土井晩翠の書いた難しい言葉が連なってできた歌詞だけでは、なかなか「心の中に場景がありありと浮かぶ」ということはないが、瀧廉太郎のメロディーが加わった途端に、栄枯盛衰の歴史と、それをただ見守ってきた土地や植物の姿が浮かんでくるのが、すごく不思議だ。

瀧廉太郎が作曲した歌曲を好んで歌ったのは、音楽理論など分からず直感で「好き、きらい」を判断する人々だったのだろうと思う。私だってその一人だ。

私がライターとして、企画を立てたり原稿を書いたりする上で、

・特定の分野に精通した人にだけ分かればいいものを生み出すのか
・その分野について知らない人にも、理解してもらいやすいものを生み出すのか

を、企画・原稿ごとに確認し、意識していかなければいけないと思うようになったのは、瀧廉太郎の人生や、彼の生み出した歌曲について、自発的に調べるようになった30代初めのことだった。

瀧廉太郎の人生は、音楽の本場であるドイツに留学し、これから様々な知識を吸収してさらに大きな花になろうとした、希望でいっぱいの時点で肺結核にかかる、という短いものだった。残念ながら、瀧廉太郎が結核にかかっていたことを理由に、多くの楽譜が焼却処分されてしまったそうだけれど、彼の音楽は今も、人々の心に残っている。そして、心の中にある音楽は、決して消えてしまうことはないと、私自身がよく知っている。

2013年10月、(自称?)聴覚障害があるという作曲家・S氏とそのゴーストライターが、マスコミの前に登場し大騒ぎになった。

このとき私が抱いた疑問は、
「聴覚障害を抜きにし、作曲家について何の情報も与えられずに、S氏の作る楽曲を聞かされた場合、その楽曲は人の心を打つものなのかどうか?」
ということだ。

「音楽のプロ」を名乗るのならば、大前提として
「その音楽を聞いた人が『あぁ、この人の楽曲を聞くために、お金を払ってよかった』と思える」
というレベルに達していなければ、意味がない。
音楽以外の事情を聞いて
「支援してあげたい」
と思わせるなら、それは音楽のプロではなく、支援を受けることのプロになってしまう。

さて、テレビでも取り上げられた中村久子さんという人がいる。中村久子さんは、両手両足を様々な事情で失いながら、自立して生きるということにこだわったそうだ。
編み物や裁縫、書道などに至るまで、周囲に依頼するよりも、まずは「中村久子さん自身でできるやり方はないか?」と考える習慣があったんだろうと感じる。

中村久子さんは、ヘレン・ケラーに自作の人形を贈ったことでも知られているけれど、ヘレン・ケラーや、教育者のサリバン先生の考え方にも似たところがあるように思う。

サリバン先生の著書「ヘレン・ケラーはどう教育されたか-サリバン先生の記録-」を読んでいると、「見えない、聴こえない中でも、言葉を教える方法は?」「それまでテーブルマナーの存在を知らなかったヘレンに、スプーンの使い方をどうやって教えるか?」とサリバン先生が根気よく検討し、実践していった軌跡が描かれている。根底には「ヘレン・ケラーにはこれができる能力がある。『今はできない』『今は、やり方が分からない』というだけなんだ」というサリバン先生の思いがあるように感じる。

ヘレン・ケラー自身の性質や環境(高い知能、性格、裕福な家に生まれたことなど)、そしてサリバン先生の熱心な教育のどれが欠けても、ヘレン・ケラーのその後の人生はなかったのだろうと想像できる。ワガママ放題に育てられた少女を、途方もない時間をかけてそこまで導いたサリバン先生はすばらしい人だと思う。

私に「どうすれば、これができるか?」を考える習慣がついたのは、サリバン先生や中村久子さんの考え方・生き方について知ったことが大きい。
たとえば、カラオケに行って、音程やリズムを外したまま歌ったとしても楽しいけれど、
「採点機能の中には、メロディーガイドを表示してくれるものがあるので、それを利用すればいい」
ということに、あるときに私は気付いた。これを利用して、自分の歌のレベルを上げれば、私の耳の事情を知っている人に気を使わせることもなくなるんじゃないかとも思うし、何より私自身が「歌うこと」を楽しめるようになった。先に述べた瀧廉太郎の作品「荒城の月」や「花」も、必ずといっていいほど歌っている。

ちなみに「補聴器を、もっと普及させるにはどうしたらいいか?」を考えた人がいる。その人は、あいち補聴器センターの天野慎介さんという人で、「デコ補聴器」を作成することを選んでいる。私はその人に直接会ってお話を聞いたことがあるけれど、私より年下のその人が、「補聴器の普及を」というブレない目標を持ち、常に前へ進んでいる姿に学ぶべきところが多かった。


話は少し変わるのだが、私が介護をしているとき、あるいは私が乳腺の手術を受けた経験を通して、「QOL(quality of life)」が非常に重視される時代になっていると感じた。
たとえば、乳がんの手術で腋窩リンパ節を切除した場合や、放射線治療を受けた場合など、後にリンパ浮腫が生じることがある。かつては「ともかく生命を助けるための手術・治療」が行われていたが、手術後のQOLについて考慮した手術のやり方は、という観点も大事とされているそうだ。

私は26才の頃から乳腺・消化器外科にかよっているけれど「QOLとは何か?」「QOLを高めるにはどうするべきか?」と言われても、「よく分からない」「その時になったら考える」という答えしか出てこなかった。

しかし1873年、ハンセン病がまだ不治の病とされ隔離政策が行われていた時代に、ハワイで宣教師として活動していたダミアン神父は、ハンセン病患者たちが暮らすモカロイ島で、患者のQOL向上のために尽力した。

医師ではないダミアン神父には、ハンセン病を直接的に治療することはできない。それにも関わらず、患者を隔離して見ないことにするという当時の政策とは異なる立場で、「患者は生きているんだ。だから人間として尊重するんだ」という彼の姿勢を示し続けたことがすばらしいと私は思う。

「患者のQOL」を考えなければいけないケースは、きっと増えていくのだろう。それは「これまでなら亡くなっていたケースでも、医療の進歩により命を長らえることが増えている」「患者が隔離されず、社会とのつながりを保てる時代である」ことの表れでもある。瀧廉太郎だって、現代に生きていたら、結核が理由で命を落としてしまうことはなかったはずだ。


医療の進歩や社会の改革に、期待するのも良いことかもしれない。
実際、私が23才のとき、子宮内膜症治療は偽閉経療法が主流で、私もナサニール点鼻薬を使っていた。副作用の辛さは大変なものがあったけれど、今では低用量ピルや黄体ホルモン剤が使われていて、めちゃくちゃ楽に過ごせている。
それに、メニエール病は障害者総合支援法(平成25年4月1日施行)による「障害福祉サービス等」の対象ともなっている。

ただ、私が今、思うことは「生活の質を向上させたいなら、まず自分が『どうすれば、これができるか?』と考えてみる」ことが大事だという気がする。医療や制度がまだまだ発展していない時代に、『どうすれば、これができるか?』を考え続けた中村久子さんや、サリバン先生、ダミアン神父の生き方が、それを教えてくれる気がする。

そして「私も頑張ってきたのだけれど、もうダメだ。神様が天国へおいでと言っているんだ」という瞬間を迎えるときまでに、何か1つ、2つでもいいから、瀧廉太郎が生み出したような、人の心に残る何かを生み出しておきたいと思う。

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