覚醒する!awakenは誰でもできる!!1

自分が突如覚醒した!目覚めたということに偶然性はない、必然として起こるものなのです。


よく聞くことだろう。高校野球で万年予選一回戦敗退チームが突如甲子園で優勝を争う。学校で常にビリ欠学生が東大に合格する。馬鹿と言われた男が数年後ハーバード大でMBAを取る。80kgオーバーの女性が痩せてミス日本に選出される・・・・こうした奇跡と言われる現象が世の中にある。これは奇跡と呼ぶものだろうか?絶対ありえないと言えることなのだろうか?


答えはノーだ。世の中の事象結果に偶然はない。必然的に起こり得る。我々が生きていく過程において、既存の敷かれた道を進むということはすなわち「それが一番良い方法」と自分が信じ込んでしまっているからその通りになるだけなのだ。自分が「年収200万、平凡なサラリーマンになり当たり前の結婚をして子供をもうける」という信念があるからそのように結果を導いただけなのだ。誰もそうなるべきだなんて言ってはいない。自分がそうしたいからそうしただけなのだ。


では、上記のようなことではなく、「ある日突如自分がスーパーマンになる」と信じていたらどうなるだろうか?TVで見るような空を飛び回り、悪い宇宙人を退治し地球の軌道を変えるようなことはできないかもしれないが、人間世界の中での一般人を超越したスーパーマンになれるかもしれない。そのような覚醒が自分の中で突如生まれたとしても何の不思議もないだろう。


私は高校時代に覚醒第一回を経験した。高校でビリ欠の成績で体育もダメ、音楽芸術もダメな男が突如2学年の成績で2番になり、以降卒業までトップランナーを走った。ビリ欠のことは父も母も私に絶望して近所の左官屋に丁稚奉公するように父が近所の左官屋に頼んでいたくらいだが、高校3年の初めには早稲田慶応を射程にするくらいの成績になっていた。

このまま進めば前途は明るいものだっただろうが、ある日私は自分自身にリミッターをかけてしまった。それは世間体というものであり、過去の人生経験とか自分に目盛をつけて判断するようになってしまったのである。その結果父親は自分に父親同様、生命保険の営業マンになるよう勧めたのである。それをまともに受け受験する学部も経営経済のみに限定してしまった。それから覚醒した自分をオブラートに包み、人前にさらさないよう人生を歩むことにしたのだ。


結果はどうこうというものではない。人がそうしたとか先生がそう勧めたとかそれは人のアドバイスに過ぎない。決めるのは自分自身の魂なのである。大金持ちになろうが貧乏生活になろうが、それは自分自身が常に考えて決めている。どちらが良いというものではなく、「自分の一番良い選択」を常に自分に課した結果なのだ。だから覚醒するということはどちらの結果にも導かれる。


皆さんは人生の中で覚醒した自分を見たことがあるだろうか?学校生活、仕事、結婚、出産育児、定年退職してからも覚醒は存在する。例えばある日突然見た夢がその後の人生で現実なものになることさえある。これも自己の覚醒だ。問題はその現象をどう捉えるかなのだ?「あれは私じゃない」とか「あんなことは心霊現象みたいなもの」などと思い、私同様自分にリミッターをかけオブラートに包んでしまってはいないだろうか?後で触れるが筑波大学教授の村上和雄先生が著作された「生命の暗号」の中で遺伝子というものがどのような性質なものであり、どういう作用を及ぼすのか表現されているので遺伝子に興味がある人は是非一読された方が良いだろう。遺伝子と覚醒とは深い関係にあるからである。


自分にリミッターをかけない生活


日本という国の性質は非常に個性的な生き方を歓迎しないものだ。例えるなら「過剰にブレーキがたくさん搭載されている車」だ。単純に車の運転ではフットブレーキとサイドブレーキだけで十分なものだが、「個性ブレーキ」「表現ブレーキ」「外観ブレーキ」「学歴ブレーキ」「育ちブレーキ」「コンプライアンスブレーキ」「個人情報保護ブレーキ」などいろいろなブレーキが搭載され、いつも安定走行の邪魔をする機能が多すぎる。アクセルを踏むと、突如「学歴ブレーキ」が効き、車が止まる。車の画面を見ると「あなたには十分な学歴がありませんので、30km制限にしました」など。こんなブレーキが働いてしまうと走るものも前に進めなくなる。


元来島国である日本は社会の枠を超え大きく世に羽ばたく人材を認めない国柄であった。農耕民族の血筋から突如自分に目覚め枠から飛び出るということは、もともと従事していた仕事を全部放棄することと等しい。田んぼの管理をしていた息子がある日「総理大臣になりたい」といい家を飛び出る事ほど社会や家族において迷惑なことはない。常に自分にリミッターをかけ「脳ある鷹は爪を隠す」生活を営む事を誰もが歓迎していた。日本が成長過程を進んでいた時代はそれでよかったのかもしれない。


しかし、世界全体がグローバル経済になるといちいち爪を隠した鷹のふりをしていても世界中の人は誰も認めてくれない。黙っていて「良い子」のふりをするより、議論で打ち負かす子の方がはるかに評価されるのだ。残念ながら今までの学校教育は点数主義で、良い点を取ったものだけが社会の王道を進めるという事を教え込まれている。なので議論に参加し議論を行う教育を何もやっていない。

日本的な謙虚な姿勢というのは評価出来る。私が中国にいた頃、中国人は皆「日本人は謙虚で礼儀正しい」という評価をしていた。当の中国人の中でも日本人の謙虚さを理解し、自分もそうなりたいと考える人たちは少なくなかった。

しかし、心の謙虚さといざ行動に出る際に自己にブレーキを無闇にかけ、「脳ある鷹」のふりをするのは違うのではないか?

日本のヒエラルキー社会において、後輩が先輩を超えて出世、抜きん出ることは長らくタブーとされていた。最近は若い人間でも素晴らしい評論や発表を行うことは増えてはいるが、相変わらず年配の人間からは煙たがられる傾向にある。


いっそのこと皆自分の生活にリミッターをかけることをやめてはいかがか?


最近若者、特に30代から40代にかけての人間が奇妙な事件を犯している。通り魔、自動車の暴走、麻薬、学校職場での過剰ないじめ、理由を調べると「(殺すのは)誰でも良かった」という意見ばかり。自己にリミッターをかけすぎ、ある些細なきっかけで膨れ上がったストレスが突然爆発しているようにも傍から見て思える。これはリミッターをかけた生活を続けた果ての姿のように思えてならない。


変な形で自己覚醒するなら、良い形で覚醒して欲しいと思う。


覚醒とは「遺伝子の目覚め」である。


先に挙げた村上先生の「生命の暗号」という書物の中で、遺伝子について紹介されている。人間の体には約60兆個の細胞があり、その1個の細胞の中にはなんと30億もの遺伝子データが入っているという。もちろん一生かけて使われる遺伝子情報はわずか5%程度でその大半は眠っているという。まさに人体を世界中の自然資源と捉えれば、無限の使われていない資源を皆が保有していることになる。


遺伝子というのは人間の意志によってON/OFFが可能で、使い方によってはよくもなったり悪くもなったりする。例えばある人が悩みに悩んでいたら頭髪が一夜にして白髪だらけになったという話はよく聞く。つまり人体の細胞遺伝子の「髪を黒く維持する」遺伝子をOFFにすることによって、頭髪に栄養を供給することを細胞がやめてしまったため、こうした現象が起きるのだろうと仮定している。


なるほど、病気のメカニズムももしかするとこの遺伝子が左右しているのかもしれない。つまり良い遺伝子を目覚めさせることにより、今までの自身が体験したことのないことをやってのけられる事が可能になるのかもしれない。むかしからいう「火事場の馬鹿力」もこの遺伝子を目覚めさせることにより、50kgの荷も運べない人が突然100kg以上の物を運んでしまうような事が起きる。良い遺伝子を目覚めさせた結果、自分自身を縛っていたリミッターを外すことが出来てしまうのだ。

では遺伝子はどうやったら目覚めるか?それは全て自分の身の回りに起こる事象を全てプラス思考に捉える事で目覚めるらしい。科学的にどう根拠を説明するかは何とも言えないが、プラス思考を生み出す「魂の力」を鍛える事により、それは容易く可能になる。

例えば自分がガンになれば「がんになって得るものを肯定的に捉える」、株や投資で大損すれば「これは何かの啓示だ。きっとこの先良いことが起こる」身内に不幸があれば「先立つ人が教えてくれた教訓を然りと教わるチャンスだ。」恋に敗れれば「新たな恋が芽生える。」

国破れて山河あり、とは昔の人が唱えた言葉だ。また「塞翁が馬」という中国の故事がある。愛する馬がどこかへ逃げてしまったと嘆いていたら「うん、きっと良いことが起こる。」事実逃げた馬がたくさんの子馬を率いて戻ってきた。馬から落馬し大怪我をしたら「うん、きっと良いことが起こる。」すると戦争が始まり怪我のおかげで兵役をまぬがれた、等等。


頭の中で自分の経験を語るだけなら、こんな発想はできない。またニュースやTV新聞も人の不幸を煽るだけの記事でこれを読んでいると本当に精神不安になる。なので、私は朝のニュースで交通情報と天気予報を見る以外TVや新聞を見ない事にしている。


プラス思考をずーと計測するのは大変に思うかもしれない。難しければいつも楽しいことを考えておれば良いのだ。嫌なことは何もしなければよい。「えっ?嫌いな上司が会社にいるよ。」そう思ったらその人は同じ会社の人と思わず、他人の会社の社員だと思えば良い。その嫌な上司のいる会社に自分は手伝いに行っていると思えば何も怒ることもなくなるだろう。



頭で考えるのはやめよう。

私も以前は全て頭で考え行動していた人間だ。頭で考えるというのは、過去の知識や経験で自分の全ての思考や行動を制御するということになる。

頭で考えるのは人の日常行為だ。しかし常に頭で考えると新しい考えやヒントが何も出てこない。なにかこんなことをしてみよう!と思った矢先「待てよ、これで失敗したらどうなるだろう?」「誰が責任を取るのだ」と新しいことに対してブレーキをかけることになる。

頭で考えるのは出来る限り避けるべきだ。せっかくの良い発想やアイデアをみすみす潰すことになりかねない。頭は理性を働かす程度で動いてもらえればそれで良い。

私は心でものを考えることを心がけている。時に頭が勝手に働き出し自分の行動を制限しようとする。「お前さん、また暴走に出ようとするね?恥ずかしいからやめたら?」

私は怒り、頭に対し怒り飛ばすのだ。

「私の頭脳よ。大したこともないくせに勝手に人生論を語るな!この野郎!」

ある人の書物を読んだ。実は病気の原因を作っている根源は個々人の頭にあるらしい。ガンも不治の病もみな頭が勝手に作っているとの話だ。

科学的根拠はさておき、いい加減今度は「頭を騙す」ことをしてみたらいかがだろう?


人と違うことをしてみよう。


最後に覚醒への一歩は自分の思考と行動パターンにある。今までの重い鎧を捨て去り、全く裸の自分に戻ってみよう。そう、生まれた頃に近い自分に戻るのだ。

赤ちゃんは人との群れの中で協調助け合いで生きようという気持ちはない。まず自分を見て、自分を尊重してという気持ちに近いはずだ。人との協調や助け合いはもっと先になって教わるものだ。赤ちゃんの年齢に近ければ近いほど、その考えや行動は純粋そのものである。


残念なことに人間は歳を重ねる度に常識という鎧を着せられる。特にこの日本はその度合いがあまりに過剰すぎる。私の学生の頃はちょうど学生運動が鎮火された70年代後半で、学校は皆左翼思想を撃滅するために人の個性や外れた考えに対し潰しにかかった。その結果「没個性の平凡な点取り秀才」ばかりがもてはやされるようになったのだ。

だから、音楽が好きで教室でギターを弾いているだけで教師から敵視され、内申書にひどく書かれまともな大学に進学できなかった同級生をたくさん見てきた。


今学校が荒れているのはこの教育をただ継続しているからに過ぎない。しかしもう時代は変わってしまった。「没個性の平凡な点取り秀才」ばかりを集めた企業はいま大企業とはいえ傾いているではないか?没個性の教師が没個性の子供たちを生み出す、まさに「画一化工場生産」がフル操業していた時代の申し子たちばかりだ。

大量生産、大量消費の時代ならこのやり方は価値があった。しかしいまの時代、誰が画一化された商品を喜んで買うのだ?誰が人と同じ行動をしてみたいと思うのか?みんな人と違う事をすることに喜びや価値をを見出すではないか?


人と180度違う視点でモノを考え、行動してみよう。今はそういう意味で素晴らしく自分の才能を発揮できる時代だ。誰が物言いしようと、誰が反対しようとそんなことは皆馬耳東風にしてしまえば良い。


自分の生活にリミッターをかけず、人と違うことを考え行動し、頭で考えるのをやめにし心を研ぎ澄ませ、眠っている自分の遺伝子をONにする、この繰り返しをすることであなたはきっと覚醒する。私はそう信じる。


今度うちの社の会合で「合同坐禅会」を鎌倉で実施する。坐禅もまた覚醒のための良い手段だと思う。


次回はもっと「魂の目覚め」についてお話したいと思います。今宵はここまで・・・・・



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