オリビアの発音、ブルースの蹴り、置換積分は美しい

オリビアの発音、ブルースの蹴り、置換積分は美しい

唐突だが、私はこの原稿を近所の「如庵」という喫茶店で書くことが多い。モーニングがとても美味しい。バツイチになってから、朝食はシリアルが多かったが、最近はここのモーニングを利用させてもらっている。

オリビアの歌がながれている。発音が美しい。あなたは「英語を身につけよう」と決意したことはあるだろうか。私は、英語検定1級に合格したとき、英語に対する執着が消えていった。

「理科と社会の指導」のため、塾生の子に協力してもらい地元の中間・期末テストを収集して解答を作った。10年もすると何を聞かれても答えられるようになり「そろそろ終わりだな」と感じた。

次に、高校数学の指導をするために高校数学の復習を始めたが、京都大学を7回受けて成績開示をしたら、英語は8割、数学は7割となり、授業で困ることはなくなった。

オリビアの声も美しいが、置換積分の数式も美しい。神の数式をご存知だろうか。少林寺拳法は40年やっているが、ブルース・リーのアクションも美しい。

10年もすると、人の集中力は切れるのかもしれない。あるいは、ある程度は身について次のことを考えるのかもしれない。そう考えると、日本人の平均寿命から逆算すると、私にはあと「2プロジェクト」しか時間が残されていない。

30代に浮気をした。女性のことではない。名古屋大学の大学院を受験して筆記試験に合格した。学者になろうとしたのだ。英語の試験に合格した時は、通訳・翻訳家になろうと、しばらく仕事をしていた。しかし、それぞれ事情があって断念せざるをえなかった。

今にして思うと、1977年に初めてアメリカに行った時に割り当てられたホスト・ファミリーはBYU(ブリンガム大学)の物理学の教授の家だった。多くの仲間は一般家庭にふりわけられていたのに。1982年に、アメリカに渡ったときも、なぜかローガンの教育委員会の委員長の家に割り当てられた。

自分で選んだわけではない。なぜか「教育関係者の家」ばかりに割り当てられた。四日市高校で理系に進みたかったのに、文系の方が得点が高くて理系を諦め、教育学部に進んだ。

 アメリカで見た、クリスチャンの行動原理は見事で感動した。心の持ち方が美しかった。ただ、人格者のホスト・ファミリーのお母さんがある時、私につぶやいた。「私は黒人を差別する気はまったくないのだけど、黒人と話をするのが苦手で、嫌かも」。

その後も、進む道を自分の意思で決めてきたと言えない。正直に書くと、何者かに導かれてここに至ったように感じている。

まだ関係者が存命なので、詳細は書けないが、私は優しすぎる。人を切り捨てることができない。ぐずぐずしている間に、危機に陥ったことが何度もある。そういう時に想定外の出来事が起こって何度も救われた。

今年、還暦だ。熊本地震だけではない。阪神・淡路大震災や東日本大震災だけではない。私の身近でも、事故や病気で亡くなる人が何人もいる。しかし、私は生き残っている。

「神様は、わたしに何をさせようとしているのだろう?」

 バブルで大儲けしたこともあるし、夜逃げ寸前まで行ったこともある。胆石や通風で倒れたこともある。そういう経験をすぎてくると、自力で生き残ってきたと到底思えなくなった。

 学校の先生は、不良も優等生も強制的に「班」を組ませて助け合い、教えあえと言う。それなら、自分もヤクザや暴力団と助け合い、教えあえ。自分は、極道と関わらずに逃げているのに、なんで生徒に無理強いする?

 イジメる側と、イジメられる側を強制的に近づけようとする?

 そんな指示に従うことはない。逃げよ。偽善者の言うことに、耳をかす必要はない。キミの人生は、10年もすると状況が変わる。そこまで、頑張れ。生きているのは、他人の命令に従うためではない。やりたいことをやるためだ。

 人間は神の前で完全に平等なので他人へ隷属することなく自由に生きることが出来るのです。この感じ方がキリスト教の平等と自由の考え方です。欧米人が他人の思惑を考えずに自由に生きている背景にはこんな感じがあるのでしょう。(後藤和弘)

 平等という意味を、男も女も同じと誤解すると混浴を勧めるようなおかしなことになる。教師の中にも、平等を「お手々つないでゴールイン」と勘違いしている人がいる。

 特に左翼の先生は、受験を不平等と批判するあまり競争を否定する。この三重県では、競争を否定する風潮のために「学力順位を教えるわけにはいきません」と言われてしまう。

 私はクリスチャンだから、平等権の基礎になっている聖書の一節については学校の先生より分かっているつもりだ。人間は、みんな異なっている。それを否定すべきではない。違っていることを受け入れた上で、理解しようと努力すべきなのだ。

 民主主義の国は、みんな違っていることを受け入れるけれど、社会主義の人は「自分は絶対に正しい」と、常に上から目線でものごとを見る。イヤですよね。そういう人は。

  アメリカの中学校で教えていたので、どうしても比較してしまう。何もかもアメリカが良いとは言わないが、日本の学校は強制が多すぎる。学校での拘束時間が長すぎる。

 ローガン中学校のスクールランチは美味しかった。ルートビアは、こんな田舎では入手できないのでアマゾンで買っている。

 私から見ると、感動する生徒が、学校では「変人」と呼ばれている。なんで、あんなに素晴らしい生徒を「変」と言う。

  義務教育は欧米の発想で,教育が庶民にまで行きわたっていなかった時代に,国の力でどの子どもも学校に行くことを保障しようというもの。社会が豊かになった現在,その概念を考え直すことが必要だが,その際も,国家・社会の構成員としてふさわしい最低限の基盤となる資質の育成(社会の統一性・水準維持),国民の教育を受ける権利(学習する権利)の(最小限の)社会的保障という2つの目的は維持されるべき。(文部科学省)

  私は、大学生時代にある台湾人の人と知り合いになった。タイペイを旅行した時は、お父様に案内してもらい、今も友人だ。

  塾で一度だけ朝鮮人の女性講師を雇ったことがある。大学を卒業したばかりの方だった。私は自分が差別主義者でないことを誇りたい気持ちもあったのかもしれない。美人だったので、生徒のウケも良さそうだった。

  しかし、ミニスカートが気になっていた。しばらくすると、素行のよろしくない男子生徒たちの評判になった。そして、ある日男子が何人も彼女の家を訪問していることを知った。ケジメをつけないといけないと注意したら、大喧嘩になり、結局やめてもらった。朝鮮人は日本を嫌っている。

 アメリカのホスト・ファミリーのお母さんが言ったことが思い出された。私も、自分は人種差別はしない人間だと思っている。ただし、台湾人とは仲良くなれるが、朝鮮人はダメだ。

 学校の先生は、「人間は、みんな平等」として誰彼かまわず同じ「班」に押し込めて、理想が実現していると勘違いする。とても底の浅い人間理解だ。人は、そういう生き物ではない。

 夫婦でも、食事のたびに「クチャクチャ」音をたてられたら気持ち悪い。近寄って話をする時に、口臭がひどいと吐き気をもよおすかもしれない。人を愛するなんて、簡単に言わないでほしい。

 隣町に、うなぎの美味しい「錦」という和食屋さんがある。ここは値がはるので、貧乏人は近寄れない。その代わり、客層がいいので悪ガキが走り回ることがなく、落ち着いて食べられる。

  受験に真剣に向かい合った方なら、模試もなく、学内順位も教えてもらえない不安が分かると思う。三重県の中学生の気持ちが理解してもらえると思う。法律に詳しい人は、教えてほしい。「教師に生徒の学力順位を隠蔽できる法的根拠があるのでしょうか」。ジャーナリストの方には、三重県の中学生が受験校を決める貴重なデータが何もかも失われている現状を日本中に知らせてほしい。芸能人や有名人の方には、この情報を拡散してほしい。このままでは、三重県の中学生は救われない。

もう20年も前のことになる。塾の授業が終わったら、男子がひとり戻ってきて、「先生、ボクは部落出身なんですが、塾をやめさせないで下さいね」と言った。

 そういう差別を受けている生徒にとって、受験は唯一差別のない公平な制度なのだ。そこで合格して、現状から脱出しようと必死なのだ。教師のお手々つないでゴールインにつきあっているヒマはない。

 クラブは強制。制服は強制。宿題は強制。偏差値追放。順位づけ反対。輪切りの進路指導は排除。こんながんじがらめで非人間的な扱いを受けている中学生を救わなければ、日本の未来はダメになってしまう。

 坊主頭で、真っ黒の制服を着た私の中学生時代の集合写真をアメリカで中学生に見せたことがある。「これは、軍人か」「いや、違う。囚人だろう」。

 日本の若者に、自由に自分の未来を切り開かせてやってください。お願いします。

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