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16/7/14

才能がない、という才能|自分軸が見つかるまで

Image by Olia Gozha

内申点は5.0だったけど、僕は芸大に進学した。

面接官の先生「なんでこの成績でうちに来たの?」

日本大学芸術学部映画学科演技コース


その入試の最終面接で、僕の出した内申書を見て面接官の教授は僕にそう尋ねた。


「(まぁ、当然の疑問ですよね)」と僕は思った。


僕のいた高校は都内でも(まぁ割と)優秀な方の進学校。

御三家と呼ばれる開成・麻布・武蔵の滑り止めになるような高校で、生徒の進学先は大半が国立か医学部、私立でも早慶・MARCHがふつうだ。


就職先は医者、弁護士などのハイキャリアから、保険・銀行・証券などの金融系、キリンや豊田自動織機などの上場企業に至るまで、少し前の日本だったら生涯安泰が約束されていたような会社である。


周囲の人間が「医者になりたいから医学部、弁護士になりたいから法学部、経営を勉強したいから経済・経営を学べるところに」という目標からの逆算で進学先を決めていく中で、僕は芸大に進もうとしていたのだ。


疑問に感じるのも無理はない。実際、僕だってよくわらなかった。


一応学力的には一橋と早稲田が志望校だったものの、友達のようにそこで学びたいものや逆算できる目標が僕にはなかった。結局、兄が桜美林大学で舞台芸術を学んでおり、その兄に誘われるままに平田オリザさんの「もう風も吹かない」という舞台を観たのが、芸大の門を叩いたきっかけになった。


【悲報】人と違う人生を選択してきた結果

僕は常に人とは違う選択をする人生を歩んできた。


80%が公立の中学に進学する小学校では、私立の進学校を受験し、90%が国立・医学部・早慶・MARCHに進学する高校では、その年でただ一人芸術学部に進学し、芸能の道へ。


そして結果、芸能界に入ってもその中での俳優としてのあり方に疑問を感じて(詳しくはこちらに書いた)撤退。現時点では、執筆と講演を仕事にしている。


独立をしてお金を稼いでいく過程では、とにかくいろんなものにチャレンジをした。その結果、

・プレゼン、スピーチ

・動画制作

・ライティング

・カウンセリング、ヒアリング

・ダイエット、スキンケア

・SEO

・コミュニケーション

などいろんなことができるようになった。そう自己紹介すると「すごいね」と言ってくれる人も多い。でも自分の心の中には、ずっと引っかかっていた疑問があった。


それは「自分は一体何者なのか?」ということ


確かにプレゼン力はあるという自負はある。しかし、一流の企業で講義できる実績があるわけではない。動画も作れるし、文章も書けるが、それだけを専門にしている人たちのような、飛び抜けたスキルがあるわけでもない。


そう、全部が中途半端だった


偏差値60の人生

(画像出典:予備校比較ドットコム


「世界で一番標高の高い山は何か?」そう聞かれたら、誰もが「エベレスト」だと答えられる。「日本で一番大きい湖は?」と聞かれても「琵琶湖」だと答えることができる。ところが二番目となるとどうだろう?「世界で二番目に高い山は?」「日本で二番目に大きな湖は?」二番目は覚えてないものだ。


この社会には一番しか記憶されない、という残酷な一面がある。


僕の人生はずっと「1位になれない人生」だった。


わかりやすいのは学校の成績。試験勉強だけはまじめにやっていたので、だいたいどの教科も80-90点ぐらいは毎回とっていた。ところが100点がなかなか取れない。


中間試験・期末試験の順位も、学年全体で5位〜10位。ベスト3には入った記憶はほぼない。また「絶対に誰にも負けない自信がある」教科もない。極めて平均的だ。


サッカー部ではいつもベンチスタートだった。走るのも別段速いわけでもなく、テクニックに秀でるでもなく、GKからフォワードまで一通りのポジションは経験したものの、ついに高校3年の引退まで「ここ!」というポジションも定まらなかった。


よく言えばオールラウンダーだったのかもしれないが、自分より上手いオールラウンダーは何人もいた。



大学も、芸術大学というだけあって、周りは一芸に秀でた人間ばかり。絵がめちゃめちゃリアルに描ける人、ダンスがとてもカッコよく踊れる人、意識するでもなく自然体なお芝居が出てきてしまう人、いろんな人がいたが、僕は芸能の分野でも他人に誇れるものを見出せなかった。


芸能界を退いてフリーランスになって、確かにいろんなことができるようになった。だけど、自分が誰にも負けないものはなんなのか?自分にしかできない仕事はなんなのか?それが全然わからない。


スポーツでも、勉強でも、仕事でも、(恋愛でも?)、どんな分野でも何かを不得意だと感じたことはない。いつも「ある程度まで」はできる。でも、そのあとのトップ3%にいくことができない。僕の人生はいつだって偏差値60の人生だった。


「どの分野でもできるが、どの分野でも一流になれない」

「自分には才能と呼べるものがないのかもしれない」。周囲の人間が結果を出していく中で、僕はずっと才能を持つ人たちに憧れていた。


決死の覚悟で乗り込んだ大阪での闘い

2015年の3月、単身大阪に乗り込んだのは、そんな自分を変えたかったからに他ならない。


その時の僕は、1年間くらいずっと売り上げの変わらない時期が続いていた。環境を変えて、コネも何もない状態で結果を出して東京に戻って来る。それがブレイクスルーを起こすと思った。


「これが最後のチャンスだ。ここで人生を変えられなければ何も変えられない。」そう息巻いていた。



結果は



惨敗だった。


売り上げは上がらずに、貯金を食いつぶし、ちょっとした借金を背負って帰って来るはめになった。


やっぱり俺はダメなんだ。環境を変えても、やらなきゃ生きていけない状況になっても、成果を上げることができない人間なんだ


そうやって自分を責めた。自分のやりたいことも夢も全部投げ出して、夢を追いかけるのをやめたくなった。


家の近くの商店街に一枚280円のお好み焼きを売っている屋台があって、それを晩飯代わりに食べるのが楽しみだった。きさくなおばちゃんとの会話にいつも癒されていた。


でも、そのお好み焼きですら食べる気が起こらないくらいの、


孤独、焦り、不安、、、、


いろんなものが一気に襲ってきたような感じだった。


敗北宣言をしようと思ったのに、させてもらえなかった

2015年、11月21日の土曜日、朝8時。梅田駅から少し離れたところにあるヒルトンホテルのラウンジには、爆買いに来ているのだろうか、富裕層らしき中国人観光客一家が楽しそうに話をしていた。


その日、僕は、大阪行きのきっかけをくれた恩師に、事実上の敗北宣言をするための時間を設けてもらっていた。


恩師「いいんじゃない?東京に戻ってやり直せば。」

「え…?」

恩師はひょうひょうとした顔で答えた。僕は「やり直していい」という言葉をすぐに受け取れなかった。

僕にとって大阪での成功は最後の砦。これで結果が出なければ、すべてがダメになる。そういう思いで、大阪に乗り込んだ。


だからこそ「戻ってきてもいい」と言われたことが、すぐには理解できなかった。

恩師「そもそも、地方への進出とか事業の立ち上げとかって、企業でいったら管理職や役員のやる仕事だから。できなくても、まぁしょうがないんじゃないの?」

「そうか、できなくてもいいのか。」そう思った瞬間に、涙が溢れ出していた。思えばずっと「できなきゃいけない」と思い続けてきたのかもしれない。

恩師「今の状態で諦めたら、将来どこかで「あの時俺諦めたからな」って振り返る時が来るよ。それは事業の終わり方としてはいい終わり方ではないよね。」

「確かに、それは嫌ですね。」

恩師「東京に戻ってくるのであれば、それまでに大阪での経験が「失敗」で終わったのではなくて、何かしらの「プラス」だったと解釈できるようにはなっておいていた方がいいよ。」

「「失敗」ではなく、「プラス」だった…?」

過去を編集する、という技術

事実は一つしかないが、解釈は無限に存在する


何回も聞いたことがあるセリフだが、この時ほどこの考え方が腑に落ちた瞬間はない。


僕はいつの間にか、「大阪進出の失敗」を勝手に頭の中で「才能がないことの証明」に書き換えてしまっていた。


大阪での事業が思い通りにならなかったのは事実。ただし、それを自分がどう解釈するかで、自分の過去も、今も、そしてその延長上にある未来すらも決まってしまう。

だとしたら、この経験が自分の未来にとって、どれだけ意義のあることだったのか、その意味づけを変えようと思った。


そこで僕は、大阪での経験で失ったものではなく、得られたものにフォーカスをして、自分の未来につなげるようなものがないかピックアップしてみることにした。


その中の一つに、本業とは異なる分野での活動ではあったが、演劇のワークショップをやった時の気づきがある。


ワークショップの参加者の中に、「自己表現」とは対極にあるような、ものすごく内気そうな50歳くらいのおばちゃんがいた。その人は最初「いやいやもう私が演技なんてそんなん無理やわ」というスタンスだったが、いざ始めてみるとこれが面白いもので、


一番輝いたのはそのおばちゃんだった。


そのおばちゃんはフィードバックの中で「自分でもこんなにハツラツとした表情になれるとは思いませんでした」と言っていた。


この時にそのおばちゃんは間違いなく「私、もっと自分を表現していいんだ」って思ったはずだ。

詳しくは聞かなかったが、きっとあのおばちゃんは、周囲の目を気にして本当になりたい自分を押し殺すような人生を過ごしてきたのではないかと思った。


演劇、またはお芝居というものは世間一般的には「観るもの」だ。しかし、僕にとっての演劇の役割は、「自分の心の中の”ざわつき”を発見すること」だと思っている。”ざわつき”を明確に言葉で定義するのは難しいのだけど、「感情の振れ幅」だと解釈してもらって構わない。


好きな人のことを思うと胸がドキドキすることも、上司から理不尽に怒られてイラっとすることも、アフリカの飢餓の子どもたちを観て感じるあの何とも言えない気持ちも、全部が「ざわつき」だ。何だかスッキリしない、モヤモヤするこころの揺れ。何だか胸の奥に波風の立つ感じ。それが「ざわつき」。


おそらくあのおばちゃんは、自分のこころのざわつきに気づいたはずだ。「自分をもっと表現していいんだ」と思ったおばちゃんの人生は、これから変わるかもしれない。


「これはすごいことだ。これが演劇の力だ。」

そう確信した瞬間だった。


・・・


そのことを思い出した時に、同時に僕もあの大阪の地で「ざわついていた」ことに気づいた。

いつもずっと誰かと比較しては苦しんできたけど、周りは関係なく、もっと自分を表現していいんだ

僕自身がそれに気づいた瞬間だった。



周りを気にして、自分の才能を潰してしまう。

それはなんてもったいないことだろうと思った。


自分にしかできない仕事を見つける方法

さて、ここでまたあの質問に戻ろう。


いったい自分は何者なのか?


・プレゼン、スピーチ

・動画制作

・ライティング

・カウンセリング、ヒアリング

・ダイエット、スキンケア

・SEO

・コミュニケーション


これらのスキルは、自分を表現するツールでしかない。そのスキル自体がアイデンティティになることはありえない。では何がそのアイデンティティ=「自分は何者なのか」を確立するのか?


それを解決したのが、僕の場合はストーリーテリングの考え方だった。


「ストーリーテリング」とは、伝えたいメッセージを、印象的な体験談やエピソードを通して語ることで、聞き手に強く印象付ける手法のことを言う。


ストーリーはその人にしか語れないもの。それが仕事のアウトプットにつながれば、当然その仕事は自分にしかできない仕事、になる。


ストーリーテリングには「点と点を結ぶ」作業がある。スティーブ・ジョブスの「Connecting the dots」がそれだ。僕に当てはめた場合、これらのスキルがどのような線で結ばれるのか?


それが僕の場合は「こころのざわつきに気づいてもらうこと」という線だった。


自分が人前でプレゼンをするのも、誰かにスピーチの仕方を教えるのも、SEOをかけて何かの文章を書くのも、動画を制作するのも、痩せたい人をカウンセリングしアドバイスをするのも、

全てがその人の「こころのざわつきに気づいてもらう」ようなコミュニケーションをとるためのツールだったということだ。


有名大学を受験することをやめて、演技の道に進もうと思ったのも今思えば必然だったのかもしれない。


この「ざわつき」は日常生活の中で感じたとしても見過ごされてしまいがちなもの。その感情に振り回されることはあっても、どうしてその感情の揺れが起きたのか、真剣に考える機会はものすごく少ない。でもその「揺れ」にこそ、自分らしさが隠れている


僕は大阪での経験を通して、そのことを身をもって知ることができた。

だからこそ、その重要性をありとあらゆるツールを使って、一人でも多くの人に気づいてもらうことを使命にしたらいいんじゃないか?


そう思えたのである。


そんなの結果的にこじつけただけじゃないの?と思われるかもしれない。しかし、人生におけるストーリーは、最初からクライマックスを描くことができない。過去に遡って編集することでしか、物語を描くこことがそもそもできないのだ。


しかし、今までの過去が一本の線で結ばれた時、そこにはストーリーが生まれ、未来へのシナリオすら描くことができる。その過去から現在、未来へと続いていく一本の線こそ、自分のアイデンティティであり、自分軸であり、ミッションやビジョンのようなものになりうるのだ。


その自分にしかない軸(=人生というストーリーから導き出された自分の価値観)を通じてアウトプットされるパフォーマンスは、自分にしかできない唯一のものである。



では、この自分軸を使って、どのようにTOP3%の人間になればいいのだろう?


誰でも簡単に1万に1人の人材になる方法

(画像出典:「藤原和博のよのなかnet」)


藤原和博の必ず食える1%の人になる方法」という本がある。藤原和博さんは、リクルートで東京営業統括部長、新規事業担当部長などを歴任後、義務教育初の民間校長として杉並区立和田中学校校長を務めた人だ。


その著書の中で、藤原さんは「特定の分野で1万分の1の人材になるのではなく、2つの分野で1/100の人材になることができれば、その掛け合わせで(1/100×1/100=)1万分の1の人材になることができる」と説く。


この考え方に出会った時、まさに「特定の分野で1万分の1の人材」になろうともがいて自分にとっては目からウロコが落ちるような衝撃があった。

「そうか!掛け算にすればいいんだ!!」


偏差60の人生を歩んできた僕は、正規分布で言えば、どの分野でも上位16%、つまり、およそ6人に1人の人材だったわけだ。


・プレゼン、スピーチ

・動画制作

・ライティング

・カウンセリング、ヒアリング

・ダイエット、スキンケア

・SEO

・コミュニケーション


僕の得意だと個人的には思えるスキルは全部で7つ。これらが全て6人に1人の実力だったら、それを掛け合わせるとどうなるか?


1/6×1/6×1/6×1/6×1/6×1/6×1/6=1/279,936 !!!

「俺は…279936人に1人の逸材だったのか!」


この7つのスキルひとつひとつはトップ1%の一流の技術でなくても、これらを全て持ち合わせている人は自分ぐらいしかいない。そう考えると、それぞれのスキルで周りとの競争をするよりも(それも大事ではあるが)全てを持ち合わせている自分を誇りに思うことができる。


「今まで積み上げてきたものは、何一つ無駄なことはなかった。全てがこの瞬間に掛け合わさるために、学んできたものだったんだ。」


僕は、スキルをいくつも持っている、という事実に対して、

「何をやっても中途半端な自分」から「スキルを掛け合わせて自分にしかできない仕事をできる自分」へと解釈を変えたのだ。


そうやって僕は、才能のなさを嘆いてきた自分の過去から、自分の軸を見つけ出し、自分の才能を見つけ出すことができたのだった。



◆◆◆



終わりに|自分の軸が見つからない人たちへ


「あの人みたいに能力と才能があったらなぁ」

「私は何をやっても中途半端な人間だから」

「自分はやりたいことが何なのか、よくわからない」


僕もそんな願望と挫折と不安とからスタートしました。これを読んでいるあなたも、もしかしたら同じような感情を抱えているかもしれません。結論から言うと、それらの感情は、あなたの人生のストーリーを見つめ直すことで、解決できるようになります。誰でも、です。


過去の嬉しかったこと、悔しかったこと、頑張ったこと、つらかったこと。いろんな体験をされてきましたよね。その時の「こころの揺れ」を思い出してみてください。


なぜその感情になったのか?

今の自分はその出来事をどう解釈しているのか?

全てが未来に活かせるとしたら、どう解釈しなおしたらいいのか?


そのプロセスを経ることによって、あなたの中にしかないあなたの軸があぶり出されてくるはずです。

あまりそんな感情の動くような体験をしたことがないな、と思う人も大丈夫です。これから作っていけばいいんです。その経験がなかったという「事実」が、未来のあなたの解釈によって、必ず線で結ばれる瞬間がやってきます。


だから「やっぱり私はダメなんだ」「うまくいかないんだ」なんて思わないでください。そしたらこの先の未来も全部ダメになり、うまくいかなくなってしまいます。

恩師の言葉をお借りして、あなたに届けたいことは

「今までの経験が「失敗」で終わったのではなくて、何かしらの「プラス」だったと解釈できるようにはなっておいていた方がいいよ。」

ということです。


そのことを、僕にしかできないことで伝えたくて、筆をとりました。

もしあなたの心がこの文章を読んで、少しでも「ざわついた」のなら、僕にとってこれほど嬉しいことはありません。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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