才能がない、という才能|自分軸が見つかるまで
内申点は5.0だったけど、僕は芸大に進学した。
日本大学芸術学部映画学科演技コース
その入試の最終面接で、僕の出した内申書を見て面接官の教授は僕にそう尋ねた。
「(まぁ、当然の疑問ですよね)」と僕は思った。
僕のいた高校は都内でも(まぁ割と)優秀な方の進学校。
御三家と呼ばれる開成・麻布・武蔵の滑り止めになるような高校で、生徒の進学先は大半が国立か医学部、私立でも早慶・MARCHがふつうだ。
就職先は医者、弁護士などのハイキャリアから、保険・銀行・証券などの金融系、キリンや豊田自動織機などの上場企業に至るまで、少し前の日本だったら生涯安泰が約束されていたような会社である。
周囲の人間が「医者になりたいから医学部、弁護士になりたいから法学部、経営を勉強したいから経済・経営を学べるところに」という目標からの逆算で進学先を決めていく中で、僕は芸大に進もうとしていたのだ。
疑問に感じるのも無理はない。実際、僕だってよくわらなかった。
一応学力的には一橋と早稲田が志望校だったものの、友達のようにそこで学びたいものや逆算できる目標が僕にはなかった。結局、兄が桜美林大学で舞台芸術を学んでおり、その兄に誘われるままに平田オリザさんの「もう風も吹かない」という舞台を観たのが、芸大の門を叩いたきっかけになった。
【悲報】人と違う人生を選択してきた結果
僕は常に人とは違う選択をする人生を歩んできた。
80%が公立の中学に進学する小学校では、私立の進学校を受験し、90%が国立・医学部・早慶・MARCHに進学する高校では、その年でただ一人芸術学部に進学し、芸能の道へ。
そして結果、芸能界に入ってもその中での俳優としてのあり方に疑問を感じて(詳しくはこちらに書いた)撤退。現時点では、執筆と講演を仕事にしている。
独立をしてお金を稼いでいく過程では、とにかくいろんなものにチャレンジをした。その結果、
・プレゼン、スピーチ
・動画制作
・ライティング
・カウンセリング、ヒアリング
・ダイエット、スキンケア
・SEO
・コミュニケーション
などいろんなことができるようになった。そう自己紹介すると「すごいね」と言ってくれる人も多い。でも自分の心の中には、ずっと引っかかっていた疑問があった。
それは「自分は一体何者なのか?」ということ。
確かにプレゼン力はあるという自負はある。しかし、一流の企業で講義できる実績があるわけではない。動画も作れるし、文章も書けるが、それだけを専門にしている人たちのような、飛び抜けたスキルがあるわけでもない。
そう、全部が中途半端だった。
偏差値60の人生
(画像出典:予備校比較ドットコム)
「世界で一番標高の高い山は何か?」そう聞かれたら、誰もが「エベレスト」だと答えられる。「日本で一番大きい湖は?」と聞かれても「琵琶湖」だと答えることができる。ところが二番目となるとどうだろう?「世界で二番目に高い山は?」「日本で二番目に大きな湖は?」二番目は覚えてないものだ。
この社会には一番しか記憶されない、という残酷な一面がある。
僕の人生はずっと「1位になれない人生」だった。
わかりやすいのは学校の成績。試験勉強だけはまじめにやっていたので、だいたいどの教科も80-90点ぐらいは毎回とっていた。ところが100点がなかなか取れない。
中間試験・期末試験の順位も、学年全体で5位〜10位。ベスト3には入った記憶はほぼない。また「絶対に誰にも負けない自信がある」教科もない。極めて平均的だ。
サッカー部ではいつもベンチスタートだった。走るのも別段速いわけでもなく、テクニックに秀でるでもなく、GKからフォワードまで一通りのポジションは経験したものの、ついに高校3年の引退まで「ここ!」というポジションも定まらなかった。
よく言えばオールラウンダーだったのかもしれないが、自分より上手いオールラウンダーは何人もいた。
大学も、芸術大学というだけあって、周りは一芸に秀でた人間ばかり。絵がめちゃめちゃリアルに描ける人、ダンスがとてもカッコよく踊れる人、意識するでもなく自然体なお芝居が出てきてしまう人、いろんな人がいたが、僕は芸能の分野でも他人に誇れるものを見出せなかった。
芸能界を退いてフリーランスになって、確かにいろんなことができるようになった。だけど、自分が誰にも負けないものはなんなのか?自分にしかできない仕事はなんなのか?それが全然わからない。
スポーツでも、勉強でも、仕事でも、(恋愛でも?)、どんな分野でも何かを不得意だと感じたことはない。いつも「ある程度まで」はできる。でも、そのあとのトップ3%にいくことができない。僕の人生はいつだって偏差値60の人生だった。
「どの分野でもできるが、どの分野でも一流になれない」
「自分には才能と呼べるものがないのかもしれない」。周囲の人間が結果を出していく中で、僕はずっと才能を持つ人たちに憧れていた。
決死の覚悟で乗り込んだ大阪での闘い
2015年の3月、単身大阪に乗り込んだのは、そんな自分を変えたかったからに他ならない。
その時の僕は、1年間くらいずっと売り上げの変わらない時期が続いていた。環境を変えて、コネも何もない状態で結果を出して東京に戻って来る。それがブレイクスルーを起こすと思った。
「これが最後のチャンスだ。ここで人生を変えられなければ何も変えられない。」そう息巻いていた。
結果は
惨敗だった。
売り上げは上がらずに、貯金を食いつぶし、ちょっとした借金を背負って帰って来るはめになった。
「やっぱり俺はダメなんだ。環境を変えても、やらなきゃ生きていけない状況になっても、成果を上げることができない人間なんだ」
そうやって自分を責めた。自分のやりたいことも夢も全部投げ出して、夢を追いかけるのをやめたくなった。
家の近くの商店街に一枚280円のお好み焼きを売っている屋台があって、それを晩飯代わりに食べるのが楽しみだった。きさくなおばちゃんとの会話にいつも癒されていた。
でも、そのお好み焼きですら食べる気が起こらないくらいの、
孤独、焦り、不安、、、、
いろんなものが一気に襲ってきたような感じだった。
敗北宣言をしようと思ったのに、させてもらえなかった
2015年、11月21日の土曜日、朝8時。梅田駅から少し離れたところにあるヒルトンホテルのラウンジには、爆買いに来ているのだろうか、富裕層らしき中国人観光客一家が楽しそうに話をしていた。
その日、僕は、大阪行きのきっかけをくれた恩師に、事実上の敗北宣言をするための時間を設けてもらっていた。
恩師はひょうひょうとした顔で答えた。僕は「やり直していい」という言葉をすぐに受け取れなかった。
僕にとって大阪での成功は最後の砦。これで結果が出なければ、すべてがダメになる。そういう思いで、大阪に乗り込んだ。
だからこそ「戻ってきてもいい」と言われたことが、すぐには理解できなかった。
「そうか、できなくてもいいのか。」そう思った瞬間に、涙が溢れ出していた。思えばずっと「できなきゃいけない」と思い続けてきたのかもしれない。
過去を編集する、という技術
「事実は一つしかないが、解釈は無限に存在する」
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