勇者(ヒーロー)にあこがれて 第1章 第2節

前話: 勇者(ヒーロー)にあこがれて 第1章 第1節

 弱虫ののんびり屋

 うちの父親は、海外にも営業所や現場がある建設会社に勤める、普通のサラリーマンだ。

外国語系の大学を出ていたからか、僕が生まれる前後から海外への単身赴任や出張が多かったらしい。

高校大学とずっとラグビーをやってきていて、会社にもラグビーのつてで入社したようだ。

僕が生まれるちょっと前、アフリカのナイジェリアに単身赴任していて、そこで結核にかかり、ドクターストップで日本に本帰国することになったようだ。

 その時にはすでに僕が生まれていたので、僕が父親と初対面したのは帰国した直後、つまり成田空港ということになる。

その時の様子みたいなものを映した8mmビデオを見たことがあったので、きっとそうなのだと思う。

 父親のイメージといえば、とにかく身体が大きくて、優しいけど怒ると怖い、そんな印象だ。

いわゆる、典型的な日本のお父さん、というイメージがそぐう部分もあると思う。

 そんな父親の仕事の都合で、今度は南米のアルゼンチンまで家族で転居することになった。

僕がちょうど2歳になったくらいの頃、母方のおばあちゃんが亡くなって間もなく、といったころだ。


父親との初対面が成田空港だったのにもかかわらず、僕は飛行機に対してかなり臆病になっていた。

父親が言っていたところによると、出発前はかなりぐずっていたらしく、「降ろしてくれ!」とまで行っていたらしい。我ながら、とんでもないクソガキだと思った(苦笑)。


滞在していたころは2,3歳だったし、アルゼンチンでの印象というのも、そこまではっきりとはしていない。

国際免許を取っていたのか、アルゼンチンでも両親2人とも車の運転をしていたこと。ダイハツのシャレードというオレンジ色の車に乗っていたこと。

その車に乗って母親とドライブに行ったら、父親の仕事現場の近くの底なし沼のようなぬかるみにハマり、僕たちが乗ったまま車が沈みかけてしまったこと。

洗車して帰ってきてからも、泥のかたまりがたくさんついてきたこと。

これくらいの記憶しかない(笑)。

あとは、家がディズニーとかで出てくるようなレンガ作りだったこと。ステーキやアサードといった肉料理を好きになったこと。チョコレートやキャラメル、キャンディといったお菓子が好きだったことくらいかな。

父親の会社の社用車だったのか、オペルだかプジョーだかの大きなワゴンとバスの中間くらいの大きな車にもしょっちゅう乗っていた記憶がある。

そのころから父親の影響もあって車が好きで、トミカとかもしょっちゅう買ってもらっていた。

その頃の僕の遊びといえば、家にいてミニカーで遊んだり、あとはレゴとかを自分で作って遊んだりしていた。

服をかけるのに使うハンガーを、車のステアリング、つまりハンドルに見立ててドライブごっこなんかもしていたようだ。


あとはビデオ観賞。

日本にいるじいちゃんたちにディズニーとかのビデオを送ってもらったりしていたようだが、特に好きだったのは映画。それも洋画だ。

住んでいた家は父親の会社の社宅だったのだが、会社の事務所みたいなところも近くて、そこでビデオを借りて観たりしていた。

「ジョーズ」とかを見ていたのだが、ここで、僕の人生において最初といってもいい「たたかうひと」が出てくる。


「ランボー」だ。

ベトナム戦争の帰還兵で、その時のことを振り切ることができずに、母国アメリカに帰還してからも「戦闘」を続ける兵士の映画。

ランボーという人、その映画がそういうものだとは、この時の僕にはもちろん知る由もなかった。


なぜランボーが僕の印象に残ったかというと、当時、父親が僕のために現地でランボーの銃のおもちゃをくれたからだ。

ライフルと、マグナムか何か。もちろんただ光って音が出るものや、弾丸はすべて吸盤になっていて当たっても危なくないものとかだったが、はじめて「たたかう」おもちゃをもらって、とても印象に残っている。


他に記憶があるとすれば、場所が南米なので、デセアードという町に住んでいたのだが、南の方まで父親の仕事を口実にして車で向かい、南極をみたことがあるらしい。

海の近くまで行ったので、野生のペンギンとかもいたらしい。

帰国前、アメリカのロサンゼルスに寄り道旅行してディズニーリゾートに泊まったこともある。

覚えていることといえばこれくらい。


アルゼンチンに居たのは、半年とか1年くらいだったようなので、両親に聞いてもあまりはっきりとはしないようだ。

まったく記憶にないし、ラテン系の国は好きなので、今この歳になってからももう一度行きたいといっているのだが、両親は二人とも「アルゼンチンはもういいや。」と口をそろえて言っている。


アルゼンチンから日本に本帰国してからは、父親の地元、栃木県宇都宮での生活が始まった。

はじまったとはいえ、父親の実家、つまり宇都宮のおじいちゃんおばあちゃんの家に住むことになったのだが。

ちょうど僕は3歳くらいだったので、保育園に通うことになった。

当時、JR宇都宮駅近くにあったじいちゃんばあちゃんの家から車で10分行くか行かないかのところにある、けいほう保育園。


保育園というところがどんなところなのかもまったくわからなかった。

親たちとはなれて、自分と同じくらいの年の子どもたちと一緒になにかをやるということはそれまでの自分の人生の中でも初めてのことだった。

ただ、はじめの頃は、不安だったのか何なのか、けっこうぐずっていたらしい。

送り迎えは、親たちがやってくれていたが、次第にじいちゃんやばあちゃんが車で送り迎えするようになった。


保育園では、食事は給食が出た。

家にもこんだて表が貼ってあって、少しでも保育園が楽しくなるようにと僕に読んで聞かせてくれたこともあった。

ただ、食事自体には慣れなかった印象がある。

食欲がわかなかったのかどうかは知らないが、いつも最後まで、ひとり残って食事をしていたような、そんな記憶がある。

おゆうぎとかも、まともにちゃんとやっていた覚えはあまりない。


保育園はクラスごとに分かれていたが、あるときこんなことがあった。

クラスごとに、なにか工作とかをやって、何かを作る遊びをする機会があった。

僕がいたクラスでは木の積み木を使っての遊びだったのだが、僕はイマイチ乗り気になれなかった。

そんな中、となりの僕よりも少し年上の子たちがいるクラスで、はさみやのりなどを使って何かを作る遊びをしていたことがあった。

そっちのクラスの方をまじまじと見ていたら、先生たちが気を使ってくれて、そのとなりのクラスの方へ僕を混ぜてくれた。

別のクラスに混ざって何かをやっていたのは、その時はどうやら僕だけだったらしい。


父親の仕事の都合なのか、次は東京へ引っ越すことになった。

その保育園も、引っ越しにともなってはなれることになった。

最後のあいさつの時は、先生からは「たいちゃんはこれからおやすみです。」と言っていた記憶がある。

おわかれが切なくならないようにしてくれたのだろうか。


生まれて初めての海外、そして生まれて初めての家族や親戚以外の人たちとのかかわり。


いずれにしても、僕は人と関わることに臆病な、弱虫な子どもだったようだ。

その一方で、自分の興味のあること、好きなことにはのめり込むタイプだったようだ。

著者の須見 太祐さんに人生相談を申込む

著者の須見 太祐さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。