自立神経失調症のへたれ看護師さん

★プロローグ★

私は今、双極性障害と言って

双→ハイテンション、なんでもできる様に思う、攻撃的などなど。

うつ→被害妄想、とにかく全てダメだと思う、動けないなどなど。

を併せ持った病気を抱えているところです。

医者ではないのでざっくりした知識で話してますのでそこはご了承下さい。

こんな病気をもって育児をしていくことを、きっかけからちょびちょびどお話していこうと思います。 


★1章★精神科通院開始

さかのぼれば20歳の時、専門学校で看護師を目指して5月精神科へ実習へ行った時、受け持ち患者さんには罵倒を浴びせられる、物を投げつけられる、閉鎖病棟だから、実習時間の間は何かなければ病棟から出られない。さっき、まで仲良くオセロをしていたのに急に発狂する患者さん、私にとってはかなーりベビーな世界でした。

かつ、実習チームが仲が悪いときたもんで、リーダーの私はまとめられられないことを先生からも叱咤を受け、いっぱいいっぱいでした。

無事に実習を終え開放されたとともに私の精神は限界を超えてました。


夜の雨に打たれながら下宿から実家に戻って歩いてることを探していた家族に発見されました。記憶は全くなく気づけば実家で布団に横たわってました。


ろくに勉強もせず問題児だった私によく気にかけてくれていた先生から電話があって精神科に受診することを勧められました。

学校の先生
どうした?ずいぶん休んでいるけど、実習が辛くなったのかい?
もうなにも考えられなくて、心の中が何か闇に支配されるようで体も動かす気力もないんです。
学校の先生
そうか、それなら一度病院に行ってみてはどう?
え、どこの科にいくんですか?
学校の先生
精神科だよ。
私、そんな診てもらうのじゃないと思うんですけど。。。
学校の先生
私がついて行くから大丈夫。
分かりました。


閉鎖病棟での患者さんたちを見て、私は抵抗がありましたが、先生と母が付き添ってくれるということで、受診を決意しました。


大きな病院の精神科を受診することになりました。

そこでは待合室が外から見えなく鉄の扉でふさがっている。ここに入ったらどんな人がいるのか怯えていました。そこの重い扉を開けて入ろうとすると、他の他科の患者さんの視線が痛いほど「あの子頭が変なんだ」「若いのにかわいそう」と奇異の目で見られてるんじゃないかと入るのを躊躇してしまいました。


看護学校の先生に促されて入ると特に何も普通に暮らしてそうな人ばかり、私が見てきた人と全然違うと感じました。

ただ無機質なところで、扉を閉めれば外の音は聞こえず、受付番号が先生ごとに表示されている画面。みんな特に話もせず、しーんとしている世界。ボソボソと奥で先生と患者さんが話している声。

怯えてしまい母と先生に手をさすってもらっていました。温かかった二人の手は魔法の手のように私の気持ちを和らげてくれました。


番号で呼ばれ入ると若いかなと思う先生。看護学校の先生と母が経緯を話してくれました。聞いているのかどうか、ほとんどカルテばかりを見て書き込んでいるようでした。初診でしたからカルテに書かなきゃいけないんだろうなと思ってましたが、ちょっと不快に思っていました。

学校の先生も思ったみたいで、

学校の先生
ちょっと先生こちらの話聞いていますか?
精神科先生
あ、すいません。眠れますか?
ごはん食べられてますか?
今何が不安ですか?
すぐ起きます。なんだか心の中が闇で包まれるようなことで不安になります。



そのやり取りで、今思い返してもそれで、ここから10年間、わたしの診断名となる

「自律神経失調症」と診断されました。

休息と薬物治療でやっていきましょうと、睡眠薬のロヒプノール、不安を和らげてくれるデパス、幸せホルモンと言われるセロトニンを高めてくれるジェイゾロフトが処方されました。


★第2章★療養そして新しい一歩1へ

実家での療養生活が始まりました。

倒れた5月は覚えてません。

家族によると、ずっと布団に横たわってほとんど眠っていたそうです。


6月の再診の日は母に連れられて病院へ行きました。聞かれたことも前と同じで

「はい」「いいえ」の簡単な診察でした。母さんはなにか先生に聞いていたようなようでした。


帰りの車の中、「普通に育てたのに何でこんな子になっちゃうんだろう」と自問自答しているのか、私に聞かせたいのかぶつぶつ独り言を言っていました。

それからは私がダメなんだという思考にとらわれ、自傷行為に及ぶようになってきました。

リストカットは常に、窓や壁を破る。ヘビースモーカー。

入院を勧められましたが、母は世間体がといって家で過ごしてました。


でもそこでずっと何をしても、見守ってくれていた家族がいました。


小さい頃から母親代わりの祖母でした。


リストカットや自傷をすると、つらかったね。いつもさすってくれました。

いつもいつもいつも…。

そんな祖母に時には反発し、物を投げつけたこと…。

けれど、いつもいつも側に寄り添ってくれました。

世間体のことなどものともせず寄り添ってくれました。

闇の中の一筋の光、私の中にいた小さな私の側にいてくれる優しい祖母が現れてくれました。


1つ1つ、病気の知識もないおばあちゃんは私のペースに合わせて、事をすすめてくれました。

まずは昼夜逆転にならないように、昼間は雨戸を開けて陽の光で部屋を明るくしていく。

ご飯はほとんど食べられなかったけれど、毎日ちょっとでも食べられるようにゼリーやプリンを、食べられるようになったら、少量のご飯から、部屋で食べていたけど、様子を見ながらダイニングにご飯を食べに行けるように付き添ってくれてました。

お風呂もそうです。体を拭いてくれてから、段階を追って自分で拭く、お風呂に入れるように促していく。

そうして私は夏頃には家で日常生活を過ごせるようになりました。


その頃、看護学校の友達が遊びに来てくれました。実習の話は特に詳しくしませんでしたが、ドジしちゃったことや、友達の近況を話して帰って行きました。

看護師のことは、諦めて違う職業を目指すか自問自答する日々でした。

その時やっていたドラマ

「ナースのお仕事」

全くもって生ぬるいW(`0`)W

実際はもっと生々しいんだぞ!!

と怒ってダメ出しをしている自分。

なんだか分からないけど、実習でみてきた患者さん、共に毎日遅くまで勉強&実習をしてきた友達、私の頑張りを応援してきてくれた先生。

思い返せば、私は看護師の道を進みたいんだなっと実感しました


よしやってやんよ!!


勉強してなかった分一からやり直そうと思って、看護大学への道をすすみました!!

しかしまあ、ちょっと高校での勉強を一二年離れただけで、こんなにも(๑>◡<๑)できなくなるとは…とにかく昔やっていた模試の復習、赤本。

息抜きにはFF8!クリアできなかったのが、ふいにやったらクリアしちゃってエンディングも、ポーっとしちゃいました_(:3 」∠)_

その頃コンビニの朝のバイトをしてました。

今やないampmで6から11までという不思議コンビニでした。朝イチのシフトでしたがオーナーが不思議でアイボの話ばかりで品出しが遅れるのに、遅いとブーブー言われてました。レジを打っても遅いし、ソフトクリームを作ったりしてたので、すさまじいアイスの形がへんてこりんで怒られてばっかりでした。でも受験勉強にということで、おさらばしてきました。

自分でもここまで自分が回復してきたのにビックリでした(๑>◡<๑)

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