『あなたの夢はなんですか』 『私の夢は希望になることです』


私が就職活動をしている時、よく『夢はなんですか』という質問をされ、私はこう答えていました。今、こうして字で見てみても、恥ずかしいことを言ってるなという印象です(笑)もしかしたら、読んでるみなさんも『こいつ痛いな』と思われてるかもしれません(笑)いや、思っているでしょう(笑)少し痛いかもしれませんが、温かい目で読んでくれると幸いです。

私は来年就職を控えた、大学4年生です。この私の23年間この夢にどう繋がってくのかを少しでも皆さんが『こいつ痛いな』と思っている気持ちから遠ざけることができればと思います(笑)

第1章(生まれてから小学校)

私の家庭は、父、母、姉、私の日本ではありふれた家族構成となっています。幼なじみもいて、いたって普通にすくすくと育ちました。ただ、問題だったのが『父親が仕事をあまりせず、浮気ばっか、母親はその父親とケンカをする毎日』でした。

そんな中、小学校一年生になった時、毎日喧嘩をしている両親を見て『いつか離婚するんだろうな』と子供ながらに思っていました。今思い返してみるとませたガキだなと思います(笑)そんな喧嘩が絶えない中でも、友達の存在が大きく、元気に過ごしていけました。バスケに目覚め、幼馴染みとともに毎日汗だくになりながらボールを追いかける日々を過ごし、勉強1割、遊び9割な子供でした。

第2章(中学生)

みんなと一緒の中学に行き、バスケ部に入り、なんら変わんない中学人生を送っていた。そんな平凡な中、私が中学二年生になった頃、母親から言われたこの言葉が私の夢の第一歩になりました。

『あなたがしっかりしてないから、私は離婚できないのよ』

中学生になっても、親はケンカが絶えない日々で私自身うんざりしていました。母親はよく父親と喧嘩をした後、お酒を呑んで、かなり精神的にきてるのか、ヒステリックになっている母親を見るのがすごく辛かったのを覚えています。深夜母親が包丁を父親に突き立て、『殺してやる』と錯乱している母親を止める毎日は今でもトラウマものです(笑)そんな日々の中で言われたのが上の言葉です。

当時中学2年生だった私にとって、その言葉は、辛いというよりかはなにか大人になるに向けた第一歩のような意味合いを持ちました。自分がバスケをやりたいからバスケをやり、友達と遊びたいから遊び、そんな毎日が普通だと考えていた自分にとってこの言葉は『自分って何も考えずに生きているんだな』と気づかせてくれるものでした。

『自分がしっかりしてないから、お母さんはこの家を出ていけないんだ。毎日喧嘩してて、なんで、離婚しないんだろうと思ってたけど原因は自分なんだ』当時の自分は本気でこう思っていました(笑)

そこからです。自分の人生は変わったなと今でも本気で思います。自分のしっかりするとは勉強を頑張って、いい高校、大学に行って、立派な社会人になることでした。

『貧乏人の子供は貧乏』『親が離婚した子供は離婚する』これ、当時の私がテレビを見ている時に見た言葉です。(もう少し柔らかな言い方でしたが)私がしっかりしようと思ったと同時に、この日本にある風潮を覆してやるというのが、私の一つの目標になりました。

『勉強頑張って、立派な企業に入って、自分の息子や嫁には不自由させないで一生を終えるんだ』そんな思いを持ちながら。私は毎日勉強していました。あの頃は、本当に、生活に必要なこと以外の時間は勉強していたと思います。

偏差値50前後だったのも70まで上がりました。中学時代のあの頑張りが下地となって今の自分がいるのだなと今でも思います。当時の自分よく頑張った(笑)

そんなこんなで、私の高校受験は全勝という結果に終わりました。

こうやって私自身は変わっていきましたが、親の喧嘩が絶えない日々は続きました。受験期の時も変わらなかったので『喧嘩がうるさくてせっかくの休めれる時間も休められない。お前らがいくら喧嘩しても知らんが、お前らのくだらん喧嘩で息子の人生の邪魔をするな』と怒鳴ったらそこから喧嘩は冷戦になりました。このときめっちゃキレて、泣きながら怒ってたのを覚えています(笑)

第3章(高校生編)

高校生になり、バスケをやめ、私は念願のアルバイトを始めました。私自身行きたかった大学が私立であったため、資金作りをするためでした。接客業をやっていたのですが、そこで仕事のいろはを教えてもらい、以降この教えはずっと私の中にあります。人生初めてのアルバイトがあそこでよかったと本気で思います。

高校一年生から、アルバイト、勉強、遊びとすごく楽しく日々を過ごしていたのを覚えています。相変わらず、親は喧嘩を毎日していましたが、慣れというのは恐いもので、なんのストレスもなかったです(笑)

そんな日々が1年過ぎ、高校二年生になった時についに、母親と姉が家を出て行く形となりました。学校から帰ると物が急に少なくなって、もぬけの殻の姉の部屋を見て『あー出て行ったのか、何にも俺には言ってくれないんだな』と悲しくなったのを覚えています。

母親にもし離婚したらどっちについていくと聞かれ、まだ財力がある母親の方についていくのが賢明だと考え『母さんについていく』と言っていたのに、蓋を開けたら私は取り残され、母は姉を連れて出て行ってしまいました。この時はさすがに泣きじゃくりました (笑)

私にとってこの行為は捨てられたも同然だったからです。

そこからは、初めての反抗期というものを体験します。さすがにちょっと荒れましたあの頃は(笑)学校も休みがち、勉強もあんまりせず、ただ、母親が出て行き、生活が苦しくなっていく自分の家を見て、初めて人生がどうでもいいと考えていたのかもしれません。成績も、クラス最下位が定位置で、毎日先生に呼び出され怒られる日々でした。『何にも知らないくせに』と今考えても子供だなと思うくらい逆ギレを先生にしていたのを覚えています(笑)ただ、学校に行って、働いて、寝る。そんな日々でした。

そんな高校2年生が過ぎ3年生になり、受験というものが、目の前に出てきました。『どうでもいい』と考えていた当時の自分を変えたのは、当時のクラスメートです。1年生の頃から学年トップの成績を取り続けていたA君。そんなA君は高2の頃から、1個上の3年生と一緒に、図書室で勉強していました。ずっとトップを取り続けているのに、誰よりも早く目標に対して動き出して、自分を向上させるためだけに、努力を続ける。そんな彼の背中に感銘を受けていました。『俺も今からでも頑張らなくちゃ』そんな気持ちに彼はさせてくれました。

そこからは、過去の自分を思い出すかのように、猛勉強に猛勉強を重ねて居ました。休日は1日15時間を目安に勉強をして、『合格』に向けて一心でした。

そして迎えた大学受験、結果は第一志望校は落ち、第二志望校への進学となりました。

後悔があるかと言われたら、今でも微妙な心境です。勉強せずに荒れてた時間を後悔してるかと言われれば後悔していると思う一方で、あの時間が、この今の自分にとってはプラスに働いていると思っているからです。実際、受験日の日、私の心境は、勉強を自分の最大限やりきったという感覚でした、不合格と知ったときもこんだけ勉強して落ちたんだから悔いはないという心境でしたなので、私は家が貧乏とかの理由ではなく、満足のいった形で、第2志望の進学を決意しました。

受験が終わり、久しぶりに家族4人でご飯に行く機会がありました。家を出て行ってから初めての母親と姉に緊張していましたのを覚えています(笑)そして母親と対面して初めて言われた言葉が『あんたよくあの大学に合格できたね、自分でも受かると思わなかったでしょ』こんな言葉をいただきました(笑)『人の努力も知らないで』こんな思いで、初めて怒り泣きを体感しました。怒りで体が震えるとはこのことかと思いました(笑)

その日はそのまま帰り後日母親から謝罪があり許したのですが、人生で一番怒った瞬間はこの瞬間ですね(笑)

第4章(大学生編)

話は少し脱線してしまうのですが『家が貧乏ならなんで国公立の大学に行かなかったの』と思われる方もいると思います。全くもってその通りです(笑)ただ、私が私立大学を目指したのは『母親を超えたかったため』『貧乏という理由で国公立大を選んだら結局貧乏を理由にしている』と考えていたからです。

小さい頃から、母は世間的に有名な大学の卒業生だということを自慢しており、それが嫌で、そこよりもランクの高い大学に行ってギャフンと言わせたいと考えていました。だから、もし母親が国公立大だったら、私もその道を選択していたでしょう。ただ、オープンキャンパスに行っていきたいと思ったのが私立だったということだけです。

大学生になり、バイトと講義、サークル、時々彼女というありふれたキャンパスライフを送っていました。大人になり、自分で使えるお金も増え、家の中は父親と自分だけの平穏が、何より自分の中で、幸せでした。

『留学に行ってみたいな』こんな気持ちが私の心の片隅にありました。しかし、学費とたまにの交際費で、アルバイト代のほとんどを持っていかれ、そんな余裕がなかったため、半ば諦めていました。

そんな誰にでもありそうな一般的な大学生活を過ごしていたのですが、大学3年生の夏休みにある決心が、私を成長させてくれたと考えています。

大学3年生の夏休み、おそらく経験したことのある人なら誰しもがわかると思うのですが、この頃に悩むことは『就活』です。

私自身も『就活』に向けて動き出さなきゃと考えていたのがその頃です。就活をはじめる第一歩はおそらく『自己研究』だと思います。私もこの『自己研究」を最初にやりました。今までの私の人生でどういうことがあったかとか色々考えていました。良くも悪くも(笑)私の人生は様々なことがあったので、話題には事欠かなかったのですが、改めて振り返ってみて『留学』というものが私の心に引っかかっていました。『お金がないから留学に行かない』『自分は留学に行きたいのに』そんな気持ちに自分はちゃんと向き合ってなかったのだなと感じました。そこからは『どうにか留学できる方法はないか』『というか、今の状態じゃ就活中なんの武器もないわ(笑)』という思いから必死になって、方法を考えました。そこで出会ったのがこの制度『ワーキングホリデー』

これは簡単に言うと日本と提携している国であれば18歳から30歳までの日本人が一年間限定でその国で働けるという制度です。この制度を見つけた時は『これならあっちで生計立てながら英語を学べるのではないか』とワクワクしたのと同時に『なぜこんなメジャーな制度を知らなかったのか、なんでもっとちゃんと調べなかったんだろう』と反省したのを覚えています。『よし!留学に行こう!』と決心し幼馴染にも『来年から1年留学行ってくる』と唐突な宣言をし、資金作りを開始しました。

大学4年生になる4月に出発と考えると私に残された期間は半年しかありませんでした。どんなに調べても約1年間ワーホリをするためには語学学校に行くのも考えると『150万円』は必要であるというのが現実でした。『半年で150万円』学生にとっては絶望的な数字でしたが、考えても仕方ないと思い朝から終電までバイト詰めの生活をしていました。運良く、3年生の前期に1年で取れる単位をほぼとっていたため、週一でしか学校がなかったので、思いっきりバイトができました。一ヶ月25万稼いだら150万円貯められるという単純計算のもと(笑)月に1日バイトない日があるかないかな半年を過ごしました。当時、ある物を売る営業のアルバイトをしていたのですが、お金の亡者になるとこんなにも必死になれるのかと思うくらい必死に営業をして、50万稼いだ月もあったくらい順調に資金作りをしていました。人間って目標できると、こんなにも働ける体力あるんだなって感心したのと、あーこんない休みなくても働けるなブラック企業でも大丈夫だ(笑)って思っていました。

そして資金が無事にたまり出発日になりました。またまた少し話は脱線しますが、大学4年生の頃に留学行くとなった時、周りからはこんな声も聞こえました『就活に逃げるための留学だろ』

『はい、その通りです。』これが私の答えでした(笑)私は、今の自分の現状を考えて、今のままじゃ就活には太刀打ちできないという思いもあって留学に行こうと思いました。(もちろん前から行きたいという思いもありましたが)たしかに、表面上は逃げです。逃げと他人に言われればそうですといってました。しかし、私は、留学をこう思っていました。『あれは成長のための一歩だった』

人間いろんな場面で二択に迫られることがあると思います。『部活をやめるかやめないか』とかいろんな二択があると思います。

私は、この二択にその時点で正解はないと思います。みんなどっちが正解だろうと思って二択の選択をすると思います。しかし、どっちの選択を選んでも正解にも、不正解にするのも自分次第だと思っています。部活を辞めたとしても、別のことで一生懸命になっ絵tそれに結果を出せればやめて正解ですし、逆に辞めて、怠惰に生活をしていたらそれは不正解だと思います。だから結局自分次第だと思っています。

そういう思いがあったからこそ、みんなの『逃げ』という言葉を黙らせるくらいの結果を出して帰ってこようと思いました。

話は戻りますが、留学出発の日。記憶を戻すと覚えているのが友達が来るまで送ってくれたことと緊張で吐きそうだと思ってたことです(笑)

そこで逃げるわけにもいかないのでどうにかこうにか出国、入国を完了させて、ついに留学生活が始まりました。

留学生活最初の悩みは『お金』でした。『ワーキングホリデー』といってもそのビザが下りない限り現地では働けないとうのが決まりでした。運悪く、私の留学した年は通常3月にはワーキングホリデービザの応募が始まるのですが、6月まで始まらず、結局ワーキングホリデーのビザに切り替えたのが7月になったため、その間もう今年は下りないことを考えて生活費は日本円にしたら5000円使えるかどうかくらいのキツキツで生活していました。1日1食生活を強いられ、さらに留学期間の前半でTOEIC900点まで乗せるという目標があったため、食べられない、でも勉強しなきゃという二重苦に苦しみました。おかげであの3ヶ月で10キロの減量に成功しました(笑)

あの頃、語学学校で私の事情をわかってくれて、食べ物を分けてくれた友達や『あなたを見ていると日本人は真面目と世界的に言われているのがよくわかるわ』と褒めてくれて、俺がそのクラスにいた約一ヶ月間、毎日ばななやサンドイッチなど私のために持ってきてくれたおばあちゃん先生など、世界には優しい人がいっぱいいるのだなと今でも思い出すと涙が出るくらい、きつかったけどいい思い出でした。

生活が安定してからは勉強にアルバイトにたまに遊びという毎日を過ごしました。そんなこんなで帰国し、就職活動を迎える時が来ました。

TOEICの目標も留学中に大きく更新した点数で達成し、自分的にはすごく自信を持った状態で就職活動を迎えました。

就職活動をしたことがある人ならわかると思うのですが、就活の一歩目はみなさん自己分析をすると思います。自分の今までの人生を振り返り、どういう夢があるのか、どういう生き方をしてきたのか、私はこれを考えることで自分の夢、目標を具体的に言語化できたと思います。もちろん留学経験やTOEICの点数、今までの頑張りを評価されたと思うのですが、この夢や生き方を言語化でいたのが、私の就職活動の成功に繋がったと考えています。

最後に

私が言いたいことは『環境のせいにしないで、自分の人生に誇りを持って、夢を持って生きて欲しい』ということです。

『私は貧乏だから』というあなたへ

私も一緒です。辛いこと、悲しいことたくさんあると思います。おそらく、険しい道がこの先にも続くと思います。ですが、自己嫌悪にならないでください。『貧乏』ということを理由にしないでください。『貧乏』という環境になったのは、言葉は悪いかもしれませんがその環境を作ったのはあなたの責任ではありません。自分のせいでそうなったならまだ納得できるかもしれませんが、そこに納得できますか?自分で人生を切り開いてください。自分は逆境に強いと信じてください。切り開いたその先はきっと自分に自信が持てます。『貧乏』を言い訳にしないでください。そこには何も生まれません。『貧乏』を逆手にとって、『自分はこんな状態でも頑張ってここまで結果出したんだ』と胸を張ってください。私は環境のせいにしたくないと言ってますが、ここだけは環境を利用しています(笑)事実は事実だしと自分の中で正当化しちゃってます(笑)結局捉え方次第だと思います。きっと頑張ってる姿を友達とかが見てくれて、キツイ時悲しい時に手を差し伸べてくれます。友達の存在は、私の人生で一番大きいとおもいます。多分親友がいなかったらぐれていました(笑)

だから、親友と呼べる人がいればなお、あなたの人生は幸せになると思います。

正直きついです(笑)泣いたことはたくさんありました(笑)努力を人に押し付けるのはどうかとおもいますが、それでも、何かを手に入れるためには努力が必要です。だから、負けないで頑張ってください。

『私は環境に恵まれているのに、頑張ってないな、他の人より劣等感を感じるな』と思っている人へ

よく、相談を受けた後に『あなたは逆境の中で頑張っているのに、私は頑張ってない』みたいなことを言われます。勘違いしないで欲しいのは『貧乏は偉くありません』日本は『貧乏で頑張ってるからえらい』みたいな風潮ありますが、それはただ単に頑張っているからえらいんだとおもいます。逆に『貧乏』でもいきてるから私は頑張らなくてもえらいんだみたいな考えは一番ダメだとおもいます。それはただ悲劇のヒロインになってるだけです。だから、もし、恵まれた環境にいるのなら、それを利用して、自分の道を進むべきです。恵まれてることにある種の引け目は感じる必要はないです。逆に、利用して、親に感謝して、様々なことにチャレンジするべきです。そうやって自分の人生をすすめば、自信は後からついてきます。頑張って下さい。

私は、親の離婚や経済環境が良くなくてなにか未来に対して不安を持っている人や、単純になにか悩みを持っている人に対して、私の人生を通してそういう人たちに対して、『この人がこんなに頑張って今を幸せに生きているのであれば、私も頑張れば幸せになれるのではないか』と思ってくれるような人生を歩んでいきたいのです。

また、今の日本にある『貧乏人の子供は貧乏』『親が離婚した子供は離婚しやすい』という日本の風潮を私の人生において覆したいです。

こういう様々な私の思いを含めて『希望』というたいそうな言葉を使わさせていただいてます。(笑)

この『カタリエ』に投稿したのも、『もしかしたら、インターネットを通じて誰かの希望になれたらな』という気持ちで投稿させていただきました。

一人でも勇気付けられたら幸いです。すごく長い文章になってしまいましたが、読んでくださりありがとうございました。

稚拙な文章失礼いたしました(笑)

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