ADEM 散在性脳脊髄炎 私の知らない世界
私の知らない世界
私は、髄膜炎で入院をして意識を失った。
一月半あまり、私の知らない世界がある。
断片的な記憶しかない私の知らない世界がノートに記録として書かれてあった。
【ADEMの記録】
私は、2009年1月末に宇和島市社会保険病院を退院した。
Yahoo検索サイトを見ていると広告が目に留まったのだった。
あなたのブログを本にしませんか?
その時、思った。
亜依が病気の経緯を記録している。
そうだブログを始めて、記録を本にして二人の人生に残そう。
こうして、ブログ『Rehabiritation Bodybuilding』が始まった。
すると、すぐに同じ病気の広瀬さんからコンタクトがあった。
ブログを始めた思いを忘れて、後遺症害の崖を這い上がる二人の戦いの交流が始まった。
まさしくそれは、戦場だった。
死ぬのか ?
生きるのか ?
そんな気持ちで自分と向き合い、広瀬さんと向き合った。
そんな交流が続いて、なんとか谷底から這い上がった。
何度か始めに思った病気の記録をブログに書こうとした。
しかし、書こうとすると思い出して…苦しくて…苦しくて…
どうしても、書き続けることができなかった。
でも、今何故、書き残そうとしているのか。
最近、映画監督の【喜多監督に聞く映画の世界 in Fukuoka】に参加をする出会いがあった。
福島さんのご縁から喜多監督、桑野ミミさんと出会い。
映画の世界を見ることが出来た。
この時、病気の時の不安だった気持ちを思い出した。
医院内で、病気のこと…、後遺症害のこと…、インターネットで探し続けた。
俺だけなのか…、一人なのか…、探し続けた…、不安、恐怖、孤独、死…、希望?
そんなことを考えてインターネットの世界を探して、さ迷う日々を過ごしていた。
情報を求めて…。
私は映画監督と出会い知った。
映画は、創り手も鑑賞者も関係なく「人の心に生き続ける」事が出来る。
だから、いつの日か皆の心に生き続ける映画を作れたらと思った。
「二人の奇跡の物語の一つ」として書き残す事にした。
【亜依の見た私の知らない世界】
ノートの記録
ADEM 2011/8/19
3年前、当時の私は何故か
「病気した事を記録しておかなければ!!」
という気持ちになりました。
使命感というか、衝動というか。
病気で苦しむ金ちゃんを横目に、自分でも何故そこまで細かく記録したのか…よくわかりませんが。
これから、その闘病日誌をもとに、私の目線で当時の状況をアップしようと思います。
今もなおADEMに苦しんでる方には、この記事で辛い現実をお伝えする事になるかもしれません。
その時は、ごめんなさい。
でも、彼は前向きにリハビリをして、徐々に回復しています。
杖をついてゴルフができるくらいに良くなっているのも現実です。
彼自身が諦めていないからこそ、私も辛い時の状況を口にする事ができるし、ブログの記事に書く事もできます。
少しでも参考になればなと思います。
【ノートの記録 1】
2008/6/14
友達とゴルフに行き、夜は飲みに出かけたが、23時30分頃のいつもより早い帰宅。
しかも、かなりしんどそう。
帰ってくるなり、「疲れたー」と言って横になる。
そのまま就寝。
2008/6/15
私が仕事で9時前に出かける時には、まだ寝ていた。
19時過ぎに私が帰宅すると、「今日は1歩もベッドから動けなかった」と言う。
この時、熱38℃
夕食のキムチ鍋を少し食べ、すぐに横になる。
「足(太もも)が痺れる」と言う。
頭痛もしていた。
ロキソニンを飲んですぐに就寝。
今思えば、6/14より以前も、昼間や夕方早い時間に帰宅し、リビングで寝ている事が多かった。
仕事が忙しい上に、ゴルフ・飲み会も多数有り。
本人は、風邪っぽく、微熱が続いてたと言うし、私の母は、異常な咳をするからおかしいと言うし。病気の前兆だったのかもしれない。
早く異変に気づいていれば…
ごめんね。
記録を付け始めたのは
2008/6/19日からなので、それまでの分は記憶の範囲で記録しました。
【ノートの記録 2】
2008/6/16
朝になっても、起き上がれない様子。
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