風が哭く

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〈風が哭く〉梗概

 この作品は、還暦を迎えた、主人公である下田正男の視点から描いてみた。

 正男は田舎の中学校を卒業し、集団就職で大阪の自動車整備工場で働くことになる。還暦を機に、田舎で同級会が催されるため、父親の葬儀以来、十八年ぶりに実家へ帰ってみる。

 祖父の死後、祖母が亡くなり、父親も数年後に亡くなる。家は母親一人になるが、歳には勝てず、施設に預けられる。わずか数年足らずで、家の周りは雑草に覆われ廃屋同然になり、家の中へ入ることすらできない。正男は実家の玄関前に立って過去を回想する。

 正男は姉や弟のように、戦地から復員してきた父親に対して心が通わず、逆に溝は深まっていくばかりである。その一つの理由は、姉は父親が戦地に出征する前に生まれ、弟は復員した後に生まれたが、正男は戦地に出征している間に生まれたのである。家族の者は「母親のお腹の中にいる時に父親が出征したから・・・」と口を揃えて言う。正男も信じて疑わなかった。ところが、それを覆す事実が出てきた。

 その中の一件として、正男は中学卒業後就職する際、戸籍謄本を村役場へとりにいった。そこで見たものは父親の欄が空白になっていたことだ。それを裏打ちするように、祖父の初盆の供養踊りの最中に、一人の老人から「血は争えない」と言う父親以外の人の名前を聞く。それ以来、正男は父親の子どもではないのではないかという疑いを抱く。

 正男の生まれ育った地区は、家も人口も半減し、空き家になり、ネズミやクモの住み処になってしまいつつあった。正男は自分の生い立ちに思いをはせながら、古くから踊り継がれている盆踊りを重ね合わせ、愛着や哀愁を織り交ぜ、高齢化が進み、地区の様子が様変わりしていく姿に、メスを入れてみた。


風が哭く

 雲の塊が移動するたびに切れ間から夏の日差しが降りそそいでくる。下田正男は実家の前に辿り着いたとたん自分の目を疑った。姉弟から事あるごとに「独り暮らしの母親が施設に入所してから八年になるが、今では実家に帰っても足の踏み入れ場もない」という話は聞かされていたが、ここまで荒れ果てているとは思ってもみなかった。正男は実家の前に突っ立っていたまま、自分の意志とは関わりなく、視界がランダムに動き回っていた。

 急きょ、正男が実家に戻ることになったのは、還暦を機に中学の時の同級会が、八月十四日に実家近くの温泉場で催される通知を受けたからである。最初は(欠席)で返事を出した後、このチャンスを逃したら、正男自身、三年前に大腸癌の初期とはいえ手術を受けたこともあり、この先いつ、どうなるか分からない。それに、何か用でもなければ実家へ帰ることはない。せっかく近くまでいくのであれば足をのばし、この機に写真の一枚でも撮っておこうという思いにかられ、発起人に追加で「出席」する主旨のを記して返信を出したのである。

        ※       

生まれ育った古城地区に正男が帰ってきたのは、父親であった下田一作の初盆以来であった。ということは、正男が厄年であったから十八年振りということになる。

 昭和二十年十二月九日、父親が戦地から復員してきた。正男は数えの六つだった。今でも記憶に残っているのは、家の前の大勢の人垣の間から、始めて見た父親の顔である。父親は正男と視線がぶつかるなり、開口一番「あの子はどこの子かい?」と、傍にいた父方の祖母に聞いていた。

「何をとぼけたことを言いよるかい。父ちゃんが戦地にいった後に、お前が生れたんだ」と、祖母は古城地区の人たちの目をはばかりながら言った。側にいた人たちは顔を見合わせて黙った。母親はその場にいたたまれずに、後ずさりながら炊事場へ引き上げ、お茶の用意にかかった。

 その日の夜は遅くまで、親戚や地区の人たちが集まって酒盛りがおこなわれていた。正男は納戸の奥に引っ込んだまま、障子の隙間から父親の一挙一動を見守っていた。父親は姉を膝の上に抱き、焼酎を酌み交している。あの馴れ馴れしさはどこからくるのだろうか。正男には不可解であった。母方の祖母は納戸にいた正男の傍にやってきて「正男、そんな所で何をしている。お前の父ちゃんだよ。父ちゃんと言って抱かれろ。何も可笑しがることはねえ。さあ、早く…」と、正男の手首を掴んで連れ出しかかったが尻込みして動こうとしない。正男は恥ずかしさもあったが、姉のように自分から父親の膝の上に馴れ馴れしく上がる勇気がない。

「いい、後からいく」と、正男は邪険に言ってのけた。祖母はくもった声で「こん子ときたら困ったもんじゃ」と、悔やみごとをぼやきながら、いつもの自慢話をする時のような誇らしい笑みは消え失せたまま納戸を出て行った。祖母が何故あのような哀しい顔をしていたのか、子ども心の正男は知る術もない。

 父親が戦地から復員してきた当時、正男は「おっちゃん、おっちゃん」と呼んでいた。すると、母親は目の色を変え、その場で言い直させた。正男と父親との間に子どもには理解できない溝が生じていたとしか思えない。父親は父親で自分から正男を抱き上げたり、用がなければ声をかけてくることはまずない。正男も母親から叱られるから「おっちゃん」のことを「父ちゃん」と呼んではいたものの、口になじまず、とっさの時は「おっちゃん」と口が滑ることがある。

 正男の下に七つ違いの弟が生まれた。弟は父親をコピーしたように目が小さく、唇が厚いところまでよく似ている。地区の人たちは顔を合わせるたびに「一作さん、諭さんはあんたの子に間違いねえよ」と、からかう。

「こればかりは、どうか分からんばい」と父親は他人事のように笑ってすませていたが、その実、顔を綻ばせて喜ぶ。正男のことは地区の人たちは申し合わせたようにおくびにも出さなかった。

 父親は古城地区では数少ない大工職人であった。腕はいい。真面目に働きさえすれば、五人の家族が食べることぐらい事欠かないが、焼酎が好きで昼間からでも飲んでいた母親は事あるごとに「焼酎を飲むなとは言わん、ただ、自分の体を壊してまで飲まんでもよかろうに」と、遠回しにぶつぶつ言っていた。

「お前からとやかくいわれるこっはねえ」と、父親は強い口調で反発しながら、飲んでいた。ところが胃を手術してからというもの、自分の手の届く位置に焼酎瓶が置かれていても、父親は口をつけようとはしない。

       ※ 

 かつて古城地区は多いときは二十数軒あった。それが今では半数近くが空き家になっている。その内のまた五戸が独り暮らしの老人である。子どもたちは町に出ていて、帰ってきて先祖代々続いた田畑を受け継いで百姓をするような奇特な者はいないのが実情である。そうなると、老人が施設へ入れられたり、病気で亡くなれば、正男の実家と同様に、家屋は遅かれ早かれ風雨にさらされながら雑草に押し潰される。数年もしない内に、焼けこけた竈の石が残っていればいい方である。

 実家の祖父母が亡くなってからは、両親の他に姉弟が三人いたが、三つ違いの姉は嫁ぎ、七つ違いの弟も結婚し二人の子どもがいた。弟の嫁は一人娘であったということで、実質的には養子に取られたようなものだ。

 実家では両親二人の生活が数年続いたが、父親は焼酎を止めず肝臓を患って亡くなった。母親はしばらく独り暮らしをしていたが、年には勝てずに八十を過ぎた頃から物忘れがひどく、食事は不規則になり、火の始末も心配になってきたので、姉と弟が相談して老人施設に入れることになった。

 もともと母親は施設に入るのを拒んでいた。そのため姉と弟が「元気になればまた帰って、百姓をすればいいじゃないか」と宥めすかして施設に預かってもらうことになった。ところが、一度入所したら、面度を見てくれる人が現れない限り退所できない。姉は嫁に行っている立場であり、姑が元気だったこともあって、じぶんの思い通りにはならない。弟は嫁の家に入り込んでいたので、相手方の許可がない限り、自分の意志は通用しない。

 これまで正男自身も母親に「大阪に出てくれば」と何度か声をかけてはみたものの「マンション生活なんか檻の中に入れられたようなもんだ」と、言って正男の嫁の母親が亡くなった時、一泊したきりである。嫁の父親が亡くなった時などは、始発の新幹線でやってきて、葬儀が済むなり最終便の新幹線でとんぼ返りするくらいだから、いくら声をかけてもくる気は毛頭ない。

 正男は中学を卒業して、集団列車で大阪の自動車整備会社に就職した。実家で生活したのは、生まれてから中学校へ通うまでの十五年間だけである。時間的なことで判断すると、大阪の生活の方が長くはなっていたものの、故郷へ対する郷愁や実家への愛着は、計り知れないものがある。

 この度の同窓会は、正男にしてみれば願ってもない機会だっただけに、予定よりも一日早く夜行列車で大阪を発った。

       ※ 

 同級会は夕方の六時からということで、正男は最寄りの中津駅から、小一時間かけて、当時通っていた小中学校の跡地までタクシーを飛ばした。時間はたっぷりある。正男は前々から小中学校の通学路だった道を、歩いてみたいと思っていたが、忙しさに紛れてそのままになっていた。

 今回はいい機会だ。通学路を歩いて実家まで帰ってみることにした。当時は牛馬が通れるほどの道幅があったが荒れ果て、通学路の側を流れていた谷の水も涸れ、野の草木に覆われて人が通れる状態ではない。それでも、所々、当時の記憶を刻む岩や椎の木が残っていた。正男は草藪を払って椎の木の所まで行ってみると、獣道と化された跡がかすかに残っていた。それ以上、奥の道に入ることは雑草に遮られて無理である。

 期待していた小中学校は、当時水路を隔てたところにL字型で校舎が建っていたが、町村合併により統廃合され、跡地は村の共有地として杉が植えられていた。当時の面影といえば苔むした門柱が、掘り出された石に混ざって積み重ねられてるだけである。

 顔見知りの人に出会わないように、遠回りであったが古城地区の人たちが共同で使用していた溜め池の側を通って帰ることにした。飼い犬が地区の人でないことを嗅ぎつけて吠え止むのを待って、地区に足を踏み入れた。

 背丈ほど伸びた雑草を、杖代わりに使っていた棒切れで振り払いながら実家の玄関まで辿り着いた。戸口の横に掛けられていた、家族の名前が書かれたプラスチック板は風に吹き飛ばされて、庭の隅に転がったままなっていた。そこには戸主であった祖父の名前、下田大介、妻のマサと続き、父親の一作、母親のツル、姉の美佐、正男と続き、弟の悟と書かれていた。正男はところどころメッキの剥げ落ちた部分あったが、その部分を塗り合わせることで正確に読み取ることができた。

 正男は玄関に手をかけてみたものの、ガラス戸はとこどころが割られ、軒は傾き、手をかけてみたものの、一人の力では開きそうにない。正男が十五年間生まれ育った家である。どちらかといえば笑って過ごした生活よりも、辛いことや哀しいことの方が多かったが、長い間に自然に消えて、残された柱や壁に懐かしさだけが染みこんでいた。

 正男は家の中へ入るのを諦め、玄関の前で姿勢を正し、仏間の方向に向かって両手を合わせたまま題目を三唱した。

 祖母の父親だった曾祖父親が娘の結婚記念に植えたというサルスベリの木は残っていた。伸び放題になっていた枝先に、小さなピンクの花房をつけていた。その先にショウロウトンボが一匹止まったとたん、方向転換したところで正男と目が合った。ショウロウトンボは見慣れない顔だと思ったのか、大きな目玉をくるりとさせるなり秋風の混ざった夏の空に飛び立ったきり、舞い戻ってくることはなかった。裏庭には石楠花の老木もあった。祖父は花の時期になると、自分の方から通りがかりの者に話を持ちかけて自慢気に見せていた。その石楠花も枝葉を落としてしまい、主幹の部分を残し、もう二度と花をつけるような勢いは感じられない。正男はガラス戸の割れ落ちた隙間から、祖父が元気な時に杉の山を売って買った仏壇の開き戸も半開きになり、ネズミの住み処に占領され、風が家の中を通り過ぎていくたびに油の切れた鈍い音をたてている。座敷の畳も広間の畳も雨漏りし、床は所々落ち、ぼこぼこに痛み自由に歩ける状態ではなさそうだ。母親が内職で炭俵を編んでいた側で、正男と姉が小縄をなっていた土間には、藁葺きの煤が落ちて四方に散りばめ、足の踏み場もない。居間に目をやると、母親が元気な頃「テレビが古くなったので買い換えたい」という話を聞いた正男が、大阪から二十一インチのカラーテレビを買って送り届けたことがある。そのテレビは居間の隅に置かれたままになっていた。蛍光灯を吊してあった鎖の片方が切れてぶらぶらしている。仏間の鴨居には明治天皇が結婚した時の写真が掛けられていたはずだが、風に吹き飛ばされ視線の届くところにはなかった。祖父が元気な時分だったら考えられない光景である。

 前に一度、姉から「家にある物で欲しい物があれば持って帰ればいい」と連絡があった。姉夫婦も弟夫婦ももちろんだが、正男にとっても交通費までかけて、家にある物を持って帰るほどの高価な物はない。金さえ出せば店には品質がよくて、しかも値段の安いものがあるだけに断った。

 以前、正男は福岡へ出張した際、足を伸ばして母親の入所している施設まで見舞いに行ったことがある。田植えの時期だったこともあって「早く帰って田植えをしなければ」と、わずかな時間に何度となく口にしていた。帰り際に「何事をするのも十年同じ仕事をしないと一人前になれんから辛抱せい」と、母親から五十を過ぎていた正男に諭すように言い聞かされた。言い回しこそ違っていたが、この言葉に似たことを子どもの時分から何度も聞かされた記憶が残っている。

 母は元気な時に、子どもや孫たちが泊まりにきた時のために、自分たちはせんべい布団に寝ていたが、綿入れの布団や毛布を何組も用意し、慶弔時のためにと食器を一式、三十組用意していた。家族のアルバムや、正男が小学校の時にもらった六年間の皆勤の賞状や姉がもらった学習優秀賞の賞状は、後生大事に仏壇の引き出しに仕舞い込んでいたが、見る影もなかった。

 実家の形をかろうじて保てるのも、長くて四、五年であろう。台風でも直撃されれば瞬く間に押し潰され跡形もなくなってしまいかねない。正男はできることなら自分の寝場所が確保できれば、実家に泊まってもいいと思い、フィルムを一本買い足して持ってきたが、足しにならずじまいだった。

 正男はその場に突っ立ったまま、もう一度仏間に向かって手を合わせた。クモの巣が張れ巡らされた実家の奥から、聞こえてくるはずもないのに、どこからともなく盆踊りの口説きが聞こえてき出した。正男は金縛りにあったように、その場に立ちすくんだまま盆踊りの口説きを聞いていると、硬直していた体が次第に解きほぐされ心が和んできた。

 この声はどこかで聞き覚えがある。そう思ったら、喉を鍛え抜いた粘りのある祖夫の語調であった。それに合わせるように、祖母のリズミカルな囃子の声が聞こえてき出した。正男は自分では涙が出しているつもりはなかったが、哀愁の染みこんだ声に誘われ目頭が熱くなるの覚えた。

       ※ 

 祖父が享年七十五歳で亡くなったのは、正男が大阪へ就職した翌年の、しかも年末の迫った雪の舞う夜であった。正男にとっては父親が復員してくるまでは、祖父というより父親的な存在だった。

 初盆の家庭では、坪庭の中央に縁台をおき、口説き手がたちが集まり、戸主から「よろしくお願いします」と口説き手の長老者に頭を下げ、そこで唐傘を渡される。唐傘を渡された口説き手は「千本搗き」の門入り踊りから始まる。


  東西南北おごめんなされ

  ハレワイサー、コレワイサー

  家ござるか、ご主人様よ

  ヨイトコセノヨイーワナー

  アレワイサーコレワイサ

  (ホイ)ヨイトコナーナ

  家にござれば、お願いがござる

  ハレワイサ、コレワイサ

  風の便りでうけたまわれば

  〈以下の囃子は同じ〉

  どこかこちらの、ご父堂様の初盆そうでよー

  さぞやご家内、おさみしゅござろう

  みんな心をうちよせまして、今宵一夜を踊ってあげよう

  坪は貸してもらうが、お世話はいらぬ

  ・・・・・ ・・・・


 仏壇前の両脇には親戚一族から供えられた提灯や盛り篭が所狭しと置かれ、その中央にお膳が置かれ、これまで故人に関係のあった者たちが飲み食いしながら、踊りの輪を見守っていた。中には盆踊りの口説きに加わる者もいれば、踊り手の輪に加わる人もいた。

「じいちゃんは踊りが好きだったので、賑やかに踊ってもらうのが一番の供養になる」と、祖母は酒を注いで回りながら声をかけていた。正男はここ、二、三年踊ってなかったが、踊りの輪の中に入って、見よう見まねをしている内に、自然に手足が動き出してくる。

 踊りの輪の外には、お盆に帰省した者や地区の人たちが、それぞれ一塊になって飲み食いしながら談笑していた。町に働きに出ていた人が結婚して、相手を連れて帰ってくる者もいれば、嫁いだ先で生まれた子どももいた。

 盆踊りは千本搗きで始まり、千本搗きで終わる。


  そこれ連中さんにゃ、願いがござる

  もはや今夜も、だいぶんおそい

  こちらのご主人にゃ、おいとまもらい

  我が家我が家と、引き取りましょう

  千秋万歳ちゃ、この珠よ

  千秋万歳、唐傘おさむ

どなた様にも、お世話になりました

  次の合いの手で、唐傘たたむ


 この一声で祖父の初盆の供養踊りの輪が崩れた。

「みなさんのお陰で義父の供養ができました。」と、主人である一作のお礼の挨拶で、踊り子たちは次の初盆の家へ移っていく。

       ※ 

 祖父が元気な頃は、正男は盆踊りだけでなく、どさ周りの田舎芝居を見に祖父の背中に負んぶされて連れて行かれたものだ。義理や人情話になると、あちこちから野次が飛ぶ。ことに継母親に育てられた子どもが、健気に家の手伝いなどしていると「そんなことまで、子どもにさせるもんがあるかい」と祖母は本気になって、継母を叱りとばしていたものだ。中入れになると、自分は食べなくても竹の皮に包んで、楽屋裏まで手作りの煮物やいなり寿司を、継母からいじめられた子どもに差し出していた。

 そうかとおもうと、両親の反対を押し切って、極道の道に染まり、父親の死に目にも会わずに放蕩していた息子が、風の便りに聞きつけて、自分の住んでいた地区まで帰ってくる。昼間は人目につくので日の落ちるのを待って家の前まで帰ってくるが、家に入れずにそのまま引き上げかかる。老婆はそれをやぶれた障子の穴から見ているが、呼び止めようとしない。

「親の気持ちが分からんのかい」と焼酎の入った老人が本気で叱りとばす。祖父は飲みかけの焼酎を手にしたまま「いいかげんに足を洗って、母親に頭を下げれば、今なら許してくれるぞ」と舞台のそでまで立っていき説教していた。役者と観衆とが一体化する時間であった。祖母は日焼けした顔を真っ赤に染め、皺伝いに落ちる涙を素手で拭いていた。

 盆踊りを祖母から正男は習ったわけではなかったが、同じ年頃の子どもたちに比べると、とうてい真似のできない手足の動きの踊りだった。

 盆踊りは初盆の家はもちろんだが、三日前には地蔵供養踊りから始まって、十三日はその年に亡くなった方の供養踊り、十七日は観音供養踊りと続き、最後は二十一日に弘法供養踊りがおこなわれる。地区の人たちは弘法様の日は、午後から地区ごとに当番に当たった家が子どもたちに、簡単な手料理で接待するのが習わしであった。正男たちは家の者から一円札を戸数分ほどもらって、地区ごとに当番に当たった家を、順番に出かけていっては手料理や駄菓子をもらっていた。夜は今年の盆踊りの納めということもあって、いつもになく口説きの人たちも日頃踊り慣れない音頭をとって、夜中の十二時を過ぎることは毎年のことである。

 ことに正男の子どもの時分は盆も正月も旧暦で行われていたので、正月が三学期に入っていることが多い。盆も夏休みが終わり九月に入っていることもあっただけに、弘法様の供養踊りの時分の夜ともなると、半袖姿では夜風が寒く感じられることもある。丸かった月も欠け、同じ盆踊りの口説きであっても、子ども心に秋の匂いの含まれた夜風に当たり、これで今年の盆踊りも終わりかなあと思うと別れが辛かった。

 盆踊りの口説きは少なくとも十四、五種のものがあった。その中でも千本搗き、左右衛門、三つ拍子、トコヤン、マツカセ、サッサなどがある。

 地区の者にとってはお祭り以外には、大きな娯楽はない。嫁いでいく先も同じ地区内か隣り地区ぐらいの狭い社会の中で生活が強いられていた。その中で盆踊りは、単なる祖霊供養行事を越えて、若者にとっては大切な娯楽の場であり、男女の交流の機会でもある。

 そのことが盆踊りをますます興隆させ、唄い継がれ、踊り継がれてきた。踊りは品よく、口説きは流暢に、いわば集団見合いの色合いが強よい。

 初盆の家庭では大抵が八月十三日の夜、供養踊りが行われていた。地区の多い時期は二十戸近くあったから、初盆がない年はまれで、多いときは四、五戸あったことがある。一戸が一時間踊ったとしても、中入れや次の家まで移動を入れると三十分はかかる。明け方までなることもめずらしくない。

       ※ 

 父親は三日と酒をやめなかった。母親が愚痴れば父親は倍になって飲む。

「こんな飲ん兵衛と一緒になったばっかりに、一生苦労がたえん」

 母親は腐す。夫婦喧嘩は絶えない。正男の目から見て、この頃、父親はただ好きだから飲んでいるのではないような気がしてならない。酒の力を借りて積もり積もった鬱積をはらしているとしか受け取れなかった。深酔した翌朝などは、目は落ち窪み、顔からは血の気が引き、目が覚めるが早いか空咳をしていた。弁当を腰に下げて仕事に出る後姿など、五十盛りの男とはどう見ても思えない。母親が悪態を並べたてると、父親はその場で一喝した。

「お前らに、俺の気持ちが分かるか。黙れ」と、この短い言葉の底に、父親にしか分らない心の傷痕がついているように思えならなかった。

 母親が夜なべ仕事で編む炭俵は一俵二十円であった。編み上げるまでに三、四十分はかかる。野良仕事の合い間に茅を切っておく。母親の編む茅の擦れ合う音を聞いていると、床下で啼く地虫の声によく似ていた。

 同じ屋根の下で生活していながら、家の者は個々ばらばらであった。仲陸まじい親子の対話もなければ、夫婦の笑いも見られない。

 その点、姉は飲ん兵衛の子にしては、成績が良い上に親孝行者だった。姉は中学を卒業と同時に、区長の世話で隣り村の造り酒屋に住み込みで働いていた。職種は事務員であったが、食事の世話から家の洗濯、掃除までさせられていたのである。世話をしてくれた区長に言わせれば「他人の飯を食わねば家にいてもしつけができない」と、恩着せがましく言うが、それは、表向きな理由であって、内情は違う。姉は借金の穴埋めでもあったし、口減らしでしかなかった。

「何も言わず辛抱してくれ。その内に正男が中学を卒業したら、必ず暇取りにいくから・・・」と、母親が夜なべ仕事をしながら姉に言い聞かせていたのを、正男は側で聞いたことがある。察しの早い姉は、むしろ自分から進んで働きに出ていった。父親はその晩もヘベれけに酔っ払って帰ってきた。

正男は両親から事あるごとに、下田家の長男であることをことさら強調され、家に残って父親の大工の仕事を覚えながら、そのかたわら百姓するようにと言われていた。当の正男自身は、両親の意見とは真反対で、口うるさい親元や古いしきたりを重んじる家、世間体ばかり気にするこの地区から逃げ出す機会を狙っていたのである。

 中学三年になって間もなく、進学するか、それとも就職するか決めなければならず、三者面談がもたれることになった。これまで正男はいくらこの家が嫌いだからといって、逃げ出す勇気もない。そうなれば卒業という機会を狙うしかない。

 その絶好のチャンスがやってきた。

 父親はこれまで授業参観に、仕事が忙しいという理由で、ただの一度も顔を出したことがないし、大工仕事が途切れているからといって顔を出すような人ではない。

 正男の家は父親より母親の意見が強かったが、こと自分の事に関しては、姉や弟に対する一方的な押しの強さとは違って、どちらかというと優柔不断なところがあった。正男が将来のことを相談しても「自分の好きなようにすればいい」と言っておきながら「お父さんとよく相談して決めない」と父親の指示に従わせるような、ちぐはぐなことを言う。

 正男は早くから母親を通して、父親の意見を聞いてもらう事にしていたが、三者面談が催されるという前夜まで、話は宙に浮いたままになっていた。

 正男はこれまで父親に対し、正面切って口答えした覚えはない。ところが、今度の就職が具体化し始めた直後であった。自分でも思いもしないことを、この時とばかりに言い募った。母親は涙ながら正男の口を塞ごうとするが、火に油を注ぎかけるようなものだ。今まで自分の中に積もり積もったごみを焼き払うかのように捲し立てた。

「俺は誰が何と言おうと、この家を出ると言ったら出る。俺がこの家を継がなくても弟がいる。俺はこの家にいてもいなくてもいいようなものだ。もうこれ以上・・・」

「正男、黙らんかい。それが親に向かって言うことかい」

 母親は必死になって正男の口を制止してきた。父親は煙草ばかり吸っていて相手にならない。正男は相手が聞こうと聞くまいと腹にたまっているものを一通り吐き出してしまわないと気分が鎮まらなかった。

「別に俺がいなくても悟さえおればいいじゃないか」

 正男と母親の激しい口論が続いた。両親に向かって、正面切って反抗したのはこれが最初で最後だった。

 母親は父親の顔色を窺いながら遠回しに「正男はあんたの跡を継がせた方がいいかなあ」と、焼酎を注ぎたしながら切り出した。正男は父親の意見を聞く前に、その場から逃げ出したい衝動にかられたが、他の人のことではなく自分のことだけに、ここはどんな悪態をつかれようと耐えるしかないと、腹を決めていた。父親は黙ったまましばらく焼酎を飲んでいた。母親も祖父母もその場にいたが、珍しく他人事のように固く口を閉ざしたまま、父親の出方を待っているようであった。

「あえて大工仕事をしたくなかったら、することはねえ」と父親は抑揚のない口調でぽそっともらし、コップに残っていた焼酎を一口で煽り、自分から席を立っていった。正男は一波乱あると覚悟していたものの、当てが外れた。

 こんなに丸くおさまるとは、正男はもちろん母親も、そこにいた祖父母も、顔を見合わせ無言の視線を交わしていた。母親は父親の背中に向かって「じゃ、正男の好きなように決めてもいいじゃなあ」と念を押した。

「俺がとやかく言う前に、お前たちの間で話は決まっているじゃだろうから」と、父親はたっぷり皮肉のこもった言葉を投げ捨てるなり立ち去った。あっけない幕切れだった。正男は子どもなりに父親と母親との短絡的な言葉の遣り取りの中から、埋め合わせることのできない溝が生じていることがあるくらい読めた。

        ※

 三者面談の結果、正男は学校の世話で大阪の自動車整備会社で働きながら、夜間高校へ通うことに決まった。提出書類の中に戸籍謄本が必要であった。早速、正男は学校帰りに村役場へ取りに行った。そこで、正男は始めて自分の家族の戸籍謄本を目にしたのである。

 とたん、予想だにないことが記されていた。父親の欄が空白で、母親の欄に、下田ツルと記されていた。

「そんな馬鹿な!」と、正男は無意識に言葉となって口を突いて出てきた。

「どうかしましたか?」と村役場の職員から声をかけられた。正男は両手で否定するなり外へ飛び出した。正男は周りを一巡し、人気のないことを確かめて、もう一度戸籍謄本を出して、一字一句見落とさないように目を通した。紛れもなく父親の欄が空白になっており、続柄の欄が長男でなく、ただ「子」と印されていたのである。二度、驚いた。

 正男は透かして見ようと、裏から見ようと父親の名は出てこない。消した跡もないし、書き忘れたとも考えられない。その横の欄に目を移したところで、また驚いた。弟の悟の欄が弐男ではなく、長男と記されていたのである。

「可笑しい。可笑しい」と九官鳥が言葉を覚え始めたときのように、正男は口の中でぼやきながら当てもなく歩いていた。村役場前のバス停を通りこし、丸山小学校前のバス停に立っていた。

 バス停に三十過ぎの女性が三、四才ぐらいの女の子の手を取って、バスを待っていた。女の子は自由になる方の小さな手で、空から落ちてくる綿雪をしきりに掴もうとしている。

 空はどんよりと曇り、綿雪は垂直に落ちてくる。正男は防寒コートを脱いでいたのを忘れていた。間もなく米田駅行きのバスがやってきた。女は娘を抱きかかえるようにして乗り込んだ。バスの運転手はクラクションを二回鳴らし、黒煙をまき散らして出て行った。

 バスが体育館の角を曲がるのを正男は見届けて、逆方向へどこへいくともなく、その場を逃げ去るように早足で歩いているかと思うと、ふっと立ち止まって考え込んでいることもある。

 もしかしたら戸籍謄本のとおり、自分は父なし子ではあるまいか。いや、そんなはずはない。何かの間違いとしか考えられないと、都合のいいように考えてはみるものの、そんな初歩的なミスをするはずはないと、その場で打ち消されてしまうのであった。

 このまま家に帰る気がしない。誰の顔も見たくない。正男は自分なりに納得いく結論を見い出さない限り、心を偽り、何ごともなかったように、両親の前で演技するだけの図太い神経は持ち合わせていなかった。

 村役場を出た時には絶え間なく降っていた雪も、古城地区の溜め池がある所まできた所で止んでいた。正男の乱れた呼吸が正常になりつつあったが、心の動きまでは鎮まっていない。

 正男は今、自分がなぜこの位置に立っているのか分からなかった。正男は当てもなく溜め池の周りを歩き、湖面に映っている冬景色を見ているうちに不思議と心が和んできた。風が吹くたびに、木々の枝に積もっていた雪が落ちて、白い粉をまき散る。

 確かに人の呼び声がした。雪の落ちた音ではない。母親のだみ声に似ていたのはいたが、正男がここにいるのを知る訳がない。ましてや父親が探しにくるようなことはまずないと、自分で勝手に決めつけているところがあった。

 正男は溜め池の周りを一巡しながら、十五歳になった頭であれこれ、過去の経緯を繰ってみたが、自分を納得させるとこまでは辿り着かない。やはり自分は父親の子ではないのだろうか。だからといって、今さら母親を責めても始まらない。お互いに傷口を舐め合うめ合うようなものだ。自分がここで何も知らない振りで通せば間題はないのだ。家族の者は表面上かも知れないが、家に残って父親の大工仕事を身につけて百姓をすることを望んでいるのだから、願ってもないことではないか。と、正男は肯定してみるが、心についた傷を癒す特効薬はみつからない。

 疑えば際限がない。今の父親も本当のことは知るまい。知っているといえば母親だけである。今、この場に至っては、どうすることもできない。原因を突き詰めていけばいくほど、周りの者まで傷口を負わせることになりかねない。と、正男が自分にそう言い聞かせていく内に、高揚していた感情が、所定の位置に納まった。

 山の天気は気まぐれだった。正男は足元の雪を拳大に丸めて池の中に投げ込んだ。.対岸まで届くのではないかと思っていたが、池の中程までしか飛ばなかった。水面に落ちた自分の黒い影が大きく揺れる。粉雪交じりの寒風が遠慮無く正男の頬を撫でていく。諦めたつもりだったが、正男は月明かりの下でもう一度、戸籍謄本を出して見直した。

「ええ、これはおかしい、自分の見間違いだったのか」

 正男は目を近づけて見ると、空白になっていたはずの父親の欄に「下田一作」という文字が黒々と印されていた。正男はしきりに瞬きした。

 こんなことだろうと思ったよ。と正男は自分の早とちりを責めた。

 それにしてもおかしい。確かに空白になっていたはずだ。と正男は戸籍謄本を上から下から、表から裏から眺め回した。すると、その内に黒々と印されていた「下田一作」の名前が、二重になり、三重になり、次第にぼやけて何をする問もなく消えてしまった。

 ほんの束の間の喜びだった。正男は雪の上に座り込んだまま、地を叩いていた。

 これで何もかもがふっ切れた。正男の顔はかつての明るさに戻っていた。水面に残響した声が消えると、何ごともなかったように凜としていた。

 溜め池を下りる正男の足は軽かった。地区の入口にさしかかったところで、提灯の明りが目に入った。正男の口から思わず声が出かかったが、母親の方が少し早かった。

「正男かい」

「・・・」 、

「たいてい心配してたよ」

 母親は提灯の薄明りの中で、ぐちゃぐちゃに歪んでいた顔で笑った。正男は母親に、父親の名前を聞き出そうと思ったが、その気持ちは頬に当たった粉雪のように瞬く間に消え失せてしまった。

「お前はもう子どもじゃないんだ。少しは母さんの気持ちも分かっておくれ」と、母親はぽつんと言ったつもりだったろうが、声が震えて最後まで聞き取れなかった。

 雲の切れ間から覗く冬の星が、二重三重に正男には重なって見えた。

       ※ 

 不幸は続くものだ。正男が大阪へ就職した翌年、祖父が亡くなった。享年六十五歳だった。医者へ罹ったらと祖父に勧めても「自分の体は自分が一番よく知ってる」と、片意地を張り、亡くなる三日前に村医者に診察してもらい、最後の薬まで飲み終わらずに亡くなった。

「なぜ、もっと早く連れてこなかったのか」と、村医者から叱られたらしい。死因は悪性の胃潰瘍だったという。

 父方の身内の者たちから「あんたの責任ではねえ。爺さんは頑固もんだったから、自分で自分の命を縮めたようなもんだ」と口々に言って祖母を慰めてくれるが、本人が嫌がっても強引に連れて行けばよかったと悔やまれる。正男は今でも忘れることはない。祖父から口癖のように「長い間にはいろいろなことがあるが、男の子はめそめそするもんじゃねえ」と、よく言われたものだ。正男はまた祖父は同じことを言っているくらいに聞き流していたが、この歳になって真意が分かれば分かるほど、言葉の持つ深さが読めてくる。

 もう二度と、正男は祖父の大きな背中に負んぶされ、あの汗臭い匂いを嗅ぐことはない。盆踊りの十八番だった抑揚にきいた「六調子」の口説きも聞くことはなかった。


 やろうなやりましょうか、六調子やろうな

 アヨーヤセヨヤセ

 親の代から、桝屋をなさる

 アヨーヤセヨヤセ

 他人に貸す枡は、八合の枡よ

 アヨーヤセヨヤセ

 家に取る枡は、一升に余る

 ・・・・・・


 正男は祖父の枕元で唱える枕教のリズムや、屍を焼く薪のパチパチ弾く音が、六調子の口説きに聞こえるのであった。

 祖父の十三回忌をすませた後、祖母は享年七十二歳で息を引き取った。正男は大阪から着の身着のまま祖母が入院していた病院に駆けつけた。祖母は正男の帰りを待っていたかのように、酸素呼吸のマスクをつけたまま「母ちゃんを大事にせんとなあ」と言った。腕に着けていた血圧計の曲線が、一旦、正常に戻ったかに見えたとたん曲線の波が小刻みになり、すーっと糸を引いたように続いた後、ぷつんと切れた。と同時に酸素呼吸の泡も、ぷくぷくと弾けて消えた。担当の医者から死を告げられた。母親は祖母の胸に顔を伏せたまま、声をたてずに涙をぽとぽとと流していた。正男は祖母の死後の処置をすませる間、廊下の窓から目に入る光景を眺めていた。

 病院と病院との限られた空間を、さまざまな形をした雲が通り過ぎていく。親戚の者たちがそれぞれあちこちに電話をしていた。祖母親のすぐ下の叔母は、夫に喪服を用意してくるように申しつけていた。正男には細かな話は聞き取ることはできなかったが、生花はしなくてはならないだろうという結論らしかった。

「正男、そんなとこに立っていないで、世話をしてやらんかい。お前がおばあちゃんには一番心配かけてるよ」と母の姉に当たる伯母から指示された。人から言われなくても分かっている。夜、休むときも祖父と祖母の間に寝ることがほとんどだった。

 地区での祖母の評判は、女性にしては気性がさっぱりしていて、くよくよするようなところはない。盆踊りだって口説きが始まっても、なかなか踊りの先頭を行く人がいないと「じゃ、わしが先に行くからついてくればいい」と男衆をさておいて踊り出すことも少なくない。アルコールは梅焼酎の梅を食べても顔が赤くなるくらい、ほとんど口にしなかったが闊達で冗談をよく口にしては、周りの者を笑わせるところがあった。

 盆踊りの囃子は踊り子が務める。声が小さかったり、間延びしていたら口説きをしている人もやる気を失う。祖母は囃子にかけても、その時、その場によって自分から囃子の文句を変えて、踊り子たちの威勢をもり立てていた。


   ハレワイサーコレワイサというところを

   ナニカココラデ、シナカエマショウナー


 と踊り子の方から口説き手に催促をしていた。


   夜もふけてきたところで、唐傘たたもうか


 と口説き手が踊り子へ聞いてくることがある。すると祖母は、自分からしゃしゃり出て囃子を返す。


ネンニイチドノ、オボンジャネエノ、ナニカシナカエマショウナー


 と、祖母は口説き手に催促する。すると口説き手も踊り子の囃子に煽られて、唐傘をたたみかけたところで、もうひとつ品をかえる。踊り子たちは疲れているが、笑顔は消えることはない。笑いながら、品をかえて踊り出す。ことに、最後の弘法様の供養踊りとなると、ついつい踊りの時間がのびる。子どもたちは目をこすりながらでも家に帰る者はいない。最後の最後まで踊りの輪の中から離れようとはしない。

 祖母は盆踊りだけではない。地区の決めごとだって「自分の利害だけいっていたら何にもきまらん。長い間には、いいこともあれば悪いこともある。ここらで話をまとめんと、いくら時間をかけてもまとまらんで」と祖父が亡くなってから、地区の常会があると自分が出席し意見を述べていた。地区の人たちは顔を見合わせながら小言を口にしていたが、最後は男衆たちを差し置いて、祖母の意見に落ち着く男勝りのところがあった。が、その祖母も病気には勝てなかった。

       ※ 

 正男は大阪へ集団就職で自動車の整備工場で働き出してから、実家や親戚で生き死にがない限り帰ってくることはない。姉や弟の結婚式は家で一泊したきりだった。正男自身の結婚式は、身内だけで挙げた。父親は入院中で出席できなかった。

 父親は養父母の死を看取って、やっとこれからという矢先に肝臓を患い、その後に、胃を三分の一ほど残して摘出してしまった。母親の言うのには酒の飲み過ぎで癌が膵臓まで転移しているらしく「長くて半年の命だろう」と申し渡されていたらしい。正男は父親が胃の手術をした際、一度顔を見せに帰った。父親はベットに横たわったまま「身から出た錆だ」と、空を見たまま口にした。正男は自分の体を壊してまで飲む父親が好きになれなかった。ところが「もう後半年の命だ」と母親から聞かされ、正男の考えがかわった。せめて好きな焼酎ぐらい飲ませてやってもよいのではないかと思うようになり、母親に遠回しに「姉や弟はどう思うか知らないが、好きなようにさせてやったら」と、言ったことがある。

「それが、あんなに好きだった焼酎が飲めんのよ」と母親は自戒の念に嘖まれたようにぽつんと言った。

 よく姉と正男は父親が焼酎を飲み出すと一人で帰れないものだから、母親から迎えにやらされていたものだ。薄暗い提灯の明かりを頼りに山道を迎えに行った。父親は焼酎が入れば入るほど威勢がよくなり、日頃は無口な人とは思えないほど、声を荒げて口論していた。これまで溜まった鬱憤を口に出せない分が、酔いが回り出すにつれて一気に噴き出す。それも相手が目上の人であろうと、どこのお偉方であろうとかまわず、不条理な事に対しては一歩もひかないところがある。すると、酒の席をいいことに相手は受け答えを避けていた。いくら父親が酔っていても言うことは間違いなかっただけに、最後は喧嘩になることが多々ある。正男と姉は提灯の明かりを手にし、父親が腰の上げるのを庭先に立ったまま待ち続けていた。正男と姉が父を連れ出そうとすると「子どもたちには関係ねえ」と怒鳴りはね除ける。自分の身の始末もできないほど酔いつぶれていても、政男や姉の言うことなど聞き入れるものではない。

 父親が出てくる時は一人で歩けない状態が多かった。正男と姉が父親の両脇を抱えて、山道を右に左に揺れながら家まで連れて帰ったことは一度や二度ではない。姉がかける一言、二言で、父親の怒りも砂時計の砂が落ちるように静まるのであった。

 医者から父親は長くて半年だろうと宣告されていたが、もともと辛抱強い正直者だっただけに、約一年近く生きながらえた。母親から「今晩が山だろう」という電話がかかってきて、正男はそのまま夜行列車に乗って帰ったが、息を引き取った後であった。父親はこれまで腹に溜まっていた不満や鬱憤を吐き出してしまったのか、死の顔は今まで見せたこともない、角の取れた丸い顔をしていた。正男が結婚し、二人の子持ちになって、父親の気持ちが読めるようになった時には、すでに時期を失していた。正男がいくら父親の名を呼びかけようと無反応のままだった。

       ※ 

 盆踊りの中に棒踊りというのがある。この棒踊りは地区の若い男女が、二人一組になって踊る。男性はタオルで頬被りし、フンドシ姿になって短い竹の棒を持ち、女性は編み笠を深く被って顔を隠し、膝から下は赤い腰巻きを巻いて、手には扇子をもって踊る。口説き文句は子どもには意味の通じない、卑猥な言葉が飛び出す。踊り手たちは囃し立てる。


今宵は、月も隠れた所で

ソレハヨカトコ、マッテタトコバイ

嫁にするなら、尻の大きい方を選べば いい

ソウチコナア、ソウチコナア

たまにゃ、つまみ食いもしてみたかろに、

オナジスルナラ、トナリノカカサンガイ イヨ


 と口説きと囃子手がかけ合いながら、男の踊り手が腰を突き出し、一回転したところで手にした棒を女性の方へ向ける。女性は手にしている扇子で棒を打ち鳴らす。一度の場合と二度叩く。一度の場合は女性から否定されたことになる。二度の場合は男性の要求を受け入れてもいい。一度か二度かは当人同志でないと分からない。

 次の口説きで、男性が一回転しながら次の女性の前に踊り出る。単純でしかも卑猥な踊りがくり返される。踊り手は未婚の男女が多いが、離婚した者や他の地区から、この踊りに参加する者もいた。中には焼酎を飲んで一杯かげんで、側にいる奧さんの手を掴んで引っ張り出して、踊りに参加する連中もいる。周りから拍手が起こる。子持ちの奧さん連中ともなると、誘われたら最初は躊躇しているが、声のかかるのを待っていたといわぬばかりにさっそうと踊りに加わる。

「そうこないと」と周りから野次が飛ぶ。笑いが渦巻く。

 この棒踊りは初盆の供養踊りこそ披露されなかったが、観音様や弘法様の供養踊りには、決まって最後のシメに踊られていた。

 待てよ。正男は棒踊りの口説きを聞いている内に、もしかしたら自分は棒踊りの晩に生まれたのではないだろうか。そうだとしたら、母親の相手、すなわち正男の父親は、一体だれだろうかと、あれこれ頭の中を過ぎる。

 父親は自分の口で、戦争にいっていた期間は五年だと言う。正男と弟とは歳が七つ違う。父親が出征したのは昭和十六年三月三十日だった。正男が生れたのは戸籍上、翌年三月二日に生れたよことになっている。

「正男が生まれたのは実際の日は、その年の一月十五日の大雪の日だった。ただ、役場へ届け出るのが遅くなったもんだから」と母親は公言していた。正男が一月十五日に生まれていれば、父親が出征する前の子であるから、実父であることが成り立つ。と結論をそこへもっていこうとする一方で、悲劇の主人公みたいに、次から次と出生の謎を創作しているもう一人の自分がいた。

 もしかしたら正男は生まれてくるはずの子どもではなかったのではないか。父親が戦争にいった間に生まれた子どもであったら、誰からも望まれず、祝福もされず、人の目を憚るようにひっそりと生まれてきたのではあるまいか。宮詣りも、初節句もしてもらえず、身内の者からも除け者扱いされていたのかも知れない。母親は勿論、実父も自分の存在はなかった方が良かったに決まっている。まして今の父親にしてみれば、口に出せないだけに精神的苦痛は大きいに違いなかった。正男は自分のような者が生まれてきたばかりに、当事者はもちろん、どれだけ周りの人たちに、精神的苦痛を与えたかしれない。

 正男はできることなら、父親の欄を炙り出し絵のように熱を加えれば、ありのままの実名が浮かび上がってきそうだったが、今更、そこまでする気は起こらない。

 祖父が盆踊りの口説きの中で


長い間にはいろいろあるもんだ

ソウチコナ、ソウチコナ


 もし、正男にしてみれば、空白になっている父親の欄に記された実父の名前より、祖父の盆踊りの口説き文句が、そのまま書かれていて欲しかった。

          ※  

 昨晩、夜半まで飲み食いしたが、目が覚めたのはいつも通り、六時三十分には目が覚めた。周りに気遣いなが床を出て、朝風呂へ入った。油にまみれた鉄屑の匂いとは違い、鄙びた温泉の町の朝のたたずまいを散策していると、子どもの時分に肌に染みついていた汚れのない空気が否応なく蘇ってきた。

「朝食の準備ができました」

 と宿の女将さんから声がかかったとたん、正男は現実に引き戻された。

「ああ、そうだったなあ!」 

正男は大阪へ帰ったら、三日後に年に一回の受けていた大腸検査へいく予約をしていたことを、ふっと思い出していた。


 終わり


 ▼正男は思い違いかもしれないが、弟や姉みたいに、父親と一緒にじゃれ合ったような記憶がない。また、父親と一つ床に入って眠った覚えもなかった。正男のひがみかも知れないが、同じ悪いことをしても姉や弟より自分の方が強く叱られていたような気がした。弟や姉の場合は、手心を加えるようなところがあった。正男が一寸でも悪戯すると容赦なく、感情を剥き出しに叱る。よく、弟と些細なことで言い争いをする。二言目は「父ちゃんに言うき」と、脅されるとたとえ正男は自分が悪くなくても、腹が立つことがあっても、父親に告げ口されることを恐れて、手を引いた。


「遺言じゃねえが、わしが死んだら、死に花はさかせんでもいいき、元気なときうまいもんでもたべたほうがましだよ」と冗談半分にいっていた。母親はそれを聞いていたので、喪主である父親に「無駄な金はできるだけかけないように」と言っていた。中には花輪や生花を飾り立てて派手に葬儀をする人がいた。そのかと思うと「せめて死に花ぐらい咲かせてやらないと可愛そうだ」という者も少なかったが、祖母はそれとはまったく逆だった。

 葬儀の華やかさを競うような風潮が残っていたが、祖父の時は別として一通りのことは自分が仕切ってやったが、生前に機会あるごとに父親や母親に「お経あげてもらったら、山でも川でも骨は撒いてもらえばいい」と言っていたのを正男も自分の耳で聞いている。

 正男は祖母にはひとかたならぬ世話になっている。どちらかというと、正男は男の子にしては気が弱い方だった。いじめられて泣いて帰ってくると、いじめた相手を責めたりはしなかった。「めそめそ女の子みたいに泣くもんがあるかい。何があった知らんが、悔しかったら同じ事を二度とせんようにせんと」と逆に叱られていた。祖母は正男の性格まで見抜いていて、意志の強い子どもに育てようと思って、心を鬼にして正男を叱りつけていたとしか思えない。決して快活な祖母であっただけに、正男が泣いて帰ったら自分から出向いていって、子どもたちの事情を聞きただして、理由もなくいじめたら叱りとばすような正義派の祖母であった。それが、何の理由も正男に聞かずして、叱り飛ばしていたところを考えると、正男は今にして祖母の心の奥深さがしみじみと感じ取れるのであった。

 祖母は自分が暇さえあれば正男を連れ出し、遊び相手をしてくれたり田畑の仕事を手伝わせていた。というり、何も仕事らしいことをしないのに「疲れただろうから、そこらで遊んでいればいい」と言って自分の目の届くところで、ひがんの一日近くの小川で遊ばせてくれていた。家に帰ると幼い頃は、自分の膝の上に座らせて、食事を摂らせてくれていた。田舎芝居や秋祭りの晩は、自分の着ていた綿入りの反転を脱いで正男の体を包み込むようにして暖めてくれていた。帰りは祖父か祖母の背中の上で、眠ったふりをして満天に散らばっている星を眺めていた。祖母は年を取ってはいたが、祖父の背中の汗臭さとは違って、祖母の背中は柔らかい布団を干したような太陽の匂いがしていたのを、今でも忘れることができない。

 祖母の死を知らされた時、正男はこれから先の自分の運命がどう変わるかまでは考えつかなかず、ただ呆然として母親の言われるままに行動を取っていただけであった。

 祖母の死が直接正男の中で寂しさを感じさせるようになったのは、仕事を終え、そのまま夜間高校へ駆け込み、授業が終えて湿り気のベットへ横になった時であった。昼間仕事している時だとか、学校で授業を受けているとはすっかり忘れているが、一人の時間になると、幼い頃の思い出ふつふつと湧き上がってくる。ことに神社に立てられている幟登りや、盆踊り口説きが聞こえて出すと、正男自身の意識の外で反応し出す。のに合わせて、田舎芝居や盆踊りの際はいつも側にいた祖父母がいないという事実を感じ取ったとたん、無性に言葉では言いしれぬ寂寥感に打ちのめされるのであった。


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古岡 孝信

昭和17年生まれ、74歳。元高校教諭。 筆歴・新日本文学賞「夏の家」全労連文学賞「消える山」新風舎文学賞小説部門最優秀賞「離婚式」全国農業新聞刊「花迎え」鳥影社刊「夏の家」「オープン・スクール」 三作とも全国図書館推薦「夏の家」「オープン・スクール」の二作品全国点字図書発刊など

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古岡 孝信

昭和17年生まれ、74歳。元高校教諭。 筆歴・新日本文学賞「夏の家」全労連文学賞「消える山」新風舎文学賞小説部門最優秀賞「離婚式」全国農業新聞刊「花迎え」鳥影社刊「夏の家」「オープン・スクール」 三作とも全国図書館推薦「夏の家」「オープン・スクール」の二作品全国点字図書発刊など

古岡 孝信

昭和17年生まれ、74歳。元高校教諭。 筆歴・新日本文学賞「夏の家」全労連文学賞「消える山」新風舎文学賞小説部門最優秀賞「離婚式」全国農業新聞刊「花迎え」鳥影社刊「夏の家」「オープン・スクール」 三作とも全国図書館推薦「夏の家」「オープン・スクール」の二作品全国点字図書発刊など

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