福島が《FUKUSHIMA》になってから

私は、ある3月の日曜日に、神奈川県相模原市の大きな病院で生まれました。母の実家がそこにあったので。けれど、産声をあげてひと月も経たないうちに、私は「福島の子」になりました。


福島県福島市。福島県の真ん中の一番上にあって、人口は30万人にギリギリ満たない街です。県庁所在地なのにあの郡山市にはちょっと気後れしちゃう、かわいい街です。小学校の社会科の授業では、「福島市は猫の形をしているね」と教わります。早口で、気さくなお年寄りが多いです。二足歩行の白うさぎと黄色くて丸々とした鳥のマスコットが、不器用ながらがんばっています。意外と、夜景が綺麗です。

私はこの街で、人並みに反抗期を過ごし、失恋で泣きじゃくり、両親を傷つけ。それでも確かに、いろんな人たちからいろんな愛を注がれて十八歳まで過ごしました。

大学進学とともに上京してからも、年に2〜3回、帰省していました。けれど、つい、家族や福島にいる友だちへの連絡がおろそかになっていきました。だって、東京には楽しげなものが山ほどあるんですもの。私と同じように地方から出てきた友人たちや、慣れない独り暮らし。不眠症の街に、ちょっと高いカラオケやお洒落なショップ。それらから得たものは、すべてが刺激的でした。ミーハーな私は、それらをすっかり気に入ってしまったのです。

よく、「東京に馴染めない」とか「都会は冷たい」とか、そんな言葉を耳にしますが、私は運良くすぐに馴染めた上、例えば学校やアルバイト先で出会う人たちはもれなく親切でした。あの素朴でかわいい街のことを、ちょっと忘れてしまうくらいに、はしゃいでいました。


さて、(きっと読者の方も「来るな」と予感していたことでしょう)“あの日”のお話をしましょう。


2011年3月11日。その日、私はちょうどまさに、福島に帰る予定でした。大学の寮の部屋で荷造りをし、「忘れ物はないかな」と部屋を見渡していたとき。突然感じた、ドンッ!という揺れ。東京でも、誰もが驚くほどの衝撃でしたね。

話は少しそれますが、私は昔っから第六感が恐ろしいほど冴える瞬間がたまーにあって。そんなときは、「あ、今のこの勘は絶対に当たってる」という根拠のない強い自信と自覚があるのですが、この時が、そうでした。恐々とテレビをつけると、「東北」の文字。そのあとすぐに「津波」「火事」「岩手」「宮城」「福島」、そして「原発」の文字がバババババッと立て続けに目に入ってきました。海って、燃えるんですね。

でも、皆さんもそうだと思いますけれど、あの揺れの直後には、これがまさか歴史に残るほどの大震災だとは、まだピンときていなかったのです。

私なんて、のんきなのか焦っていたのか、「とりあえず、高速バスに乗らなきゃ」と思ったほどですから。ですが、もちろん、その日予約していた高速バスになんて乗れるわけがありませんでした。

家族とようやく連絡がついたのは、3月14日のこと(くしくも、私の十代最後の誕生日の前日でした)。丸2日、彼らの安否を知る術がなく、寮の部屋にこもって携帯を握りしめていると、ふと「携帯だから繋がらないのでは」と思い付きました。すぐさま部屋を出て、寮のロビーにある公衆電話から電話をかけること3回目。ようやく家族の声を聞くことができ、言葉にはできないほどの安堵と感謝があふれて全身の力が抜けました。このときは、彼らが「携帯の充電がなかなかできない状況だ」というので、手短に状況だけ聞いて受話器を置きました。

その年からは、3日以上の連休があるときにはなるべく帰省するようになりました。とはいえ、年に数回であることには変わりないのですが。ただ、たまに帰るからこそ気づいてしまう、街の変化には何度も胸を締め付けられます。その中から、3つ、お話させてください。


1つ目は、実家の階段の踊り場に、水の入ったタンクがいくつも置かれるようになったこと。原発事故の影響で、水道水を飲むのがはばかられるからです。


2つ目は、帰るたびにこういった、見慣れない看板を見つけるようになったこと。

随時測定される放射能の数値。こんな看板、見たことがなかったのに。はじめてこの看板を見たときには言葉を失い、しばらくの間立ち尽くしました。


そして3つ目。

私が一番悲しいのは、子どもが減ったことです。

福島市は原発から約60km離れているので、避難区域などには該当しません。けれど、盆地になっているので、それこそ埃や花粉のように、風に運ばれてきた放射能の吹き溜まりにもなります。なので、(特に事故直後には、)県外に自主避難する家庭も多くありました。事実、当時高校生だった私の妹と弟も、一時期は山形の親戚の家に避難したものです。

そういったことを耳で聞いて知ってはいましたが、震災から3〜4年後の夏に帰省し、何気なく実家の向かいにある月極駐車場を見たとき。私は、福島から子どもが減ったという事実を、本当の意味で理解しました。私がまだ福島に住んでいたころ、その駐車場では就学前や小学校低〜中学年くらいの子どもたちが、夕方まで遊んでいたものです。シャボン玉やバスケットボール、自転車に乗って駐車場の中をぐるぐると回るだけの子もいました。それが、もう一人もいなくなっていたのです。カピカピに乾いて砂埃をかぶった赤いバケツが、目に焼きつきました。

あの日から福島では、「子どもを外で遊ばせないように」「屋外のものを触ったら必ずしっかり手を洗うように」「子どもは首から線量計を下げるように」といったことがいわれるようになりました(今は少し落ち着いてきましたが、それでもそのルールがなくなったわけではありません。生活する側が“慣れた”だけなのです)。


それだけではなく、例えば、私が卒業した幼稚園では今、ブランコが「室内」に設置されています。


しかし福島生まれ福島育ちの父曰く、福島市の人口はそこまで大きく変わっていないとのこと。それはつまり、もっと危険な地域から福島市に逃れてきた家庭が同じだけあることを意味します。

私は、福島でたくさん嫌な思いをしました。いじめっ子にものを隠されたり、気持ちの悪いおじさんにいたずらされそうになったり。

けれど、私は福島で、自分以上に大切に思える友人たちや、一生涯の恩師、数え切れないほどの家族との思い出を手に入れました。

福島で、私は育ちました。人並みに、情けなく、逞しく。「好きな街」という言葉では済まないほど、愛してやまない街なのです。

なのに……、

最近では、福島から避難してきた生徒が、転校先で差別にあうというニュースを耳にします。

福島の親戚から送られてきた最っ高においしい桃をおすそ分けする時には、自分でも嫌だし悲しいけれど、「福島産の桃、平気ですか……?」とひと言添えないわけにはいきません。

それに、初対面の人に出身を聞かれ、「福島です」と答えると、どうして気まずくなってしまうのでしょうか。(きっと、相手も私を気遣おうと思ってくれて、でもうまく言葉が出ないのだろうということは、百も承知ですが)

文句ばかりになってしまって、ごめんなさい。

けれど、原発から60kmも離れている福島市でも、“こう”なのです。

帰還困難区域、居住制限区域の方々が、今、どのように生活されているのかを考えるだけで、心が張り裂けそうに痛みます。もう、帰ることすらできないのです。ある日突然、自分の街を失う恐怖。それは、同じ福島で育ったはずの私にだって、十分には想像できないものです。

そして、あの日、私たちと同じ日に失ったものがある岩手、宮城の皆さん。昨年、震度7の青天井を経験された熊本の皆さん。たくさんの人にとって、忘れられない一日が、もう触れることも叶わないものが、二度と戻れないあの場所が、生活の中で密やかに変わった仕組みが、あるはずです。そんな近年ですよね。震災などの災害は、終わってからが本編。今、みんなが正念場の最中です。

誰しもにきっとある「好きな街」を、どうか、街が元気なうちにたくさん訪れて、たくさんの思い出を作って、たくさん労ってください。変わってしまうのは自分だけではなく、街も同じです。街だって、変わってしまうのです。その変化に、寄り添ってください。どうか、お願いします。

福島が辛い思いをしていたときに、すぐそばで寄り添えなかった私は、これから、まずは私にできるやり方で福島を労わりたいと思っています。

そして、この記事が、その一歩です。


三日後の3月11日を待たずに投稿するのは、その日が特別というわけでは決してないからです。なんでもない日にも、福島は変わっています。今まさに、この瞬間にも。そして力強く、頑張っています。11日という日付は、「震災があった日」という意味において、まったく特別な日付ではありません(もちろん、その日に大切な方を亡くされた方々にとっては、永遠に意味のある日付ですが)。

3月11日、だけじゃない。毎日そのことを考えるのは、福島が好きで、大切だから。


長い文章になりましたが、読んでいただき本当にありがとうございました。


※この記事は、2017年3月8日に別サービス(非商用)で公開したものと同じ内容です

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