【合格体験記】学年最下位から全国模試で1位になって京都大学に合格した話

このエントリーをはてなブックマークに追加
601

「ほら、あれが京都大学だよ。頭のいいお兄ちゃんたちがいっぱいいるんだよ。」


父は僕にそう言って、京都大学を指さしました。


指の先には、「○○を許すな!」「××反対!」「△△を弾劾せよ!!」と書かれた真っ赤な看板がいくつもいくつもありました。


「京都大学には左翼で過激な人もいっぱいいるんだよ。」


当時、まだ小学6年生だった僕には「弾劾」も「左翼」も「過激」も、意味が分かりませんでした。


(なんか、こわいな…)


これが、僕と京都大学との、最初の出会いでした。




この時は、誰も想像していませんでした。




この1年後、英単語のchairが覚えられず、泣きながら勉強し、


この3年後、女の子にラブレターを渡して「ごめんなさい。」とフラれ、


この6年後、大学受験に失敗し、


そして7年後、京都大学に合格しているなんて……






これから、


すべての受験生とその保護者に、


リアルな私の合格体験記を記します。






==========


=======


====




=====【①】鳴かず飛ばず=====

小学校を卒業した後、僕はとある中学校に進学しました。



地元の中高一貫の進学校でした。


しかし、中学受験なんて、しょせん親がどれだけ教育にカネをかけたかという試験。




僕は中学校に入ってから、大していい成績は取れませんでした。


(中高一貫のことを「チュウカンイッコウ」だと思っていたぐらいですから)




入学直後、僕は校内で開かれた相撲大会で優勝し、


柔道部のコーチからスカウトされました。



スカウトされたことで調子に乗り、


「僕には柔道の才能がある!」


と勘違いして、


僕は柔道部に入部しました。




柔道部のコーチは体育大学出身。ゴリゴリの体育会系。


もともと日本を代表する柔道の選手で、


国際大会に出場しないと使わない青色の柔道着を持っていました。




当然、練習は「超」がつくほど厳しい。


生意気だった僕は顧問に「可愛がって」もらいました。




部活漬けの日々。


汗を吸いまくった柔道着を持って帰り、


風呂に入り、飯を食べて、宿題もそこそこにすぐ寝る…


きちんとした勉強なんて、する余裕はありませんでした。






特に、きつかったのが中学2年生のとき。


はちゃめちゃな特訓を受け、


大会の2日前に左足が「蜂窩織炎(ホウカシキエン)」という病気になり、膨れ上がりました。




これはほっておくと膿が皮膚を突き破るという病気で、


柔道の練習による過労が原因でした。






そして、最もショッキングだったこと……


中学3年生の時は、好きな女の子にフラれました。


今でも覚えています。6月4日。


泣きっ面にハチで、その日の部活で肩を脱臼しました。




この後も、足の親指を脱臼したり、肉離れを起こしたり、腰をいためたり、


ケガの多い部活動生活だったのですが、


フラれた直後ということもあり、この肩の脱臼が1番印象に残っています。






一方の勉強は、というと、まったくのダメダメでした。


高校1年生の時に、化学の授業が本当につまらなくて、


もともと好きではない勉強が


ドンドン嫌いなりました。




当時、和田秀樹さんの本を読み、


「受験で使わないなら勉強しなくてもいい」


と思ったことをキッカケに、


ただでさえ成績が悪い化学は、もっと勉強しなくなりました。




結果、


化学の小テストで0点を連発。




化学で学年最下位を取りました。




ちなみに、


このテストの結果は掲示板に貼り出され、


学年最下位は僕(柔道部員)、


学年の下から2番目(ドベ2)は柔道部のキャプテン、


学年の下から3番目(ドベ3)は柔道部員、


と、まさに「柔道部3バカ」でした。




こんな成績だと、父親が怒るので、


母親に頼み込んで「いい成績」を取っていることにしてもらいました。


いうならば、父をだますために、成績を捏造していました。


(ごめん父さん…)






部活を引退してからも、


あまり成績が上がりませんでした。




高校3年生の時、PSPがマイブームになり、


「グランドセフトオート」というゲームを受験勉強もせずにプレイしていました。




このPSPは


「学年の女子全員に告白すれば、俺のPSPを10円で売ってやる」


と友達が冗談半分で言ってきたので、


「じゃあやってやるよ!」


と本当に学年の女子全員に告白して10円で買ったものでした。






そんなこんなだから、成績は当然ズタボロでした。










=====【②】あこがれ=====

しかし、京都大学には行きたかった。




行きたいと思ったのは、


中学2年生のときに、井上靖の『氷壁』という本を読み、


「すげえ!」


と思ったのがきっかけでした。




井上靖は京都大学文学部卒。




「こんな人を輩出する、京都大学ってすごいな!」


「僕も、こんな大学にいきたいな!」


と思いました。






さらに、


高校生になって志望校を真剣に考えるようになったときに、


京都大学という大学を調べてみると、ユニークな大学であることが分かりました。






約築100年・月の家賃が400円の寮があるとか、


大学受験の日には、なぜか初代校長の銅像がペンキで塗られるとか、


卒業式はコスプレをするとか、


学園祭でワニ肉のから揚げが食べられるとか…




「なんてユニークなんだ!」


「なんか面白そうだ!」




調べれば調べるほど、京都大学が好きになり、京都大学に対する憧れが強くなりました。


完全に、ほれ込みました。






特に、総合人間学部という学部が気になりました。


文系でも理系の勉強ができるという学部でした。




その分、京都大学でも難関。


文系からは60名程度しか合格しない狭き門で、


文系なのに、数学が国語以上に重視される学部でした。






ただ、京都大学に行きたいと言っても、


「お前には無理だ」


と親にも先生にも言われました。






「化学勉強してから言え」


「成績を取ってから言え」


「寝言は寝て言え」……




応援の声は無かった。




しいて言えば、母親は応援してくれました。


家庭教師をつけてくれたり、


勉強法の本や参考書は買ってくれました。




しかし、そんな親の愛に応えることはできませんでした。




模擬試験でも京都大学はE判定。


合格可能性20%以下。




「受かりませんよ」


と、各予備校からも、お墨付きをいただきました。






それでも、


生意気な僕は京都大学総合人間学部を志望し続けました。




ずっと、京大に行くと、先生にも、親にも、友達にも、言いふらし続けました。






ただ…


結果はついてきませんでした。




いや、結果がついてくるような勉強をしていませんでした。


質も悪く、量もこなさず…




『ラブひな』というマンガにハマったり、


定期テスト前日にケータイで夜4時までメールしたり。






そして、


最悪なことに直前期にひよって志望校を変えました。




「阪大なら、受かるだろう」


と思ったのです。




これがバカだった。


正直、阪大を(というよりも受験勉強そのものを)、ナメていた。




結果は、不合格。


阪大受験が終わった瞬間に「落ちたな」と思いました。


合格発表の日は、ふて寝しました。




帰りの空港で、同じ高校で同じ阪大を受けた友達に会いました。


ものすごく、バツが悪かった。






後期試験は横浜国立大学を受験しました。


しかし、受験前日、東日本大地震。




横浜のホテルに泊まっていたところ、強烈な横揺れ。


「あ、死ぬな…」


と思いました。




横浜は震度5強。


試験は中止になり、そして僕は不合格となりました。










「僕は、受験をナメていた……」


悔しかった。


「浪人してでも、京大に行きたい」と強く思った。


後悔し、反省し、そして、勉強しました。




試験前よりも、試験後の方が勉強しました。








しかし、「落ちたら高卒で働け」と言われていた僕は、


・落ちたけど、受験勉強を続けさせてくれ


ということと、


・しかも予備校に100万円払って、予備校に行かせてくれ


ということを両親に説得する必要がありました。






しかし、


頑固者の父親に口で言ってもムダでした。




だから、誠意で勝負しました。



僕は父の目の前で勉強しました。


見えるところで、これみよがしに勉強し続ける。



リビングで勉強し、あえて英語の音読をすることで、


父親がテレビを見ているのを妨害したりしました。








結果、僕の誠意が通じたのか、浪人を許してくれました。




ただ、「受かるまで家の敷居をまたぐな」と、予備校の寮に入ることになりました。








=====【③】浪人時代=====

大手予備校のクラス分けで京大コースに振り分けられた僕は、


京大と東大を目指すメンバーの中でひときわ成績が悪く、


しかし、その分だけギラギラしていました。




授業は必ず一番前の席に座り、


「100万円も予備校に突っ込んだんだから、絶対受かるぞ!」


と意気込んでいました。




もちろん、


ほかの浪人生も勉強を頑張ってはいました。




しかし、普通の浪人生の頑張りは、ゴールデンウィークまで。






だんだん、授業中に寝る人が出てきたり、


志望を下げて、東大京大クラスから1つ下のクラスに行く人が出たりするようになりました。


大きな教室では空席が目立つようになりました。






唯一、11月まで空気が変わらなかったのは寮の自習室。




120人ほどが住む予備校の寮には、


15席ほどの自習室がありました。


ただ、自習室に来て勉強する人は限られていました。




僕は毎日のように自習室で勉強し続けました。


そうすると、


自習室で勉強する人はみんな仲間になっていき、


だんだん座席も固定席のようになっていきました。






志望校は東大、京大、早稲田、青山学院大…


てんでバラバラなのに、


少しずつ仲良くなっていきました。




とくに、青学を受ける人なんて、めちゃめちゃオシャレボーイだったので、


ずっとジャージを着ていた僕なんて、性格は水と油のはずですが、


一緒に勉強しているうちに仲良くなりました。




だいたい、予備校が午前9時ころからスタートし、


16時ぐらいまで予備校で勉強。


寮に帰って、18時頃に夕ご飯。


風呂に入って、20時から夜12時まで自習室で勉強する…


という毎日でした。




夜12時で勉強を終わりにしていたのは、


その時間に寮の自習室が閉まるから。






寮の自習室は夜12時になると60歳ぐらいの寮長がやってきて


「お前ら、閉めるぞ~」


と言って、自習室を閉めに来るのです。


が、カギを閉めるわけではないことに9月ころ気がつきました。




つまり、


夜12時になり、1度寮長がやってきて、自習室から生徒を帰した後も、


自習室が解放されていたのです。




僕は自習室から夜12時に追い出された後、


一旦自分の部屋に帰り、英文法問題集『NextStage』と筆箱を持って再び自習室に行き、


夜2時まで勉強していました。




夜2時の寮は全くの暗闇で、


自分の部屋から寮の自習室までの廊下や階段は、


まるでバイオハザードをやっているかのようでした。




そんなこんなで1日の勉強時間は最大15時間程度。


睡眠時間は3時間半でした。






ハードな勉強を続けた結果は、確実に出てきました。






秋から冬になろうとしていたある日、


代ゼミの京大模試の結果が返ってきました。




試験結果が入った封筒が郵便受けに投函されており、


自室に帰るまで待ち切れず、


寮のエレベーターの中で成績表が入った封筒を開けました。


試験結果「順位 1位」






「…ファッ?!」


と変な声が出ました。


同じエレベーターに乗っていた他の寮生が不審者を見るような眼で僕をチラチラ見てきました。






僕は京大模試で全国一位を取ったのです。


(まあ、代ゼミなので分母が少ないんですが…笑)




「全国1位を取った!!!」


これは大きな自信になりました。






しかし、去年受験をナメて失敗した人間。


全国1位の結果が出た後も、


「ここでナメてはいけない!」と、


ハードな勉強をつづけました。






12月に入り、


毎日、センター試験の予想問題を英語・数学・国語・理科・社会を解き続ける生活を1か月続けました。




予想問題集と過去問を合わせて30~50回分ほど、解きまくりました。


結果、


11月末ころのセンター試験模試では早稲田大学政治経済学部でE判定でしたが、


センター試験本番では早稲田大学政治経済学部に合格しました。




センター試験3日前あたりから勉強することが無くなり、


寮の周辺をブラブラしていると、


寮の共用のゴミ捨て場に大量の漫画が捨ててありました。




ちょうど、僕が読みたいと思っていた『聖☆おにいさん』というマンガが全巻捨ててあり、


僕はそれを拾って、自分の部屋に持って帰り、試験数日前にマンガを全巻読破しました。




結果、センター試験前日は緊張のあまり、ちゃんと眠ることができなかったのですが、


英語190点、国語188点、世界史91点と、


自己ベストの点数を取ることができました。






=====【④】決戦の日=====

センター試験を終え、京大に願書をスグに出しました。




スグに願書を出したため、受験番号は「0003」。




ちなみに、京大はかつて「第三高等学校」だったこともあり、


3番という受験番号は京大に愛されている感じがして好きでした。








センター試験対策から、京大対策の勉強に切り替え、


京大の予想問題を解きまくる日々が続きました。




最初はいわゆる「センターボケ」状態で、焦りもあったのですが、


ハードな勉強には慣れているので、バリバリとやっていると、


だんだんと勘を取り戻すことができ、


京大二次試験も試験3日前にはやることが無くなりました。






予備校の先生にも


「君なら受かるよ」


と太鼓判を押されるようになりました。




1年前は「君は受からないよ」と言われていた、


どこにでもいる高校生は、


たった1年の浪人期間で全く変わってしまいました。




高校生の頃は、


身体はムキムキ、目はキラキラ、顔はツヤツヤしていました。


浪人期間を経て、


身体はしぼみ、目はくぼみ、頬はこけた顔になりました。




ただ、瞳だけは未だ生意気に燃えていました。








「合格する」ことだけが、僕の人生でした。








京大を受けるためにホテルを取り、試験前日は会場の下見に行きました。






「次は、百万遍。百万遍」


バスのアナウンスが、7年ぶりの再会を告げました。




7年前と同じ場所に、京都大学はありました。






「○○を許すな!」「××反対!」「△△を弾劾せよ!!」と書かれた真っ赤な看板がいくつもいくつもありました。




そして、その時には、看板に書かれてある意味が分かりました。




「弾劾」を「ダンガイ」と読むことも、「身分のある人の不正をあばき、責任を問うこと」という意味も、


日本史では1914年にシーメンス事件で内閣総理大臣山本権兵衛が弾劾に近い形で総辞職に追い込まれたことも、


参考書や予備校の授業で勉強したことがツラツラと出てきました。






看板の内容は「3.11」を経て、原発に関するものが多く、


国を批判する看板がずらっと並んでいました。




また、京大の校長先生(総長といいます)は学生に人気が無かったために


「総長は独裁をやめろ!」


といった看板もたくさんありました。




過激派の看板だけではなくてサークルの宣伝の看板が多いこともわかりました。






久しぶりに見た京大は、


小学生の時に見た京大と、何も変わっていませんでした。




ただ、僕は少し目が悪くなっていて、


少し知識が増えていて、


少し勉強で疲れていて、


そして、ものすごく緊張していました。










翌日、試験会場に、僕は破れたパンツをはいて行きました。






浪人を決めたときから、僕は試験の時は毎回同じ服を着るようにしていました。


シャツは古着屋で買った真っ赤なシャツ。


インナーは高校のクラスで作ったオリジナルTシャツ。


ズボンは迷彩服。


そして、パンツは藍色のパンツ。


すべての模試や試験で、毎回同じ格好をしていました。






しかし、浪人時代は模試が多くあり、


試験もセンター試験をはじめとして数多くありました。




すべての試験で同じのパンツをはくために、


何度も洗濯し、連続して模試があるたびにむりやり乾かしてはきました。




結果、パンツに穴が空いてしまったのですが、


僕は穴あきのパンツをずっとはき続けました。




いわば、「勝負パンツ」だったので…








試験会場に入ると、頭良さそうな人がいっぱいいました。




僕は女好きなのと、


あと緊張をほぐすため、


「かわいい女の子いないかな~」


と探していました。




僕の受験番号は「0003」


僕の座席は、前から3列目の右端にありました。






そして、僕の2つ前の席。


つまり受験番号「0001」の人が、スゴかった。


今でも鮮明に覚えています。




受験番号「0001」の人は、女の子だったのですが、


とくにカワイイわけでもなく、特徴が無いのが特徴といったルックスでした。




ただ、気迫がやばかった。




「周りの受験生を目で殺せるなら殺すぞ!」


という空気があった。




実際、その女の子の後ろの席の人、


つまり受験番号「0002」の男の子は、


ちょっとプルプル震えていました。



(「0003」番の僕は、プルプル震えている「0002」番の人を見て


少し面白くてニヤニヤしていました)









試験が始まりました。




僕が受験した年は、前年にカンニング事件があったこともあり、


異様にカンニング対策が厳しかったです。






僕は「Zi」と書かれた目薬を使用していたのですが、


試験監督がやってきて、目薬の裏面にシールを貼っていきました。




目薬のウラには「○○酸~~」などと言った薬品名が書いてあったため、


その薬品名をカンニングしないようにといった意図で、


真っ白のシールを目薬に貼って薬品名が見えないようにしたのです。






その5分後、別の試験監督がやってきて、


さらに目薬の表面にシールを貼っていきました。




しかし、たしかに目薬のウラには薬品名が書いてあったのですが、


オモテには商品名「Zi」としか書いていません。




アルファベットの「Z」と「i」をカンニングしないといけないような人は、


そもそも京大を受けないと思うんですが……






ともかく、あまり意味の無いカンニング対策を施された状態で、


試験がスタートしました。








国語、数学、英語…




これまでやってきたことを出し尽くし、


2時間、問題と戦いました。


「なにとぞ受からせてください!」


という想いを載せた答案を提出しました。




多分、手汗で重くなっただけだと思いますが、


提出する時には、紙の答案から少し重量感を感じました。








そして、2日目。


最後の科目、日本史。




問題に取り組んでいると、


次のような問題がありました。




「1957年には茨城県【??】村に日本原子力研究所の研究炉が設置され…」




この問題は、中学でも高校でも予備校でも、


日本史の授業では習ったことのない知識でした。




なので、本当は分かるはずの無い問題です。






しかしーーー




どこかから「東海村」という声が聞こえました。






なぜか、知らないはずの問題が分かりました。


これを幻聴と言うか、神の声と呼ぶかは、人によると思いますが……




たしかに「東海村」だという声がしたのです。






そして、この瞬間に


「あ、合格したな…」


と思いました。




神が、背中を押してくれた気がしました。


(この経験から、僕は20代のクセに信心深いです。


僕は神社にしばしば参拝し、かならずお札を買うことにしていますし、


占いも信じています。)






試験は終了。


疲労感と満足感、達成感で満ちていました。




ホテルに帰る前に、折田先生像を見たのですが、


大して面白くなかったのだけが残念でした。












=====【⑤】瞬間に生きる=====

試験が終わった帰りの道中、PS3とゲームソフトを買いました。


3日3晩、ずーっとゲームしていました。


どうしても「Call of Duty」というゲームがやりたかったので…






で、3日も同じゲームをすると流石に飽きてきたため、


「そろそろ、後期試験の勉強をするか」


と勉強をはじめました。




家にいてもしょうがないので、


4キロほど離れた図書館にランニングしていき、


大阪大学経済学部の後期試験の問題を解いて


「あ、正解。」「これも、正解。」


と8割ほどの正答率が取れることを確認して、


またランニングして帰宅する……




という変わった受験生生活を送りました。


1日2時間程度の勉強時間でした。






ただ、やはり不安はありました。


「京大は天才の受かる大学」


「僕は天才ではない」


「ゆえに、僕は受からない」


そんな風に考えてしまい、不安はつきまといました。






でも、だからといって今さら何もできません。




ただ、後期試験の問題を解き、


最悪阪大には受かるように対策するしかなかったのです。






不安だけど、勉強しかすることが無い……




「いやいや!『東海村』って聞こえてきたし!1年間頑張ったし!」


「京大模試で全国一位取ったし!」


と何度自分に言い聞かせても、


やっぱり不安なんです。




『東海村』が分かったところで、配点は1点しかありません。


800点満点の試験で1点ぐらい取れたところで、どうにもなりませんから。


全国一位も一回だけ。


たまたま取れたに過ぎないかもしれない。






不安で、勉強して、ランニングして…


1週間ほどして、阪大後期試験の問題もストックがなくなったころ、


京大の合格発表がありました。




合格発表はネットでも見る事ができたのですが、


「どうしても京大で見たい」


と親にワガママを言って、京大に見に行くことを許してもらいました。






京大の最寄り駅・出町柳のロッテリアで時間をつぶし、


1歩1歩、かみしめるように京大に行きました。




(これだけ勉強したから、受かってるはず)


(受かっててほしい)


(これで合格しなかったらしょうがない)


(いや、京大は天才の行く大学だ…)


(受かっててくれ…!)




一歩あるいては不安になり、


一歩あるいては怖くなり、


一歩あるいては期待し……




気がつくと、京大まで来ていました。






合格発表の掲示板の前に、


多くの受験生が集まっていました。






12時00分。


発表の瞬間。




一目で落ちたと分かる受験生も、


一目で受かったと分かる受験生も、


有象無象がわらわらといて、ざわざわとうるさかったです。






浪人期間を経て、視力が0.1まで落ちた僕は、


まずメガネをはずし、うつむいて、


掲示板の前まで行きました。




こうすることで、


自分の結果を見ることなく、掲示板の前までたどり着きました。




そして、掲示板の真ん前まで来たタイミングで、


受験番号「0003」を確認。


うつむいたまま、メガネをかけ……






そして、パッと顔を上げました。






------------------------

|【合格者】

|0001

|0003

|0009

|…







(ーーー受かっっったぁ~~~~~)






その瞬間、ちょっと不思議なことが起きました。






さきほども言ったように、


合格発表の場には受験生とその他もろもろの人がわんさかいました。




合格の報告を電話でする人がいたりして、


ざわざわとうるさい状態でした。




しかし、


なぜでしょうか。






「0003」を確認した瞬間。


時間にして0.2秒。


スッと、完全な、完全な無音になりました。




0.2秒。




完全な無音の中で、


僕は、ただただひたすらに安堵していました。




「嬉しい!」という喜びよりも、


「よかったぁ~」という安心の方が強かった。




そして、


「さあ、喜ぶぞ!」


と気合を入れた……






次の瞬間。


「合格おめでとうございます!テニスに興味ありますか?!」


「おめでとう!僕はフットサルサークルなんだけど…」


「京大へようこそ!テニスサークル○○です!」


「合格おめでとう!いいからだしてるね!野球興味ある?」


ばばばばっと京大生がたくさんやってきて、サークルの勧誘に来ました。




(もうちょっと感慨にひたらせてくれよ!!!!)


苦笑いしながら、それでも嬉しくて……


ただただひたすら大量のサークルのビラをもらうことになりました。






この時は、誰も想像していませんでした。




この1年後、ニコニコ動画で尊敬する動画配信者を見つけ、


この2年後、YouTubeで1本目の動画を投稿し、


この4年後、勉強法YouTube配信者日本一となり、


そして今、就職した企業を辞めて起業しているなんて…




====


=======


==========

最後まで、読んでいただいてありがとうございました。




今日、2017年6月8日、僕は25歳の誕生日を迎えます。


25年間、僕はずっと親に迷惑をかけてきました。




マジメな父さん。優しい母さん。


ありがとう。


恥ずかしくて、面と向かっては言えないけれど、僕は感謝しています。






僕は、一人でも多くの人に


「こんな成功体験をしてほしい」


と思っています。




「どうだ!俺はこんな成功をしたんだぞ!」


と、胸を張って言える成功体験を。




成功の前には、かならず壁が存在します。


バカみたいに高く分厚い壁がそそり立ち、


あなたの心を折りにくるでしょう。




しかし、そんな時、ほとんどの学校の先生は


「現実を見ろ」


と、あなたに言います。



現実を見たら、壁しか見えないのに……




これが、「先生」と言えるのでしょうか。


生徒の目の前に壁があったら、一緒に壁を超える方法を考えるのが


「先生」であり、「教育」ではないでしょうか。



壁があったらあきらめさせる教育は、


はたして生徒を幸せにするのでしょうか。




先生という職業は、


生徒の人生の限界を勝手に決めることができるほど、


偉いのでしょうか。




本当は、その限界の、ほんの少しちょっぴり先に


「勝利」と「成功」があるというのに…





勝利への道中は、敗北があっていい。


いや、敗北だらけの方が、いい。




昔の敗北は、やがてあなたを守る鎧となり、


かつての失敗は、いつかあなたの戦う武器になるのだから……








敗北という鎧、失敗という剣を持った、


満身創痍の戦士。




それこそが、最強の受験生なのです。








この物語が、多くの受験生に届き、一人でも多くの人が第一志望大学合格をつかみますように。


そして、受験生の子を持つ保護者の方にも届きますように。


自分の人生と自分の夢をあきらめる人が、一人でも減りますように。


健闘を祈ります。




ありがとうございました。








篠原 好

読んでよかった
このエントリーをはてなブックマークに追加
このストーリーをブログ等で紹介する

かのんは、あなたに会えて幸せだよ

篠原 好

世界のシノハラ。京大模試で全国1位をとり、京都大学総合人間学部に合格。早稲田大学政治経済学部にもE判定から1か月で逆転合格。この経験で得た勉強法をYouTubeで配信し1100万回再生を突破する受験戦略家。最高偏差値84.9。

|

大学受験のタグがついたストーリー

偏差値41.4の陸上バカが半年の独学で関西学院大学へ合格する話

大学受験に大失敗して学歴コンプレックス→うつ病になった僕。再入学した専門学校でナンパして国立大学、難関私立大学の編入試験に合格して人生を変えた話 1/4 〜現役・浪人編〜

【合格体験記】学年最下位から全国模試で1位になって京都大学に合格した話

受験の思い出……学力を磨いたことが仇になったのか?……

これから仮面浪人を考えている方へ(突貫版)

「赤本」を知らなかった高3の夏。でも生き方は色々あります【其の六】

独りぼっち「問題児」の19年 :序章

経済的に夢をあきらめてしまいそうな人へ

どん底の貧乏でも、勉強したい.....

偏差値30のフリーターが約1年勉強して早稲田に合格するまでの話 その3:受験の話(書きかけ)

偏差値30のフリーターが約1年勉強して早稲田に合格するまでの話 その2:受験勉強を始める準備期間の話

偏差値30のフリーターが約1年勉強して早稲田に合格するまでの話 その1:フリーターの話

28歳大学生で入学した僕が32歳新卒採用で内定を6つもらう奇跡(実話)体験談編

28才大学生(実話)前編-サラリーマンから32才新卒就活まで

引きこもりがニューヨーク留学をした結果大企業に就職した話~vol.2 クソヤローのはじめての挫折~

篠原 好

世界のシノハラ。京大模試で全国1位をとり、京都大学総合人間学部に合格。早稲田大学政治経済学部にもE判定から1か月で逆転合格。この経験で得た勉強法をYouTubeで配信し1100万回再生を突破する受験戦略家。最高偏差値84.9。

篠原 好

世界のシノハラ。京大模試で全国1位をとり、京都大学総合人間学部に合格。早稲田大学政治経済学部にもE判定から1か月で逆転合格。この経験で得た勉強法をYouTubeで配信し1100万回再生を突破する受験戦略家。最高偏差値84.9。

篠原 好さんの他のストーリー

  • 【合格体験記】学年最下位から全国模試で1位になって京都大学に合格した話