ごめんな、親父 ありがとう


 少し唐突な始まり方ですが、読んでもらえたら嬉しいです。

私の親父は、52歳で亡くなりました。アルコール依存症で、ろくでもない親父でした。

しかし、親父がこうなったのは、ある理由がありました。

 私は、5人兄弟の末っ子で、いつも親父の背中を追いかけるばかりいたガキでした。

幼いころから、私の兄は、児童養護施設に入っていました。5人中4人が施設に入っており、

私だけが、家にいるという状況でした。

 私には、それが不思議でなりませんでした。何故、私は1人だけ家にいるのかと・・・。

幼い私には、理解できなかったのです。

 たまに帰ってくる兄たちは、自分の知らないことを知っていて、いつも私の先へ行っていたからです。家には、親父と祖母がいました。親父は仕事で夜遅くまで帰ってこないときもありました。

 しかし、そんな親父が私は好きでした。毎日夜遅くに帰ってきて、どろどろになった作業服で帰ってくる親父が好きでした。でも、心のどこかで、兄たちがいる施設というものが、うらやましくなっていました。 私の夢は、親父と一緒で現場関係の仕事に就くのが夢でした。

 そんなある日、私は兄に誘われ家を出ました。今思えば何故あんなことしたのかと後悔しても仕切れません。家を出たその日に私たちは、補導されて兄は施設へ、私は児童相談所に連れて行かれました。

 児童相談所に送られて二週間がたって、親父が面会に来ました。かなりご立腹のようで、面会して

二分で怒鳴られた記憶があります。そんなこんなあって私は、念願の施設に送られることになりました。

 施設に移った当初は、みんな優しく内心すごく嬉しかったですが、そこから1ヶ月、2ヶ月が過ぎると、やはり集団生活の厳しさや、先輩との上下関係など、私が今まで感じた事のないトラブルの連続でした。

 中学に入り、ますます縦社会の厳しさを目の前に叩きつけられました。この頃から私は、何故あの時連れて帰ってくれなかったんだろうと、親父に不信感を抱くようになり、その考えはいつしか捨てられたなどという考えになり、小学生のときは一時帰省をしていたが、この頃を境にあまり家に帰らなくなりました。高校受験もろくに受けず、結局再募集で合格し、かなり迷惑をかけていました。

 ですが、私は現場関係の仕事に就くことは諦めておらず、再募集で合格した高校は工業高校だったのでここから色々と考え方が変わっていきました。高校に入ってから、部活もしてアルバイトもしてという生活になり、かなり忙しい日々になり親父のことなど頭の中になかった時期が続きました。

 三年になり、就職も現場関係の仕事が決まり、久しぶりに家に帰ってみると、家には誰もおらず

親父の姿もなかったんです。色々電話したりして、ようやくどこにいるのかが分かり会いに行ってみると、そこには以前の面影はない親父がいました。話を聞くと仕事に行く途中に、事故に遭い仕事ができなくなったと笑いながら話していました。私はショックでした。体は痩せ細り毎日毎日痛みを紛らわすために、酒を飲み私が、目標にしていた親父ではなかったから。

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