1960年代の船橋
夏真っ盛りのこの季節になると船橋海浜公園が潮干狩りに多くの親子連れで賑わうというニュースを耳にする。私が世田谷からこの町に引越しをして来たのは1967年。社会科の教科書によれば池田首相が「もはや戦後ではない」と国民所得倍増計画を打ち出したのが1960年。第一回東京オリンピックが開催されたのが1964年。我が国は高度成長期へのスタートを切っていた。
その頃は世田谷と言えど未だ田園風景が広がり、春には田んぼにレンゲが咲き乱れて、その中を赤ガエルや殿様カエルが飛び交っていた。
知らぬ間に遠くの方に大きな建造物が急速にこちらの方に伸びてきていた。東名高速道路だと聞いた。
そんな世田谷から千葉県に引っ越すというのは小学一年生であった私には理解が難しすぎたようで、学校でみんなに転校の挨拶をする際に、「遠くの方に行きます。」とだけ言ったそうである。
引越しは一学期が終わってからだったので真夏のことだったと思う。
父の会社の人たちが手伝いに来てくれて大きなトラックの助手席に乗って行ったことは覚えている。
首都高から京葉道路を一路東へひた走った。
昼過ぎには習志野の新居に着いていた。
あれ?習志野?
そう、まずは習志野に新しくできた公団に落ち着き2年ほど辺りの土地を物色。
小学校二年生の途中で船橋の現在の実家の場所に再度引越しをした。
この習志野の団地は埋め立て地に立てられていて、歩いていると砂の中から貝殻が出てきたりしていた。学校も新設。水道の水が未だ金臭かったことを良く覚えている。
団地は5階建てでその4階に住んでいたが、ベランダから南の方を見ると東京湾が一望でき、遠くを大型船が横切り様を見ることができた。
反対側は民家が一ブロックあって国道14号線。このあたりの民家の軒先から下が海だったらしい。
こちらも窓から下を眺めてみると小さな畑があって冬場には簾の様なものを木の台に斜めに広げた乾燥器の上に黒い長方形の海苔が並ねられて天日にて乾燥させている様が見えた。
近くに行くとパリパリという音が聞こえる。日光で海苔が乾燥していく時の音だった。
海はどこにあったかと言うと今も走っている京葉道路、その向こう側はもう海だった。
学校帰りや放課後に、友達と京葉道路の下を抜ける道を通って海に行った。
貝やカニ。引き潮の時は取り残された水たまりにカレイの稚魚がいた。
イチゴのプラスチックパックに入れて家まで持って帰ったが数日で死んでしまった。
夏場はそこが潮干狩り場になり幾らかのお金を払うとみかんを入れるような網が貰えて潮干狩りができた。しかし、この網一杯で帰る人は稀で大きなごみを入れるようなポリバケツ一杯に獲物を抱えていく猛者も多かった。
当時からここの潮干狩りは有名であったらしく、世田谷にいた頃の同級生家族や親せき一家が我が家を基地にと訪ねてきた。
海辺には海に太い丸太を打ち付けた上に床、天井を付けた海の家が点在していた。
岸からはなだらかな坂にした板の上を上がっていき、海の降りる方は階段になっていたかと思う。
余り記憶にないのは家が近かったために海の家を使うことは稀で、タオルで体をグルグル巻きにして家まで行列することが常だったからだと思う。
梅雨の最中に建設に入り、夏の終わりと共に解体される。そして一年経つと何も無かったかのように同じことが繰り返されていた。
1970年代になると今後は京葉道路の南側が更に埋め立てられていった。
そこには同じような団地が幾つか、そして工業団地が作られた。
海はずいんぶんと遠くなってしまった。
一方、本題の船橋の埋め立ての歴史は習志野よりも更に10年ほど遡る。
今でもお年寄りは記憶にあるかと思う、「船橋ヘルスセンター」という今で言う総合レジャーランドの走りがその出発点だ。
地下から湧く鉱泉を温めて温泉とした大浴場や宴会場を中心として、遊園地、ボーリング場や海水プールを配した一大レジャーランドだった。
更に1970年代になって埋め立ては進み工業団地が作られることになり、その一角に現在の船橋海浜公園が設置された。
先の船橋ヘルスセンターはその後閉鎖。その後地が「船橋ららぽーと」や、初代「イケア」。
そしてこれも解体されてしまったがオールシーズン、スキーが楽しめる人工スキー場「ザウス」があった。その意味でこの一帯は常に時代の最先端を行っていたと言ってよいだろう。
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