前から日本語教師らしさに欠けると思とったけど・・・

 先日、仲間と雑談をしていたころ、「日本語教師の専門性」は何かという話になった。そして、例えば、多くの日本語教師は、半ば無意識的に次の事項が日本語教師の専門性であると考えているのではないかという話になった。
1)学習者の日本語レベルに合わせ、語彙や文型をコントロールして表現することができる。
2)学習者が表現に使用する日本語の語彙や文型からある種のレベル判定ができる。
私の実感としても、1)2)のような事項が日本語教師の専門性であると考える日本語教師は多いような気がする。そして、1)2)は、おそらく表裏一体である。
 一人になって、あらためて自身が1)2)を行ってきた/行っているかを考えてみた。その結果、私は、すでに10年以上も日本語教師を生業としてるにもかかわらず、上記のようなことを意識して、学習者とやりとりをしたことがないことに気がついた。より正確に言えば、1)に関しては、必要に応じ、行うこともある。しかし、それはあくまで目の前の相手とのやりとりを成立させるための手段としてである。自分が話したことに対し、相手がわからなそうな様子を示した場合に別の語彙や文型で言い換えるということは、これまでも行ってきたし、現在も、日常的に行っている。(そして、それは実は母語話者どうしで話す場合も同様である。)が、「この学習者は、『みんなの日本語』16課まで学習しているから、16課までに出てきた語彙と文型で話そう」というようなことを意識してやりとりをしたことはない。また、2)に関して言えば、学習者の言語形式に注目しつつ、やりとりをしたことがない。私が学習者とやりとりをする際には、常に内容を理解することのみに集中しているように思う。
 上記の1)2)が日本語教師の専門性であるとすることに関しては、議論の余地がある。しかし、とりあえず、私はこれまで学習者と接する際に、学習者の言語形式に注目するということをしてこなかった。自分でも日本語教師らしさに欠けると薄々感づいてはいたが、それはつまりそういうことやったんやなあ。

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