日本語教育の罪深さ

 先日(2013年2月)、劇団風琴工房< http://windyharp.org/playguide.html >による演劇「国語の時間」< http://windyharp.org/kokugo/ >を観た。
 「国語の時間」は、一九四〇年代、大日本帝国の統治下にあった京城の小学校を舞台に、朝鮮人でありながら、日本語を「国語」として教える教師たちの群像劇である。(「国語の時間」公式サイトより)
 物語は、1940年の夏に始まり、1945年8月15日に終わる。登場人物である朝鮮人「国語」教師たち、そして、朝鮮総督府の役人である甲斐は、いずれも「国語」と呼ばれている日本語に複雑な思いを持つ人々である。
 彼らにとって、日本語は、支配者である日本人による抑圧そのものであり、憎悪の対象である。しかし、同時に自らの経験や考えそのものでもあり、愛着の対象でもある。
 これは大変なダブルバインドである。今の自分の生活の不幸の原因は、同時にある種の幸福を与えてくる原因でもある。自身の経験や考えは、ことばにより創られていく。自身の経験や考えそのものである日本語を全く否認することもできない。それは、自分自身を否認することになる。人は、そのようなとき、どうすればいいのか。これが私が感じ取った本作品のテーマである。
 登場人物の一人である朝鮮総督府の役人、甲斐壮一郎は、おそらく劇中で最も複雑なダブルバインドを抱えた人物である。

(ここから少しネタバレが含まれます。ご注意ください。)

甲斐は、実は朝鮮人である。しかし、彼は名前やことば(朝鮮語)等、自身の中の朝鮮人性を全て捨て去ることにより、完全な日本人になろうとしている。だから、彼は完璧に標準的な日本語を話す。そして、他の人が話す日本語の訛りを非常に敏感に察知し、訂正する。
 甲斐が朝鮮人性を捨て去ろうする背景には、幼少期の母親との関係がある。彼は、幼少期に母親に捨てられた。母親のほうには、捨てたという意識はなかった。しかし、彼は「捨てられた」と思った。そして、母親に愛されたいと願う自分と決別するために、名前を捨て、ことばを捨て、別人=日本人になろうとした。しかし、日本人になろうとすればするほど、また、外見的にはほぼ完璧に「日本人」になりおおせても、常に決して日本人にはなれないという不全感がつきまとう。だから、彼は、朝鮮人に「国語」を強要することで自身の不全感を解消しようとする。だが、不全感は、解消されない。なぜなら、不全感の原因は、彼が母親との関係にこだわりを抱いている点にあるからである。
 物語の終盤、甲斐の朝鮮人であるという出自が明らかになる。そして、警察から逃走する中で、ついに母親との再会を果し、積年の思いを「国語」で打ち明ける。しかし、ほとんど「国語」を解さない母親には、伝わらない。すでに朝鮮語を忘れている甲斐には、「国語」以外に思いを伝える手段がない。結局、親子はお互いの思いを伝え合えないまま、永の別れをすることとなる。
 甲斐と「国語」の関係は、甲斐と母親の関係とパラレルである。甲斐は、朝鮮語という母親を捨て、「国語」という母親を求めた。しかし、「国語」という母親を求める自身を成り立たせているのは、朝鮮語という母親である。(親子関係に問題を抱えていない者は、そもそもそのような複雑性を持ち得ない。)自分が捨て去ろうとしたものが自身を成り立たせているというダブルバインド。これが甲斐という人物の本質であろう。
 親子関係とことばと自身の関係はとてもよく似ている。どちらも自分が自分であることを成り立たせている要素であり、捨てようとしても、捨てきれないという意味で。
 ことばは、自分自身そのものであり、自分自身と切り離すことができない。それゆえにことばをめぐる問題は、様々なダブルバインドとして現れる。私たち日本語教師は、そういう性質を持つことばを扱っている。それは、とても罪深いことなのかもしれない。
 最後に、本文を書くにあたり、私の念頭にあった二つの作品を挙げておく。
・李良枝「由煕」< http://p.tl/eJba >
・角田光代 『八日目の蝉』< http://p.tl/eWBO >
いずれも同じようなダブルバインドを扱った作品である。

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