無名教師の冒険 剣修行編

剣の修行といっても、大したことじゃない。ここでは剣の師匠がどれほど大きく見えたかって、それだけの話。

「夫剣者瞬速 心気力一致」

 こんな言葉を、ある日の稽古が終わった後で、師匠から呼ばれて頂いた。
…突然、こう呟かれたわけではないよ。念のため。
 これは、北辰一刀流剣術の開祖である千葉周作成政の言葉といわれ、「剣とは速さであり、心と気と力が一致したもの」という意味だと言われている。
 古い時代には権威の象徴となる価値が剣にあり、剣とその術に権威性を高めるための神秘性や装飾性が付加されていた、という話は想像に難くない。この千葉周作成政の言葉は、それらを取り払い、剣術とは何かを単純明快かつ合理的に説明している。 
 話は東京にある剣術道場に通っていた頃だ。北辰一刀流剣術五代目宗家の小西重治郎成之(1919-2008)先生に、当時のようにここでは「館長先生」と書かせて頂く が、一枚の色紙を頂いた。そこに書かれていたのが、館長先生直筆の、その言葉だった。

「交剣知愛」の教え

 館長先生は、現代における古流剣術の目的、目標を「交剣知愛」としていたようだ。それはひとつに、幕末から続く北辰一刀流剣術を通じて、相手を思いやる心を育てること。そして、かつては人を傷つけ殺す術であった剣術を、現代では人をいかす(生かす、活かす)術、活人剣とすること。「剣術の心構えは、現在の日常生活にも活用できる」と、館長先生に当時よく言われていた。
 「相手を思いやる」ことが、剣術の目標でもあるので、当然ながら剣で人を傷つけてはならない。道場では、自分が狙い定めた箇所で正確に刀を止められるようにならなければ、対人稽古や真剣の稽古は許されなかった。
 その「相手を思いやる」という目標があればこそ、数千回、数万回を越えて刀を振り続ける稽古の「形式」にも意味が見出せる。それは、確実に刀を狙い通りに止めるため、「相手を思いやる」ためであり、だからこそ「狙い通りに斬れる」ということになるのだ。

剣の速さ

 何度か、館長先生が直に剣を交えながらご指導くださった。すでに高齢で、走ることもままならないお体だったが、私などはことごとく打ちのめされたものだった。ある時、遠慮なく打って来いというので、少しでも認めてもらいたい一心から、手加減なしに渾身の速度で突きを出した。
 その瞬間、突きは軽く捌かれ、気がつけば、蛇のように剣先が私の首筋に伸びてきた。あの、ヌルっと忍び寄ってきたような恐怖感は今でも覚えている。恐る恐る館長先生の顔を見ると、その表情は優しく、目を細めながら小さく声を出して笑っていた。
 剣の速さとは、剣の速度や動き等の「形」はどうあれ、自分の剣が先に相手に届くということだ。その目標さえ達成されれば、どんな形式や過程をとるかは大した問題ではない。体格差や実際の速度といった目に見えるモノに惑わされず、剣先を相手より先に突きつけられるのだから。

心気力の一致

「相手を思いやる」「人をいかす」のは、今の仕事としている言語教育も同じだ。この目標、目的が明確なら、教授の形式も過程も問題でない。でなければ授業形式しか見えず、相手も人も見えなくなる。
 目的、目標を明確にしていれば、形に囚われることなく、周囲に流れされることもなくなり、自由と安心が得られる。しかし逆に、目的も目標も明確でなければ、何も見えない不安定さから形にすがり、惑わされ、周りに流されるまま、不安と恐怖に支配されてしまう。
 「心気力の一致」。見える形式、見えぬ考え、そして目的、目標。これは剣にも教授にも通じるものだ。
 さて、今の姿を館長先生に見せたら…「まだまだ練りが足りないよなぁ。」そう笑うだろうな。

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