仏教は突き詰めれば宗教ではないかもしれないという話
仏教は突き詰めれば,宗教ではないという考え方がある。
確かに,仏教では人が歩む「道」については説くが,神による啓示や救済についてを説くことはない。そもそも仏教にはブッダ(悟りを開いた者)はいても神はいない。神という存在を自分の身体の外,世界のどこかに実在すると考え,神の恩寵と罰を説くセム的一神教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)と仏教との根本的な違いはここにある。
考えてみれば当然である。一切が「空」であるとする仏教が神の存在を認めるわけがない。従って,仏教にはゴータマ・シッダールタ(ブッダ)が説く「道」についての教えはあっても,神はいない。神にささげる経典もない。
だから,ゴータマ・シッダールタの死後,彼自身が神(仏)として崇拝の対象となっていったという事実は,彼にとっては甚だ不本意であることだろう。ちなみに,この点のみを考えれば,孔子が開いたとされる儒教も宗教ではないと言える。儒教も「礼」を説くが神は説かない。
だから,仏教を「仏道」であると唱えることも,これは仏教の本質を見極めてのことだろう。
人間ゴータマ・シッダールタが生きた紀元前5世紀,北インドを席巻していたのはバラモン教の教義,祭儀であった。バラモン教とは経典「ヴェーダ」を戴,祭儀を執り行う祭司階級であるバラモンを頂点とし,クシャトリヤ(王侯・武士),ヴァイシャ(庶民),シュ―ドラ(隷民)という身分制度を生み出した宗教である。これが,現在のヒンドゥー教のカースト制度の母体となったことはよく知られている。
この「ヴェーダ」の根本思想を構成するのは,宇宙の根本原理であるブラフマンと,個の根源であるアートマンという形而上概念である。万物は宇宙の根本原理であるブラフマンより生まれ出て,個の根源であるアートマンに至る。従って,宇宙の根本原理であるブラフマンと個人の根源であるアートマンは同一の存在であり,一部においてバラモン教的思想を継承する仏教思想ではこれを「梵我一如」と言う。
わかりやすく言えば,宇宙と個人は一体であるということであるが,これではわかったようでいて,まるでわからない。私なりに解釈すればブラフマンとは全体を指し,アートマンとは部分を指す。部分(アートマン)の集合が全体(ブラフマン)であると仮定すれば,この両者が同一であることに納得できる。部分は全体によって包含され,全体は部分によって構成される。これが「梵我一如」の本質であろう(ただし,部分の総体が本当に全体を指すのかという問題は個人的には非常に興味深いが,今回の話の本筋ではないので,扱わない)。
とにかく,バラモン教ではこのブラフマンの実在を信じ(これがバラモン教と仏教の根本的な違いであると以前書いた),そのための祭儀を司るバラモン階級のみが「ヴェーダ」を学ぶ資格があり,これを学ぶことで輪廻から解脱できると考えられていた。この思想は世俗的には祭司階級を頂点とした身分社会を肯定し,この身分制度は絶対に超えられない実在(あるいは社会的概念=当時の常識)として人々の上に君臨した。
このブラフマン的実在の思想を源泉として分泌される身分制度,圧倒的かつ論駁不可能な不平等,今でいえば逆立ちしてもひっくり返すことができない「格差社会」に対し,ゴータマ・シッダールタは「空」の思想でもってこれの解体を試みた。
宇宙の根本原理であるブラフマン,その祭儀を司るバラモン階級,バラモンを頂点とする身分社会,これらは「空(一切皆空)」である。したがって,輪廻から解脱する機会はバラモン階級だけではなく,全ての人に開かれている。これが「万人成仏」の思想である。
このレトリックがマルクス主義によって仏教が一種の革命思想であると解釈される所以である。
これが革命思想であるかはさておき(興味もない),ゴータマ・シッダールタは,「空」によって人々を取り巻くあらゆるブラフマン的実在である不平等を形而学的に解体しようとした。もっとわかりやすく言えば,当時の社会の身分制度や不平等を正当化するイデオロギーの源泉であるブラフマン的実在という社会常識の解体を試みたということになるだろうか。
そこで思う。ブラフマンとアートマンは一体であり「梵我一如」であるとした上で,ブラフマン(宇宙の根本原理)を解体するとなれば,アートマン(個の根源)はどうなるのか。社会的枠組みである全体を否定された個はどのように生きるべきか。
これは極めて現代的なテーマでもある。地縁,血縁などあらゆる実在的なつながりを失い,社会の中でばらばらになりつつある個はいかに生きるべきか?
ここで説かれたのが「道」である。自分の身体を取り巻くあらゆる実在を否定し,我執に苦しむ個もまた否定し,ひたすら自らの「道」を全うすべく修行に励めと。彼は,これによっていかなる人も涅槃(ニルヴァーナ)に至り,解脱できると説いた。
自分自身ではなく,自分のまわりの環境によって与えられる社会的な役割や肩書き,また、他者からの意味づけや評価というブラフマン的実在に惑わされる必要はない。また,自分の中のこれらについてのアートマン的実在に心かき乱されることもない。社会の評価に惑わされることなく,また,自分自身の虚栄心も乗り越えて,ただ,自分が良いと思わる行いだけを為せ。
これが,「空」における万物の絶対否定を経由した,世界に対する完全肯定へ道筋ではなかろうかと思う。そして,そこには自分を他力によって救済していくれる神は存在しない。頼るべきものは,全て自分の中に既に備わっている。
こう考えれば,確かに仏教は宗教ではないと言えるだろうし,ゴータマ・シッダールタが生きた時代を考えれば,なぜ彼が「空」を以て社会と対峙せざるを得なかったのかということもおのずと理解できる。
人間が人間に説く教えとは,超自然的な何かではなく,現実社会で生き,葛藤した歩みそのもの以上ものではないのかもしれない。こう考えると,仏教もゴータマ・シッダールタも身近なものに感じる。
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