高校生で脊髄損傷になって、軌道修正した夫の人生
事故
高校2年生の夏休み、アルバイトの帰りに友人とバイクで走っていたとき、青で直進していた夫の前に工事現場からトラックがバックで出てきた。雨の夜だったためにトラックが出てきたのがよく見えなかった。ブレーキをかけたが遅く、トラックに突っ込んで下にもぐり込んだ状態で止まったらしい。1週間意識不明で、事故から1週間後に病室のベッドで目が覚めた。ケガは胸椎の骨折のみで、内蔵へのダメージはなかったらしい。目を覚ましたときに、自分の足が動かないことはすぐに察した。
呼吸器を外したときに飲んだ水が、とてもおいしかったと言う。年齢も若かったため、リハビリは順調に進んだ。歩けないのだということは薄々は感じていたが、ある日女性の看護師に「何を弱音吐いてるの、この先もう歩けないんだから……」というようなことを前触れもなく言われ、「やっぱり、もう歩けないんだ」と事実を突きつけられた。さすがに、その晩は泣いたという。ただ、泣いたのはそのひと晩だけ。翌日には現実を受け入れて、前を向いていたそうだ。
車いすでもやんちゃしていた
今の夫からは想像もつかないとよく言われるのだけど、実は中学高校時代はかなりやんちゃしていたらしい。と言っても、普通の中学生、高校生が通るような道で、それほどの悪さはしていないようだけれど。でも、私みたいに真面目に(?)普通に生活してきた人間から見ると、ささいなことでも「あり得ない!」と思ってしまう。
高校2年生で、自分で貯めたお金で購入した単車に乗っていたという時点で、普通にのんびり過ごしている高校生とは違ったんだろうなとは想像できる。そして、つい先日新たな事実を知った。「オレ、事故ってなかったら、ホストになる予定だったんだよね」。ホストの話は聞いていたけれど、ホストになるのが決まっていたとは思わなかった。“もしかしたらホストになっていたかもしれない”のかと思っていたのに。“ホストになることが決まっていた”とは。
事故でケガをして車いすになったことで、その道は閉ざされた。だが、入院中もおとなしくしていたわけではないようだ。病院のスロープを猛スピードで駆け下りたり、消灯の時間にはベッドにいて、看護師の見回りが終わると病院を抜け出してファミレスで過ごしたり、およそケガ人らしからぬ生活をしていたようだ。
社会復帰への苦労
脊髄損傷は、損傷した部分から下が麻痺してしまう。頸椎、胸椎、腰椎と、受傷した場所によって残存機能も変わる。胸椎の下のほうや腰椎を受傷した場合は腹筋が利く場合が多いが、胸椎の上位だと体幹を維持できない。頸椎を損傷すると、腕を動かす機能が低下したり、握力に影響が出る場合がある。脊髄損傷でいちばん大変なのは、排泄のコントロールができなくなることだろう。社会復帰する際に、その点をクリアすることが非常に重要になる。夫も、事故後数年は、体調管理に苦労したようだ。
また、車いすになると、移動手段は車がメインになる。オートマ車に手でアクセルとブレーキを操作できる「手動運転補助装置」を取り付けて運転する。そのために、手動装置で運転するための専用の免許を取得しなくてはいけない。当時、その免許を取得できるのは限られた教習所だけで、まずそこに通うために夫の母が運転免許を取得したそうだ。それから、母に教習所までの送り迎えをしてもらい、自身も「運転補助装置取付車限定免許」を取得した。
両親は離婚していたため、中学時代から母子家庭だった夫。自宅はアパートの2階だったために、退院して自宅に戻ることはできなかった。事故から1年半ほどの入院生活が続き(現在はそんなに長く入院させてもらえないが)、その間日常生活ができるようになるためのリハビリが続いたという。1年半後に、車いすで生活できる家が見つかり退院した。高校は、一部バリアフリーに改装してくれたことで、事故の前に通っていた高校に復学できることになったが、2年遅れての復学となった。高校へは学校から許可をもらって、車で通学していたという。自分よりもふたつ年下の生徒たちに混じった高校生活を送った。
転機
ケガをする前に同学年だった友人たちは、夫が復学するころには卒業してしまっていた。その中のひとりが、アメリカに留学した。友人の父親がアメリカへ転勤となり、友人家族も一緒にアメリカに行くことになった。そして友人は、現地の大学に通うことにした。その友人は、渡米前にわざわざ夫の元に立寄り「遊びに来いよ」と声を掛けてくれたそうだ。その友人のひと言が、その後の夫の人生を変えたと言ってもいいかもしれない。
夫は2年遅れで高校を卒業した。進学は、国内の大学を1校受験したようだ。合格すれば、学内をバリアフリーにすると言われたようだが不合格だった。進学先が決まらなかった夫は、その年の夏にアメリカに留学した友人の家にもうひとりの友達とふたりで遊びにいった。そのときに、アメリカなら生活していけると思った。“バリア”は言葉だけだと思った。そして、翌年の秋に友人と同じ大学への進学を決めて、単身渡米。異国で初めてのひとり暮らしを始めた。友人家族のサポートはとても心強かったのだと思う。
アメリカで家探しをしていたときに、日本との違いを実感したそうだ。キッチンの高さが、車いすで座った状態で使うには高過ぎた。それを大家に伝えたら、キッチンの前にスロープ付きの台をすぐに取り付けてくれたんだそうだ。さすが、バリアフリーの先進国だなと思う。今でこそ、新しいビルはバリアフリー仕様になってきているけれど、夫が留学した当時の日本はまだまだ遅れていたから。
日本でだけ生活していたら、車いすであることを引け目に感じていたかもしれないけど、アメリカに行って、環境さえ整えられればなんでもできるのだと実感したようだ。車いすで生活できるように整えられていない、日本という国に問題があるのだと思えたということは、夫の人生に大きく影響したのだと思う。
帰国と就職
語学留学期間と大学に通った期間を合わせて、6年ほどのアメリカ滞在だった。MBAを習得しようかと勉強していたがあまり興味が持てず、途中で専攻を心理学に変更した。これがとても面白くて、熱心に勉強したらしい。たくさん遊びもしたけれど、たくさん勉強もした。そして無事に大学を卒業して帰国することになった。
帰国後、特に就職を考えていたわけではなかったらしい。でも、なにか社会の役に立ちたいということで、ボランティアセンターに顔を出していた。だが、なにぶん車いすなので、ボランティアの仕事も紹介してもらえるわけでもなかった。そこに、たまたま来ていた男性が、夫のことについていろいろと話を聞いてくれた。ケガのことやアメリカに留学して、大学を卒業したことなどを話したら、仕事先の世話をしてくれることになった。その男性は、ある大きな会社の下請け会社の仕事などを紹介しようと思ったらしいのだが、大元の会社の人事がもったいないからうちで採用したいということになったらしい。そして、4〜5回の面接を経て、一部上場のかなり大きな会社に契約社員で採用されることになった。
で、当時の夫はというと、前髪も伸ばした長髪で(ワンレン&ロンゲ)、その長い髪を後ろでひとつに結んでいるという、そんな容姿だったらしい。お固い会社が、そんな人物をよく採用したと思う。
さらに、契約社員として1年働いて、でもやっていることは社員と変わらない。そこで「社員にしてくれないなら辞める」と言ったらしい。どこまで強気なんだ。そこで契約解消されてもおかしくなかったのに、なぜか正社員として採用されて現在に至る。
テニスとの出会いと結婚
留学から帰ってきてまだ就職が決まっていなかったころ、車いすの友人の家に遊びにいったら、ある雑誌が目にとまった。障害者スポーツを紹介している雑誌で、その表紙にはテニスをしている男性が載っていた。国内の車いすテニスプレーヤーの第一人者だった。夫は、リハビリで入院していたときから、何かスポーツをやりたいと思っていたが、車いすバスケはあまり性格に合わず、やりたいとは思えなかったようだ。アメリカではときどき友人たちとテニスをしていたらしいのだが、普段使っている車いすではボールを追いかけることは難しく、近くに来たボールだけを返球していたのだという。
その雑誌で車いすテニスを見つけたときは「やっぱりできるんだ!」と思ったのだそうだ。当時、アメリカは車いすテニスの先進国だったから、アメリカにいたときに始めていたら、ずいぶん違っていただろうなあと思う。
就職が決まるのと、ほぼ同じタイミングで車いすテニスを始めた。メキメキと上達して、年に3回ほどの大会にも出場していた。仕事とテニスの生活を続けていたある日、いつものテニスコートにある女性がやってきた。それが私だった。会ったその日にお互い惹かれ合い、5年後に結婚に至った。(詳しくはこちら→http://storys.jp/story/6835)
父親になる
結婚して1年後には第1子がお腹に宿り、翌年の2月に男の子が誕生した。脊髄損傷の場合、不妊治療なくしては子供は授かれない。これはまた別の機会に書こうと思っているけれど、不妊治療がこんなに大変なものだったなんて、全然知らなかった。病院に行けば、余裕で子供なんてできるんでしょ、となんの知識も持たずに通院を始めて、簡単には授からなくて、かなり打ちのめされたりしたけれど、それでもなんとか第1子を授かった。命って、本当に奇跡なんだと思う。
鬼嫁は、車いすなんて関係なく出産に立ち会わせた。私の母は、「出産には絶対に夫を立ち会わせること!」という厳命を下していたので、義兄ももちろん立ち会った。そして、夫も「当然でしょ」と、快諾してくれていた。出産前の父親学級には参加できなかったけれど、助産師さんが時間を設けてくださって、夫にも出産の心得などを話してくれた。
出産当日、どんどん陣痛が強くなって、寝転がっているしかない私。その間、夫は私の母と、せっせと出産中に食べられる食事を用意してくれていた。おにぎり握ったり、カステラなどの焼き菓子を小さく切ってお弁当に詰めたり。いよいよ陣痛の感覚が狭まり病院へ行って入院となった。
初産でぎゃーぎゃー騒ぐ私の腰やら背中をさすりながら「大丈夫だよー。大丈夫だよー」と声を掛けてくれる夫。助産師さんには「素晴らしいサポートでした!!」と大絶賛だった。母も「お医者さんみたいだったわねー」と言っていた。出産に立ち会うの、初めてだよね??
鬼嫁は、車いすなんて関係なく育児にも参加させる。できないことが多いのは当たり前だけど、どうにかしてオムツ替えや着替えなどができるように工夫した。夫も自分で工夫して、いろいろできるようになっていった。
そして、その3年後に、第2子が誕生。今度は女の子。里帰りしていた私の実家に、たまたま夫が泊まっていた夜中に陣痛が始まった。これは確実に生まれてくる感じの強い陣痛にうんうん言っているのに、なかなか部屋から出てこない夫。何をしているかと思ったら、ヒゲを剃っていた!! ヒゲなんかいいから、早く病院へ連れていけー!!
夜中の3時ごろに入院。経産婦になった私は、今回は余裕〜。前回のようにぎゃーぎゃー騒いだりせずに静かに陣痛を逃していた。ぼちぼち分娩台に移りましょうと、やけに静かな感じで出産が進行。が、破水してからドタバタになり、朝礼直後の助産師さんたちが全員集まり物々しい雰囲気の中で出産。上の子のときもドタバタだったからなあ。上の子のときも、もちろん我が子を見て感動したんだけど、ふたり目ってなんだかよく分からないけれど、また違った感動があって、夫とふたりで泣いてしまった。上の子のときは、泣かなかったのに。今回も助産師さんからは「素晴らしいサポートでした!!」と夫は大絶賛された。前世は産婦人科医だったのか??
夫は上の子の世話も、下の子の世話も、私の家事の手伝いも、いろいろやってくれた。新しく購入した抱っこ紐は夫でも使えるものだったので、外出のときは夫が下の子を抱っこして車いすを漕いだりしていた。すれ違ったおばさんが「あら、あの車いすの人、赤ん坊を抱っこしてるわ!」と驚いていたっけ。
今では子供たちも成長して、ずいぶん楽になってきた。子供たちが、自分の父親が車いすだということを、この先どうやって受け入れていくのだろうか。
幸運をたぐり寄せる力
夫は事故に遭ってケガをした日のことを「もうひとつの誕生日」と言う。初めて夫の口からその言葉を聞いたときに、なにかとても強いものを感じた。車いすで生活しなければいけなくなったその日を、「生まれ変わった誕生日」と言えるのって、並大抵の精神力ではないと思う。
事故でケガをして本当に苦労して生きてきたのだと思うけれど、話を聞いていると要所要所でとてもいい巡り合わせをしているように思う。自分から幸運をたぐり寄せているかのようにも感じるほど、友人やその家族に助けられたり、見ず知らずの人に就職の世話をしてもらえたり、縁とは不思議なものだと思う。私との出会いが、夫にとってよかったのかどうか、私には分からないけれど。
そして、仕事は出会ったころよりも多忙になり、車いすだということを忘れられているくらい働かされているようで、ありがたいと思う。まっとうな会社のまっとうな仕事をして、家庭を持って、二児の父親で……、夫は自分がこんな人生を送ることになるなんて、思ってもみなかったと言う。なにしろ、ホストになることが決まっていたのだから、事故に遭っていなければ、こんなふうに家庭を持ったりしていなかったと思う、と。
夫の場合、決して強がりではなく、車いすになってまともな人生に軌道修正されたと本気で思っているのだと思う。
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