母を自宅で看取り天涯孤独になった瞬間の話。③

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2003年8月12日 last  29 day


あの電話で泣いた日からはや9か月が経ったある日。

さっきまで、仲間と来週行く夏フェスに参加する話でわいわいしてたのに。
さっきまで、仕事の同僚に愚痴聞いてもらい、心のもやもやがすっきりしてたのに。



夜21時に電話がきた。

「来週、もう死んでるかも・・・」
つい今しがたメールで、来週休みがもらえたから実家に行くよって打ったら、それすら間に合わない勢いとの返事だった。
夏フェス楽しみだったし、病院での研修もちゃんと受けたかった迷ったけど、やっぱり実家に行かなきゃだめだよなって思った。
だって、気分良く遊べないでしょ、フェスに行っても親が死んでたら。
それにここでもし間に合わなかったら一生後悔するだろうし。
ネットで最終便探して22時のJRで帰ることにした。
あとで聞いたら、同日の夜行バスだと台風の影響で迂回しなきゃならなかったらしくえらい時間がかかったって後輩が言ってたので、JRで正解だった。
行く前に事情を知る仲の良い友人に電話したけど繋がらなかったので、心細く思いながら明日TELすることにする。
最も古い付き合いの友人に電話した。
そいつ「親が倒れる前にちゃんと俺に連絡しろよ」って以前言ってくれたので。
がんばって堪えてたのに、状況を伝えたら「お前は大丈夫か」って真っ先に俺を心配してくれた。
堪えてたもんが一気にあふれ出て泣いてしまった。
ちょっと動揺し始めた。
俺が「とにかくお前からも母に電話をしてやってくれ」って伝えたら、すぐに俺との電話を切って早速俺の母のところに電話してくれたのが本当にうれしい。
しかも「連休とって職場がある静岡から函館まで帰ろうか?」とまで言ってくれた。
本当にありがとう。
職場の看護師長に電話掛けたが繋がらず、主任に電話したら最後まで伝える前に「仕事はあんたがいなくてもなんとでもなるから、気にしないですぐに行きなさい!」とわかってくれた。
内心かなり動揺してたが、主任の励ましで何とかがんばれそうだった。
速攻用意してJRに飛び乗った。

かなり動揺して無我夢中だったが、葬式用に礼服だけは用意してた。

覚悟している。
激動の最後だと。

2003年8月13日  last 28 day



家に着いたのは夜中3時。
帰省を母に連絡してなかったので、普段必ず掛かっているチェーンが掛かってなくて逆にびびったが、友人が「さっき電話で話していて、すぐに函館に帰ってくるみたいだよ」と伝えてくれていたそうだ。
ありがとう、本当に。
母は本当にやつれていた。
下半身は浮腫でぱんぱん。大腿部まで浮腫んでいる。圧痕が半端無く残る。
これほどの浮腫は見たことない。
上半身は骨と皮だけって感じだ。肉が殆どなく、顔は目の付いてる骸骨だった。

動揺した。
表情に出せないが、相当動揺した。
2週間前に比べても本当に悪くなってる。
飲水量も排尿量も一日500ml以下で、今日は一日で200mlしか出てないと言っている。
普通は1500ml前後一日で飲んで出すから、200mlは普通では考えられないレベルだ。
食事もほとんど取れず低栄養状態が続いてるとのことで点滴を薦めてみた。
今日訪問看護がくる時持ってきてもらうことにした。
夜間もぐっすり眠れていないという。
体力がここ数日でがたんと落ちた様子だ。
あまりにも急激な変化だ。
朝まで一眠りした後、訪問看護に連絡し栄養の点滴持ってきてもらった。
IVHポートから入れる。




数カ月前に抗癌剤治療を辞め、自宅で最期を迎える覚悟を外来で医師に伝えた際、2つの提案を受けた。

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