この世のすべてのものが「空」であるならば,「苦」もまた実体のない「空」であるはずだろう,という話
仏教の根本教理は「苦(一切皆苦)」と「空(諸行無常・諸法無我)」であることは既に触れた。
が,この世のすべてのものが「空」であるならば,「苦」もまた実体のない「空」であるはずだろうと素朴に思う。しかし,この素朴な理屈を身体感覚でもって納得できる人間はめったにいない。もしいるとすれば,それは既に涅槃寂静の境地に達していると言えるだろうし。
だから,仏教とは生きていく上で私たちにの前に立ちはだかる「苦」をどのように「空」として認識していけるかについての実践の方法(形而上学ではない)であると言える。従って確証はないがこの教えは決して虚無主義ではないということになる。
ゴータマ・シッダールタ(釈迦)はまず,この「苦」とは何であろうかと考えた。これには生病老死の四苦,あるいはさらに愛する者などとの別離などを加えた八苦と言われるものがある。
このように「苦」の実態を分析し,把握する段階を「苦諦」とし,この原因を探る段階を「集諦」にまとめ,さらにこれを止滅させていく段階を「滅諦」とした。最後にこれを止滅させる実践の道筋を「道諦」として明らかにした。これら「苦」の止滅に至る4つの段階を四聖諦という。
わかりやすく言えば物事をありのままに分析し,その姿を明らかにしたうえで,その原因を探る。それから,その原因を解消するための方法を具体的に定めるということで,四聖諦などと漢語で表わすと難解であるように思われるが,その実極めて明快な論理に基づいた教えである。論理の道筋において全く古さを感じさせない辺りもインド哲学のスゴミなのかとも思う。
とにかく,「苦」を生病老死の四苦,あるいは八苦とした上で,その原因を探る「集諦」とはどのような段階であるのか。あらゆる「苦」の原因はつまるところ我執と渇愛(しながらもそれが得られないこと)であると言われる。もっと簡潔言えば煩悩そのものということになる。実際はこの煩悩と苦の因果関係を12に分類しそれを十二縁起と呼称するようだ。これを個別には取りあげないが,とにもかくにも仏教ではコトの筋道を徹底的かつ論理的に突き詰める。
そして,「苦」の実態と原因を突き詰めたところで「滅諦」の段階に入る。ここで,あらゆる「苦」は「空」によって解体される。「空」の世界観においては,確固とした物体も個人も存在しない。現在,過去,未来という時間軸をも否定し,あるのは未来永劫続く「今,ここ」のみとなる。
全てが「空」なのだから,我執も渇愛も全て実体がない。他者についてのイメージも,自らについて抱くイメージも全て自分の執着によって映し出されている幻影である。自分以外の他者が自分に「苦」をもたらしているのではなく,それは自分が他者に抱く根拠のないイメージに過ぎない。そもそも他者が自分のことをどう考えているなどということは根本的に知りようもない。
このような思い込みによって,人は人を憎み悪意を抱くが,実際はそれらは自分自身が作り出す他者についてのイメージの産物であって,その人の人となりではない。全ては,自分自身のイメージについての執着と,求めて得られない自分自身の焦燥がそうさせているだけのことかもしれない。憎しみとは人に向けられているのではなく,自らが作り出したイメージによって自分自身に向けられ,自縄自縛状態の中でこれに囚われ苦しむ。さらに自分すらも実体がないというのだから,このイメージにももちろん実体はない。
(ここまで書いたが,自分自身に実体がないといことについては,今のところよくわからない。いわゆるデカルト的な「コギト」について仏教ではどう考えているのだろうか?ゴータマ・シッダールタはこのような形而上学的な問いは真理に至る実践とは関連がないとして退けたと言われているようだが,どうもしっくりこない。)
また,人はこれまでの歩みである過去の行為を後悔し,これから訪れようとする未来に不安を抱く。しかし,そもそも私たちが「ある」と信じて疑わない過去も未来も実はイメージの産物であって,「こうありたかった過去」,「こうありたい未来」についての執着と渇愛でしかない。私たちはただ,身体が感じることができる「今,ここ」をよりよく生きることのみを考えれば,過去や未来に思い悩むことはない。いつだって今,と考えればその積み重ねだけで人間は生きていける。
これが「滅諦」であろう。
このようにあらゆる「苦」を止滅させたうえで,最後に説かれるのが「道諦」である。これは,どうすれば「苦」を滅していけるかについての実践そのものである。正見(正しい見解を持つこと),正思惟(正しく思索すること),正語(ただしいことばを使うこと)など八つの正しい行いによって「苦」が滅せられる。これを八正道といい,これが仏教修行の基本をなす。
このように仏教では「苦」を非常に論理的かつ精緻に分析し,そしてその止滅に至る具体的な実践方法をまでを詳らかに説く。この点が仏教を実践の教えとすると断じる所以でもある。
もう一度言うが,頭で理解することはさほど難しいことではない。しかし,これを身体感覚として感得することは容易なことではない。だから,仏教では座禅や瞑想といった身体的な行いを重視する。そして,部派にもよるが最終的には言語を超えた真理を身体の活動によって会得することを究極の目標とする。これも,仏教が実践の教えと言われる別の所以であろう。
しかしだ,なぜ仏教はこのように「苦」とその止滅にこだわり続けたのだろうか。「苦」の止滅に執着し,それを渇愛する(そして,それが得られない)ことも一つの「苦」であるとは言えないだろうか。「苦」は「苦」のままに自分の身体の一部としてこれを受け入れ「苦」と共に歩むという思想は仏教には存在し得えなかったのだろうか。
もしかしたら「苦」とは生身の人間であったゴータマ・シッダールタがその人生において否応なく対峙せざるを得なかったテーマであったのかもしれない。断片的にせよ今日まで伝えられている彼の人生の歩みを知るとき,どうしてもこんなことを考えてしまう。
彼の人生にとって「苦」とはいかなる存在であったのか。このことについては機会があれば触れたいと思う。
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