転職で袖が擦りあったボスたち

はじめに

 私は今まで7回の転職を経験しています。大学院を24歳で出て、55歳の今まで約30年の会社人生ですから、4~5年に一回会社を変わっていることになります。実際は、10年近くいた会社が2社、いわゆるスピンオフ的な転職が2回ありますから、それほどコロコロ変わっているわけではありません。いつもバイオ業界の診断や分析の世界にいたようですし、今もいますし、これからも居続けるはずです。基本的には技術ベースの事業開発とマーケティングの人です。


1)国産中堅製薬企業にて

 最初の会社は中堅製薬会社の研究所勤務。新人時代からいきなり「管理職扱い」には驚きましたが、そこでは中国の教授級研究者2名のご側用人的仕事を仰せつかっておりました。中国語は今でも出来ませんが、片言の英語を使いつつ、全国の研究所を巡ったり、社内で一緒に実験をしたりと面白かったものです。彼らに日本生まれの中華料理を食べてもらった時の驚いた様子は今でも忘れません。また、上海と河南では言葉が違うので、いつも言い争いをしていましたが、その時は英語で仲介。変な世界です。

 そんな稀有な機会を与えてくれた人生最初の上司はとにかくユニークな人。馬力があって、社長にまで直談判するような人。それなりに大きな会社で、かつ階級が厳しく設定されていた会社でしたが、自分の仕事のためには階級なんかドンドン壊して飛び越えていく人です。部下にとっては最高の上司です。何しろ面白い仕事をいくらでも引き込んできます。

 その上司はいつも「自分がこうじゃなければならないと思ったものは諦めずに突き進むこと。失敗すれば責任をとればよいだけのこと。迷っちゃダメだ」と。ここでの上司の姿は、私の上司像の基本になっています。


2)外資系診断薬機器企業にて

 次の会社は外資系の診断薬企業。後に急成長して世界屈指の企業になったのですが、私が入社した頃はまだ中堅企業。しかし仕事ができる人が多かったこともあり、「この会社は化けるぞ」と思ったものです。そこでは5人の面白い上司に出会っています。何しろ一番長く勤めていた会社ですから。

 一人目はユダヤ系アメリカ人の役員。未だに付き合いがあります。入社時は臨床開発、薬事が私の仕事だったのですが、最初の頃は日米MOSS協議に引っ張りだされ、大使館と厚生省、そして会社を行ったり来たり。

 何しろ上司はユダヤ人の典型みたいなおじさんですから、要求水準は高かったですね。26歳の若造のそれも異業種からやっていた人間に、いきなり「新規ガイドラインの承認申請書記載事例を作れ」と来たものです。とりあえず私は薬剤師なので、薬事関連法規に土地勘はあったもののドッキリの世界です。結局は「エイヤッ」と作ったものがそのまま課長通知や製造指針に記載された時にはそれこそびっくり。

 その上司は「できる奴、ポテンシャルのある奴がやればいい。年齢なんか気にして仕事なんかするもんじゃない。少しずつ大きな服を着せ続けることで、やがて服のサイズは合ってくるものだ」と。ちょっとずつ目標をストレッチさせて人を育て続けるユダヤ式の人材育成はこの頃学んでいます。たぶん私と仕事をした若手が、私のことを「無理難題爺」と思っていることでしょうが、それはその時の上司の影響です。

 二人目は日本人の元TV技術者のマーケティング本部長。当時、私は薬事と製品開発と臨床開発担当で、マーケティングは社内的にはカウンターパートナーです。そこのお偉いさんはやがて私と密に仕事をすることになるのですが、いきなり私に「なあ、笹やん(当時のニックネーム)、この会社でダントツ面白いと思うものは何だ。特徴があって市場を席捲できるものはあるんかのぅ」と。その時に私が指し示した一品は、かなり癖があるものの価格的、性能的優位性が際立っていましたが、薬事的には「こんなのどうするのよ」というほどの無理な製品。ところがこの人、「これなら行けるな。笹やん、しばらく付き合えよ」という一言で、マーケティングに引き込まれていきます。

 当時、27歳の若造でしたが薬事申請担当責任者の私としては、「こりゃ、是が非でも申請を通さないと殺されてしまうな」と思ったものですが、マーケティングの妙を間近で見せつけられると、知恵も湧くものです。

 結果的には厚生省だけでなく科学技術庁にもロビーイングする羽目になりますが、業界では「常識外れ」と言われるような申請作業で短期間で承認取得。それはそれでいいのですが、間近で見せられたマーケティングはもっと印象的。私はこの時点では学術的な説明を相手を見ながら、ここでもロビーイングです。シナリオはここで絡んだボスが書いたもの。

 何しろ巧みに市場の大所を落として、それも「そっと落として」、時期が来ると一斉に切り替えです。そりゃ、競合企業はびっくりしたことでしょう。一夜にして市場の70%以上が転がってくるという仕掛けで、結局、同じ測定項目を上市していた企業は撤退です。私もこの上司も、競合企業にはいろんな意味で「恨み」があったこともあって、「やるなら退場まで」と心に誓ったものです。

 この上司は「マーケティングプランは理屈、説得も理屈。しかしお客さんへのベネフィット訴求はビジネスを越えた熱意。この論理性と熱意のバランスが重要。また、市場は一気に70%とれば、競合は間違いなく戦意喪失。一気に獲ることがミソ。これが勝つためのマーケティング」。この手法はその後自分自身では一回だけ使いました。その一回を使った後に、「月夜の晩だけじゃないぜ」と競合企業からお話をされた時、「ビジネスは戦争だな」と思ったものです。

 三人目は長く一緒に働いた上司で語学の達人。何しろこの人、いくつもの言語を自在に操る化け物のような人。文系出身にもかかわらず理系以上に技術も深く理解しているあたりがただものじゃない。何しろ当時、海外ともコミュニケーションはファックスベース+電話。電子メールはまだありません。

 毎日、何枚ものファックスを米国や欧州に出すわけですが、この上司のチェックは容赦ないものでした。私だけは100万円もしたMacを買ってもらったのですが、当時のMacのワープロや作図ソフトがほぼ一日中動くくらいの書き直しの山です。しかし、それがよかったんでしょうね。今でも当時の上司には感謝しています。この上司曰くに「言葉は手段。しかし手段を疎かにすることで仕事は壊れる。侮る無かれ」。言葉こそ人を動かす最高の手段ですね。

 そして四人目。この人はプレゼンの達人。今でもプレゼン道場をご自身で開いています。アメリカの超有名ビジネススクールを二つも出てきた猛者で、とにかく説明がうまい。まだ私はその域には達していません。

 例えば海外でのプレゼンなどは、当日明け方まで練習に付き合うという熱心さ。それになんといっても事業系プレゼンのストーリー立てがうまい。事業系、例えばマーケティングブランなどでは、「最初にコミットメント数字を出す」というようにです。意外と日本人のマーケティングプランは最後に数字が出てきますが、これでは欧米人の説得は不可能です。ビジネスでは数字ほどモノを言う代物はないというのが真実ではないでしょうか。

 この上司が常々仰っていたことは、「プレゼンは説明じゃない。説得だよ。それも客観指標を元にした数字でモノを言うこと。そして演者の大事な思いを短い言葉で自信たっぷりに言ってのけること。本当に大事なメッセージは5行もあれば十分。ここはしっかりと感情を込める。結局は共感をどこまで数字とプラン&思いで作り上げるかがビジネスの説得よ」。こういう説得は出来そうでなかなか出来ないことです。

 この会社でのしんがり五人目はこの会社の社長だった方。武勇伝という言葉がピッタリですが、日本の代表者として臆することなく欧米人を手懐けてしまう人です。頭が良いのは当たり前ですが、なかなかお茶目で、しかし、シリアスなこともやってのける。例えば数字のコミットメント場面で、「おもちゃの刀を使って、腹切り」を演じてしまうあたり、グローバルの副社長も兼ねる人がやるのは珍しいものです。

 しかし、こういう行動が通じるのは、日頃の仕事が「結果の積み重ね」であることをよく理解しているからであり、かつ中期的な視野でのスコープは高い見識のもとで、緻密に事業を構成できているという隙の無さのなせる業です。

 よく私も言われたものですが、「笹嶋君、事業を作る君は分かると思うけれど、人と人をつなぐ場面での隙は命取り。しかし、遊びの部分も大事。遊びがないと擦れ合って人と人の糸は切れてしまうだろう。君がやがて会社を動かす世代になる時まで覚えておいてほしい」とね。いやあ、覚えてはいますが、まだうまく実践できている実感はないですね。


3)外資系医療機器企業にて

 ここは2年弱しかいなかったのですが、ここでの出会いは、当時の臨床開発責任者の私が出会った一人の医師。若くして既に他界されているのですが、この先生から教わったことは、同じ医療人として忘れるわけにはいきません。

 私の担当はあるデバイスの臨床研究。その研究のリーダーがその先生です。元々名医として世界的にも有名な先生で、しかし臨床を大事にする先生。患者さんのためならどんなことでもやってのける神様のような人です。

 普通、こういう権威筋は居丈高な人が多いのですが、この人は全く違います。実に「そこら辺のおじさん」のノリです。しかし、仕事には異常なほど厳しい。私のような外部の人間にも、倫理的な部分も含めて優しく、しかし本質的な部分を厳しく指導してくれます。企業がやるべきこと、やってはいけないことなど、本当に厳しい指導があったものです。

 最近、ある薬剤の臨床研究の事件が起きたようですが、私には企業の責任だけとは思えないものがあります。そこに関わった医師たちが、企業の行動を制御できないわけがないのです。そして、早期に企業が自ら襟を正すように仕向けることは出来たように感じます。

 それはさておいて、この先生には私自身の人生相談にも乗ってもらったことが何度かあります。その時に頂いた言葉が秀逸です。

 「人間の一生は儚い。儚い一生でどこまで人の役に立てるか、自分がまさに患者さんの前で何をすべきか、いつもそんなことを考えて生きている。笹嶋さんは、この(循環器の)世界にずっといてほしいけれど、笹嶋が納得できる世界で腰を据えて、役に立つ場面を考えてみてはどうなんだろうね。得意分野である診断薬開発でも創薬技術開発の場面でも、いろんなことをやれる人だと思う。でもね、この世界で感じてくれたと思うけれど、痛みに苦しむ患者さん存在だけは絶対に忘れないでほしいなあ」とね。

 一旦、診断薬の世界から足を洗った私が後に元の世界に舞い戻ることになるわけですが、「患者さんを忘れないで」という言葉は私自身の金言です。今、診断薬、再生医療や物質生産の基材事業に身を置いている私ですが、「患者さん」の存在を忘れたことはただの一度もありませんし、いつも仲間には、「患者さんを救うことがミッション」と言い続けています。


4)財閥系化学企業にて

 外資系診断薬企業時代のカウンターパートナーだった会社に転職することになった私でしたが、ここでの上司はマッチョな人でした。確か私が入社した時点で私の今の年齢と同じはずですが、とても信じられないほどの体力です。アメリカから帰ってきて3日で、欧州に出かけるなんて朝飯前。

 当時の私は3足のわらじを履き、アメリカに会社を作りに行ったり、国内ではコーポレート事業部門としての事業再構築、研究所の人間として技術インテグレーションのための社内外技術探索、はたまた診断薬事業部門としての薬事担当でもあり新規事業担当だったり、忙しいこと甚だしかったのですが、この上司からみればまだかわいいものです。

 この上司、ただ単に体力があるだけではなく、判断が速い。何しろ仕事の速さでかなう人はまずいないでしょうね。しかし一つ一つの判断はかなり重いもの(例えば事業売却)です。後に同じような重い判断を別の会社で自分自身がする時は、とても即断即決というわけにはいきませんでした。

 こんな感じの上司ですから、仕事の速度についていくのは大変なものでした。ただよく見ると、この上司は仕事の優先順位の付け方が絶妙にうまかったわけで、結局は案件を短期、中期、長期の数字のインパクトでザザッと計算して判断していたようです。

 数学は苦手ではないですが、算数がからっきしダメな私には到底できる業ではないですね。そんな上司が、「笹嶋さんはいろんな仕事を持ってきちゃうから大変だよ。でもね、たくさんの仕事を捌くからこそ、大事なことほど早く決めなきゃ。いろんな仕事やビジネスをやっている人の後ろには家族がいるんだよね。そんな家族も含めた人の人生を動かすのが仕事なんだけれど、だからこそ躊躇していちゃダメなんだ。最適解を見出してすぐに動く。そして企業にとっての最適な姿を見出すこと。判断には大きな責任が伴うけれど、そんなものは全部背負っちゃえばいいんだよ。そうしなければ何も進まない」と。

 今、会社の経営陣の一角を担っている自分にもよく理解できる話です。だからこそ、判断が遅れる場面に出くわすと、本当にイライラしてしまうのです。責任の所在の不明確さも含めて、基幹産業の日本企業の意思決定の遅さは、あれから10年経ってもなかなか速くならないですね。そろそろ新しい世代に登場してもらうべきだろうと真剣に思います。


5)米国のバイオベンチャー企業にて

 自分も参画して作った光学分析装置のベンチャー企業。本社はボストン郊外。結局、9.11以降の不景気に負けてしまったのですが、ここのCEOは私よりも4つ年下の弁護士で公認会計士という御仁。しかし、ベビーフェースで奢ったところもない、いかにもアメリカンな人。今、某企業のCFOで活躍中。

 彼と私はウマがあったようで、互いに補い合う関係。私は副社長として技術屋で事業開発屋。彼はアライアンスを作り上げる人でオペレーションの人。そこにPCRでノーベル賞をとったチームにいたCOOのスター研究者がいたのです。COOは本当にエキセントリックな人でしたが、やはり天才でして、今でも彼は私が一緒に仕事をした仲間で最も優秀な人の一人です。

 ここではCEOが私の心に残った上司として語られるわけですが、何が印象的かというと、彼は会社の父親としてのCEOを説いたのです。いつも彼は弁護士として契約を扱っていて、「普通、アメリカ人は契約なんか気にしないんだ。契約書の在処だって忘れてしまうくらいだ。しかし、いざ喧嘩となれば殴りあうわけにはいかないから、契約書で喧嘩の範囲とやり方を決めるわけ。だからこそ契約書は大事だし、喧嘩した時に困らないようにしないといけない。会社の運営だって、CEOは普通空気みたいなもの。方向性や夢はくどいくらいに語っても、細かいこと、例えば基盤技術や事業の作り方は君に任せるし、製品化はCOOに全部任せる。それでいいんだ。しかし、いざ会社になにかあった時、最後の砦はCEOなんだよ。普段は優しく組織を見守り、いざとなったら徹底的に戦う。まさに父親だ」と。

 まだ私はCEOになったことはありません。大きな組織の長は平の取締役までです。しかし、経営者とは「最初と最後の責任の所在」なんだろうと思うことは幾度となく感じる場面に出くわします。何か事件があった時、父親が逃げる家庭を想像しにくいように、会社にも最後の砦としての経営責任者がいるわけです。将来、CEOになるとはとても思えない私ですが、「全ての責任を背負って、尚会社を守る勇気と気概、戦う姿勢、そして普段は組織を優しく見守る目」は、いつも持ち続けたいですね。


6)日本のバイオベンチャー企業にて

 財閥系企業在籍時に、企画したもう一つの会社がここ。米国ベンチャー企業を忸怩たる思いでたたんで、財閥系企業時代の少し上の同僚が社長をやっていた会社に事業開発責任者としてスライド入社。そこの社長こそ、「ビジネスモデルの神様」と私は思うわけです。

 何しろ、この社長が努力を惜しまず、徹底的に考え続ける姿勢をみるだけで、こちらも仕事をしてしまう迫力の持ち主なのです。同時にベンチャー企業はビジネスモデルが命であることを、10年以上も前に教えてくれたこの人には本当に感謝です。

 この人のビジネスモデル論は、おそらく、近年上場したベンチャー企業がほぼ何かしら採用しているように思います。特に最近はバイオベンチャーの上場ラッシュです。私もこれらの企業のビジネスモデルを研究対象として分析していますが、間違いなく10年前には、当時のこの会社の社長に現在のバイオベンチャー企業のモデルの類型を全て教わっています。

 それだけに、「まだ実践されていないビジネスモデル」もあります。どこかでこれを試してみたいようにも思いますが、中堅企業でサラリーマン生活をしていると、これをその場で試すことは不可能です。さりとて自分で起業するほどの才覚はないと自覚しているので、優秀な人材がいそうなベンチャー企業を影で支えていくようなことで、新ビジネスモデルを実践してもらうことはあり得るかもしれません。いずれにせよ、こればっかりは運と巡り合いです。いつかどこかで、次世代バージョンのバイオビジネスモデルを使いたいものです。

 この上司に学んだことは、「ビジネスは技術(シーズ)と人(顧客ニーズ=顧客さんの喜ぶ姿)の連鎖で構築するんだ。事業の種は一つでも、あらゆる場面で事業を生み出す仕掛けを、まさに大きく枝を広げる木のように考えてみる。もちろん事業にはポジショニングがある。そこも明確にすることは大事。同時に投資はできないから事業の開花の順序も大事だ。何より最終的な企業のゴールと成功のイメージを明確にし、そこから木をデッサンするような描けばいいんだよ。喜びの連鎖ともいうかな。下世話な言い方をすると、一度で何度も美味しい思いをお客さんとできる仕掛けかな」と。「事業が事業を生み出す仕掛け」という部分と、事業のポジショニングという部分は、事業開発の肝ですね。

 技術だけで成り立つようなビジネス、モノが先に出来上がったビジネスがうまくいかないのは当然です。そこに顧客と技術の連鎖がないからでしょう。逆に、顧客が求めるものをイメージして、そこに技術セットがうまく機能するような仕掛けを作り、そこの成果物が、また別の技術シーズとなり、別の顧客ニーズを満たせる(もしくは新たに作り上げられる)ような仕掛けを作れば、事業の成長という連続が動き、大きく発展するわけです。それを最初から計算して事業ポートフォリオを組み上げれば、面白い事業ができるでしょう。大事なことは事業は旬ですし、確率が物を言います。博打のような技術シーズだけ揃えてもダメで、プラットフォームとして、尖った技術と枯れた製品化技術のセットがよいでしょう。繰り返しますが、肝は顧客が喜ぶ姿をどこまで具体的にイメージできるかで、その喜びをできるだけ分かりやすく技術に落としこむ(技術で達成できる姿に書き換える)ということですね。


7)最後に

 それ以降は自営業を3年間、中堅日本企業に7年間勤務しています。今は平取締役です。3.11の時は臨時の危機管理担当役員も務めたのですが、もう私には上司という人がいないように思います。そこまで年を食ったとも言えますね。(危機管理担当だった3.11の時のことも自分の歴史としてどこかで記しておきたいですね)

 今年後半、私に再度の転機が訪れることになります。その時、今までの上司から教わったことをうまく生かしつつ、自分なりに発展させて、若い人たちの活躍の場を一つでも多く作り上げたいと思います。これから日本を背負う人が困らないように。

 そして、彼らが困った時、責任を背負い込んで盾になれれば、最後の職人人生もまっとうできるだろうと。どこまで人のお役に立てるか、患者さんの生活を少しでも好転させることができるか、日本発の事業(やサービス)を地球規模で拡大させて、地球上の人類のお役に立てるか、それが私の一大関心事です。もちろん、こればかりはご縁と運です。

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