長崎浦上の隠れキリシタンの話

遠藤周作であったか,坂口安吾であったか忘れたがこんな文章があった。


長崎浦上の隠れキリシタンの話である。


長崎奉行所による隠れキリシタンへの弾圧は島原の乱以後,寛政から幕末まで大規模なものでは4回あったとされ,それぞれ浦上一番崩れから四番崩れと呼ばれている。特に三番崩れと四番崩れの際の弾圧は苛烈を極め,その中でも信仰を捨てず獄死や刑死したものが少なからずいた中で,棄教を選択するものも多数出たという。


棄教を選択することを「転ぶ」と呼称し,棄教を選択したものを「転びもの」と呼んだ。不謹慎ながらも興味深いのは,この「転び方」である。過酷な拷問によって棄教を選択する者もさることながら,一度に数十人,数百人と一度に転ぶことを奉行所に申し出ることも少なくなかったという。


それは,集落単位での集団棄教を選ぶことによるものであった。迫りくる弾圧の中で次はいよいよわが村であるという状況の中で寄り合いが開かれる。名主を中心に村の代表者が話し合って弾圧に対する方針を議論する。そこで棄教の是非が決められる。


その中で「転び」が決定されれば集落の全員が棄教するというわけだ。そうなれば奉行所に証文を提出し宗門人別改帳に仏教徒として記帳され,その人物が死亡した場合,遺体はキリスト教徒にとっては禁忌である火葬に付されることになる。


このような事例をもって,明治以前の人々の自我とは集団に埋没する形で存在し,これを離れた個人というものは存在しなかったと筆者は分析する。重労働である稲作を基幹産業とする農村では,常に共同的な作業が不可欠であり,集団から離れた個人には全く価値がなかったという。そこでは常に集落の意思が優先され,それが個人の意思であるとされた。


人は○○村の何兵衛,何右衛門であって,独立した個人ではない。今の私たちからすれば,ひどく窮屈であるようにも思われるが,当事者感覚としてはそれほど悪いものではなかったのかもしれない。


○○村の何兵衛,何右衛門であるからには,「おまえは何者だ」と問われればそのように答えただろうし,「何のために生きているのか」問われれば,ひたすら村のみんなのためにと答えたのかもしれない。現在の私たちのように自分の存在を自分で組み立てる必要もなかったし,ましてや自分探しの旅に出る必要もなかった。ただ素朴に集落という集合的な意識の中に自我を埋没させ,その懐に抱かれながら生きていくことができた。


しかし,私たちは違う。近代的自我という孤独な「コギト」を時にもてあまし,一体自分とはいかなる存在なのだろうかと思い悩む。また,無限の自由と責任を前に茫然と立ちつくす。


だから,昔に戻ればよいという単純な話ではない。言うまでもなく,時計の針は元に戻せないし,自由という果実の味を知ってしまった以上,その味を忘れることはできない。もし,現代においてそいうものを求めるとすれば,おそらく過激な原理主義やナショナリズム,あるいはカルト的な宗教に耽溺するしか方法はないように思われる。


このキリシタン弾圧は明治に入りキリスト教が禁止されなくなったことで姿を消した。と同時に近代的自我についての概念が人々の間に浸透するにつれて○○村の何兵衛,何右衛門という集団的な自我意識も消滅していくことになる。


文明開化の幕開けは孤独な個人の始まりでもあったとも言えるのだろうか。

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