車いすテニスに出会って感激して、このスポーツを報道したいと思っていたら念願が叶って、気付けば世間に追い抜かれてた話 第2章:アテネへ

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念願のパラリンピック取材

国別対抗戦で日本チームが優勝したその年末に、国内のランキング上位の選手たちが出場するシーズン最終戦を取材させてもらえることになった。編集長は車いすテニス自体にあまり興味がないようだったけれど、編集部の他のスタッフは車いすテニスを積極的に取り上げることに賛成してくれていた。日本チームが世界一という成績を残してくれたことで、記事にしやすくなっていった。

その翌年の9月にアテネパラリンピックが行われることになっていた。春ごろには、アクレディテーションの申請などの諸手続きが必要だった。アテネパラが開催される時期は、ちょうど校了にかかってしまうスケジュールだったのだけど、「どうしても行きたい!」と編集長にお願いして取材に行かせてもらうことになった。もちろん旅費などは自腹。ギャラは写真大と原稿料のみ。完全な赤字だけど。

宿泊先の手配などは、あるNPOの団体に混ぜてもらって格安で泊まれることになった。ひどい宿だったけれど、海外でひとりで宿泊するよりは安全だし、同室になった人たちと親しくなれたので、この選択は間違いではなかったと思う。

ひとりで成田を出発して、ミラノでトランジットしてアテネまで。そのときは、本当に現地に行って、ちゃんと取材できるんだろうか?? と不安だらけだった。だいたい宿までたどり着けるのかっていうのも不安だった。アテネに到着したのは夜だったから、治安の不安もあった。でも、なんとかNPOの人たちと合流できてほっとした。



到着した翌日、まずオリンピックパークに行って、とアクレディテーションを有効にする手続きをした。こんなんで大丈夫なの? っていうくらい、あっさりと手続きが終わって取材ができる体勢が整った。そしてその足で、車いすテニスの会場に向かった。

私は写真に関しては全くの素人だけれど、カメラマンなんて同行してもらえないので自分で獲るしかない。カメラ本体は姉に借りて、望遠レンズは知り合いのカメラマンが貸してくれた。カメラの操作に慣れないながらも、なんとか撮影をこなしていた。日中の試合はまだよかったのだけど、夜の試合になると、会場の照明がものすごく暗いくて、フィルムカメラで撮るのは限界があった。ついでにアテネのテニスコートは少し斜めになってると、選手たちが言っていた記憶がある。車いすに乗ってると、立ってるよりも敏感に分かるのよね。

まだまだネットの環境なども整っていない時代だったし、カメラもまだ完全にデジタルに以降していない時代だった。メディアセンターでネットを使おうとすると、すごい金額になってしまうからと、NPOの人たちが探してくれていた貸事務所のようなところで作業をした。こういう手配をしてもらって、本当にありがたかったな。午前中、試合が始まるまではそこで作業をして、午後はオリンピックパークの車いすテニスの会場に移動して取材をするという日々を過ごした。

その当時、パラリンピックで車いすテニスを積極的に取材するメディアは少なかった。新聞社さんのカメラマンは“一応”写真を押さえるという感じで、何人かいたけれど。プロのカメラマンに混じって、オロオロと写真を撮っている私。原稿も書かなくちゃいけないのだけど、レンズをのぞいていると試合の流れがよく分からない。これは記者としては辛かった。テニスの試合は、どこにどんな球種で返球して、どうやってポイントを取っていくのかというのが大事なのに、コートサイドでレンズをのぞいているとそういうことが分からないのだから。でも、写真は今撮らないと何も残らない。そういうジレンマの中で、プレー中は写真を撮って、ポイントが決まるとその都度メモを取る、そうやって取材をこなしていた。

激戦を乗り越えて金メダル

ベテランのS選手は、アテネでもちろん金を狙っていたのだけど、当時の世界ランキング1位のオランダの選手に敗れた。また、20歳で初めてパラリンピックに出場したK選手も、世界ランキング2位のオーストラリアの選手に敗退。ふたりとも準決勝進出はならなかった。だが、まだ終わりではなかった。S選手とK選手のダブルスは、勝ち進んでいた。

準決勝は激戦になった。相手は強豪のオーストラリアのペア。序盤から激しく攻撃を仕掛けるS選手とK選手だったけれど、うまくオーストラリアのペアにかわされていまい、なかなか自分たちのペースで試合を進めることができなかった。次第にガチガチに緊張で動けなくなってくるK選手。そして、それをフォローして絶対に諦めないという姿勢を全面に出すS選手。本当に白熱した試合になった。

私は、フィルムカメラで撮影していたのだけど、コートの照明が暗過ぎて後半は撮影ができなくなってしまった。というわけで、撮影は完全に諦めて、応援に徹することにした。本当にハラハラした。絶対に勝てる。絶対に勝ってくれ! 祈る思いで試合を見つめた。ここで負けられると、自腹でアテネまで来た私の立場が……。そんなことも、チラッとよぎったりもしたし。

無我夢中で駆け回るふたりの姿に、もう胸が熱くなった。そして、激戦を制して、S選手&K選手ペアが勝利を手にした。S選手はラケットを放り投げて笑顔爆発! S選手は勝利にほっとして、涙を見せていたっけ。こうして日本人ペアが、パラリンピックで初めて決勝進出を果たしたのだった。

準決勝はハラハラドキドキの展開だったけれど、その厳しい戦いを制したことで吹っ切れたのか、決勝は危なげない戦いぶりで勝利し、車いすテニス史上初めて、日本人が金メダルを手にした。来た甲斐があった! まずそう思ってしまった。そして、やっぱりここまで来て正解だった! と思った。絶対にアテネで金メダル獲れると思っていたのだから、だから取材しに来たのだから。それにしても、取材陣は本当に少なかった。カメラマンも、私を含めて4〜5人くらいだったと思う。今では考えられないくらい、車いすテニスは注目されていなかった。

さらに、このころのパラリンピックはまだゆるゆるな感じで、翌日コート上で選手とコーチにインタビューさせてもらえた。金メダル獲得の翌日に、じっくり選手たちに話が聞けたのは、本当に幸運だったと思う。金メダルまでの道のりと、インタビューの記事を4ページで掲載させてもらえることになり、初めて車いすテニスを目にしたときからの夢が叶ったな、と思った。

アテネから帰国してから、テレビで放映された映像を見たのだけど、コートサイドにいる私らしき人物、勝利が決まった直後に、カメラから顔を外して選手たちの喜びの様子を肉眼で見ていたことが判明した。こら、私! ちゃんと写真撮りなさいよ!!

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