つらいけどやり直したいとは思わない45年間。

はじめに

ここのサイトに載せられている文を拝読しておりますと、素晴らしい成功体験をお持ちの方大勢いらっしゃって、すごく肩身が狭いです。
翻ってあたしの場合、大きな成功もなければ、大きな失敗もなく、大きな努力もなしに、運だけでここまで生きてきたように思います。たとえば受験での失敗もないし、大学受験はそもそも指定校推薦だったし、就職はバブル期だったので苦労してないし、2度の転職も経験したけど、別に大変ではなかったし。そういう意味においては、挫折を知らずにここまで来てしまったというべきでしょう。
進学や就職での試験でもそうだし、スポーツ活動でもそうなのですが、今まで大きなことに挑戦したことがありませんでした。挑戦もしないから失敗もしない。失敗しないから何も学ばないし、忍耐力もつかない。その典型だったように思います。


順風満帆な学生時代

愛知県名古屋市に生まれてから高校卒業までずっと同じ家に住んでいました。小・中学校時代は誰もが経験するであろうやんちゃな時期で、とにかく大人の言うことをきかない。通信簿にはいつも「落ち着きがない」と書かれ続けていました。中学校でのやんちゃが影響して実力より下の高校にしか入れませんでした。ここでまあ挫折と言えばそんな感じなのかもしれませんが、受験に失敗したわけでもないですしね。ただこの高校、自分では「ランク落としたのだから成績上位で当然」と高をくくっていたら、最初に試験で順位が真ん中より下だったんです。これはショックでした。だから必死に勉強した。あ、ここでちょっと努力(笑)。あたしが狙っていたのは希望する大学の指定校推薦を勝ち取ることであったので、周りのみんなが受験に備えて勉強しているの尻目に、受験科目にない教科も手を抜きませんでした。その結果、保健体育の成績だけが悪くって死亡する大学への推薦は取れなかったけど、逆にそれがラッキーで、東京の大学の指定校推薦を取ることができて、人生が一気に開けたのでした。

大学でも勉強には手を抜きませんでした。おかげさまで成績は学部トップでした。あたしが進んだのは経営学部という文系の学部なのですが、半ば推薦のような形で第一志望の某財閥系メーカー(以下、A社)に就職することができたのです。あたしが就職活動をしていたのは1990年でした。前年末に日経平均が38,957.44円を付ける(終値38,915.87円)バブル景気のピークで、90年3月には日銀による金融引き締めのための公定歩合1%引き上げと、大蔵省による総量規制が始まり、景気の先行きが不安視するひともいなかったわけではないですが、大勢はまだ好景気に沸いており、企業の採用意欲もまだまだ大きいころでした。友達同士が集まれば、何社内定をもらったかの数を報告しあったり、とある企業の豪華な接待などが話題に上ったりしていました。そんなわけで、普通に受けてても楽な就職活動であり、わたしは成績優秀者ということで大学の就職部から企業の採用担当課長への”コネ”で、何の苦労も挫折も味わくことなく乗り切ってしまったのです。


行き詰った社会人時代

就職すると希望した職種ではないところに配属されました。希望は国内の営業部門だったのですが、配属先はなんと海外の営業部門のバックオフィスでした。英語の読み書きは苦手ではありませんでしたが、英語のリスニングがまったくできないひと(TOEICで405点でした)だったので、これは困ったなーって思ってたのですが、幸い、社内には日本人しかいなくて、日本語での仕事がほとんどでしたので、特に困ることはありませんでした。だけど、父が亡くなったこともあって、地元に戻りたくって、名古屋の工場の管理部門への異動を希望したのです。それはまあ名目上であって、実は本社部門が「採算改善」と称して粉飾決算を繰り返していたことに耐えられなくなったんです。
運よく、名古屋の工場に異動できたのですが、そこでは「海外」という名の付いた部門にいたのだから大丈夫だろうと、英語必須の仕事を担当させられました。で、その異動先がまあひどい部門でして、偽装請負はあるわ、サービス残業は当然だわ、品質は二の次だわで、本社から来たというだけでひどいいじめにあったりと、とにかく幻滅させられることばかりでした。
この会社、先ほども書いたように粉飾決算の常態化により、実際の財務体質はひどい状態になっていた時に、日本人なら誰もが知ってる大不祥事が明るみになったのでした。

もうこれ以上この会社にいる意味がないと思い、地元の名古屋の会社で転職先を探すことにしました。ラフな格好が普通の職場で、時々スーツを着てくれば、周りには、あたしが転職活動をしていることなどもうバレバレでしたが、アメリカへの駐在を言い渡されるもこれを拒否し、転職活動開始から8か月くらい経って、転職先が見つかったのでした。


転職先は、あたしが最初に就職した会社と同じ業界で、具体的には部品メーカー(以下、B社)の営業(法人営業)としてでしたが、ここでまた転機が訪れます。採用時に聞いていた配属先でないところに配属されたのです。今から考えれば労働契約法の違反じゃね?っと思ったりもするのですが、そんなこんながあって、結局また東京の営業所に異動になってしまいました。Uターンしたはずがまた東京に戻されたのです。母はもう

あんたはもう東京にいる運命なのよ。

と、あきらめ半分だったようです。
ここでの仕事はあたしとしては楽しいものでしたし、未だにその経験は生きているのですが、いかんせん会社側に中途採用の人間を活用するノウハウがない(笑)。あたしは「英語ができる貴重な人材」(できないんですけどね!)として、いきなり英語の契約書の作成と海外の顧客との折衝を押し付けられ、それが終わったら別の担当顧客に回され、ようやく落ち着いて仕事ができると思ったら、また担当顧客を変えられて、いいかげんうんざりして再度転職を考えるようになったのです。だってせっかく顧客に顔を覚えてもらって、これから・・・ってときに、担当する顧客をコロコロ変えられては、成果を出せっていうほうが無理な話で、プロパー社員に比べてサラリーもボーナスも低く抑えられてしまっており、いくら会社の将来性はあっても、ここにいても自分自身の将来がなさそうと思っていました。
そのちょっと前、B社に移ったばかりの頃、A社の同僚のお父様のお通夜があり、たまたまA社の先輩社員(以下、Cさん)と会う機会がありました。その時「うちの会社に戻ってこないか?」と言われたのですが、あたしは冗談ないしは社交辞令だと思って気にも留めていませんでした。
半年くらいしてからでしょうか、そのCさんから「A社が分社化して、外資と合弁でD社という会社として独立するんだけど、そこに来てほしいから、真剣に考えてくれ」という連絡が入りました。あたしはまだB社で担当顧客を持ってて仕事も順調でしたから、あたしも最初はあいまいな返事をしていたのですが、「取締役のOKをもらった」とか、話がどんどん本格的になってきて、いよいよちゃんとした態度を表明しないといけないという時期に、B社でのあたしの再度の担当替えがあったりしたので、C社に転職する決断をしたのでした。結局B社にいたのは1年9か月でした。


D社に入社したのが2003年の4月。職位は主任という扱いでした。管理職ではありません。給料は少し上がったものの、B社では営業所の社員に住宅手当が出ていたので、その分実質的には給料は下がりましたが、元々がA社の流れを汲む会社ですので、新しい仕事にはすんなりと入って行きました。
Cさんがあたしの上司であるマネージャーという職位でしたが、このCさんが上からの評価が低く、すぐに辞めてしまったのです。そしてなんとその後任にあたしが指名されてしまったのでした。入社から1年ちょっとでの出来事です。瓢箪から駒、青天の霹靂とはまさにこのことですね。


転落

そこから先は「うつ病と診断されて」に書きました通り、部下との関係から心の病を発症しました。復職のときに部下のない管理職へと格下げされ、今年の1月に一般社員に降格させられたのでした。これだけでも十分ひどい話だと思うのに、今、あたしは「アウトソーシング」の名のもとに、あたしが担当している仕事を外部企業に委託する準備をせよと命ぜられています。つまり自分の仕事を他人に明け渡すために働かなくてはならず、働けば働くほど自分の居場所がなくなってしまうのです。こんな理不尽なことってありますか? 他の会社にまた転職するにしても待遇が今より悪くなることは目に見えているし、会社はそういう弱みに付け込んでくるのでしょう。病気を抱えたまま転職活動する底力はまだあたしには残っていません。


やり直したいとは思わない

こうやって振り返ってみると、親に甘やかされた子供時代から学生時代に挫折を知らないどころか、何かに挑むような経験をほとんどしないまま、年齢を重ねた結果、外部からのストレスに対しての耐性が著しく低いままこの歳になってしまいました。外部からのストレスを避けようとして「自分が嫌われていることを前提とする人生」を送らざるを得なくなり、「快楽主義」を貫くほかないように思います。

学生の人に言いたいのは、最初に勤める会社は本当に重要です。一旦その業種に入ると、他業種に移るのはかなりハードルが高いです。あたしもB社に入る前はIT業界を目指していたのですが、結局内定をもらえたのはわずか一社でした(その会社、すぐに倒産したので入らなくて結果オーライなのですが)。
あと、『若い時の苦労は買ってでもしろ』と、よく言われますが、本当にその通りだと思います。チャレンジしなくちゃいけないときは全力でチャレンジしてください。結果は後からついてきます。失敗を恐れて何もしないことは、死んでることと同じなのだと思います。

もしあのままB社に居続けたらどうだったのかなぁと考えることがないわけではないですが、多分状況はそんなに変わっていないように思います。というのも、今のあたしの状況は、もちろん親会社の意向が大きいのですが、元々あたしにタフさがないことも大きな要因の一つであるからです。

あと15年で定年ですが、定年まで体と心が健康でいられるか自信がありませんし、定年後の再雇用の可能性も病気を理由に拒絶させる可能性が大です。だから60歳以降のことを考えると不安で仕方がありません。なので長生きしようと思わないです。幸い配偶者も子供もおりませんし。太く短く生きて、ころっと死にたいです。望むことと言えば、死ぬ時は―――死んでからでもいいけど、仲良くさせてもらってる数少ないひとたちに見送ってもらえたら、それだけでいいです。

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