古民家ゲストハウスの創り方

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前話: 「楽しいこと以外やらない。」そうやって生きていくことだけ、決めました。

え?!ここ?!ここはさすがに違うやろー!!

-2009年1月

ぼくは小学生の時代を過ごした第二の故郷長野県小谷村に父と訪れておりました。

‘小谷村’と書いて、この村名をすんなり読める方はどのくらいいるのだろうか??

小さい谷の村、と書いて「おたり」と読みます。


ここは長野県小谷村-OTARI-

長野県最西北新潟県境のこの村は

北アルプスの山麓に位置しており豪雪地帯の村。

スキーリゾートの観光地であり、THE日本のど田舎な原風景を残す村なのです。


ぼくは関西出身で、2014年4月で28歳になる

世間的にいういわゆるアラサーで、人生を模索しながら生きている若輩者でございます。

そんなぼくはいま。

ここ小谷村の古民家でゲストハウスを営んでおるのです。

日本最ど田舎なゲストハウス!!と、いうのは過言かもしれませんが。

ゲストハウスという業体をど田舎で始める物好きは、このゲストハウス開業ブーム渦中であってもそうは多くはないのかと。

ぼく自身が持つノンフィクションな泥臭い物語。

お暇があれば少々お付き合いをいただればこれ幸いにございます。



小谷村古民家再生できるのか?!

〜ようこそ日本のど田舎、小谷村へ。〜


-2009年1月

たつみかずき
え?!ここ?!ここはさすがに違うやろー!!
ここやここ。間違いなくここや。
とりあえず中入ってみよや。
って、見てみぃ。
この柱。
めっちゃ立派やろ。

雪深い山里の淀んだ雲が覆う昼下がり。

ぼくは長年の腐れ縁を続けることを余儀なくされた我が父の興奮の前に唖然としておりました。

「父さん定年するからな。小谷に移住しようと思うねん。」

サラリーマン生活の半分を労働組合の最前線で企業と戦い、技術職から営業職へと定年間際に異動を強いられながらもサラリーマン生活を謳歌した父。

離れて暮らしていたこともあり疎遠であることが当たり前であった父親からのそんな電話があったのは、2008年の年末でした。


ばあちゃんゆずりの高い鼻と、頭髪の分布がどことなくにニコラスケージに似ている父は、生まれも育ちのこてこての大阪人です。

そんな父から人生で2度目の無茶振りが、この電話でさらっと告げられたのです。

父さん定年するからな。小谷に移住しようと思うねん。
たつみかずき
あ。そう。
よかったやん。
母さんと定年後の父親が亡霊みたいにテレビの前に張り付いてる姿想像したら、寒気するわ〜。
て、この前話したとこやわ。
なんやそれ。
でな。
家ももう紹介してもろてるねん。
たつみかずき
ふーん。
すごいやん。
そやしな。
お前も行くぞ。
小谷。
たつみかずき
。。。
え?!!



ぼくにとっては第二の故郷である小谷村。

小谷村とのご縁は、人生で1度目の父親からされた無茶振りから始まります。

小谷村には【山村留学】という、字のごとく田舎に留学する。

という制度がありました。(多くの市町村で実施している)

ぼくはこの山村留学で小学4年生から小学校卒業までを小谷村で過ごしました。



山村留学では週6日をセンター(寮)、週1日を里親(ホームステイ)で生活し。

センターでは10名弱の山村留学生の子ども達、4〜5名の指導員の大人との共同生活をしながら小学校に通い、地元の小学生机を並べ、日々を過ごしました。

センターは小学校から4キロ程離れた集落にあり、片道1時間の登下校は毎日が小旅行や冒険のような時間でした。


自然溢れる。と、言うより。

自然しかない日本のど田舎。

自然の中で生かされているという実感。

命の生き死にの循環を目の当たりにする日常。

子どもながらに小谷村で過ごした幼少時代に、ぼくは研ぎすまされた感性を大いに刺激されたのでした。

中学以降は関西で生活しておりましたが、我が心の故郷小谷村にいつかは帰りたい。

そんなことを想い過ごしている日々であったのです。


。。。

とは言え。

いやいやまだ早いだろーーーー!!!

当時23歳のぼくは、京都を根城に自営業者としての道を切り開こうと日々切磋琢磨している夢見る男の子だった訳なのです。

こちらの事情もかんがみない父からの突拍子のない電話により、ぼくは父とその紹介された家を下見していたのでした。


たつみかずき
これさー。
古民家って言ったらかっこええけど。
ストレートに表現したら、廃墟ってのが似合うと思うねんけどなー。
家財道具そのままやん。
こわっ!!
片付けたらきれいなる。
かずきこっちきてみぃ。
ここが縁側や。
ここ開けてみたら。。

ほらみてみー!!
この眺め!!
どやっ!!
たつみかずき
いやー。
こんな冬の淀んだ景色みせられてどや顔されてもやなー。。

空同様に淀んだ面持ちのぼくと、テンションがピークに達している有頂天な父。

この温度差はここ雪国と赤道直下な南国諸国同様な大差がありました。

しかしながら。

きしむ急な階段を登った古家の二階で、ぼくはこの家に魅力を感じてしまったのです。

それは遥か高くを縦横に伸びる梁の屋根組でした。

黒くいびつに曲がる木そのものが横たわるその存在感に、ぼくは目を奪われたのです。

「わかった。ここに住もう。」

そう言ってぼくは2009年3月9日に、この家。

築年数推定150年の素晴らしき趣ある古民家【屋号栗元】を生活の拠点としたのでした。


-2009年夏

移住してから半年間、片付けを続ける日々。

残っていた家財道具などがこれでもか!!とそのまま残った家の中。

埃とすすに覆われた家を時間をかけきれいにしていきました。

父親の退職金が家の改修費に充てられ、雪どけ後より大工さんの力を借りて水回りを中心とする改修が始まりました。

廃墟と化していた古家がどんどんきれいになり、失われていた趣を取り戻していきます。

少しずつこの家に愛着がわいてきた頃、地元の棟梁がこんな話をしてくれました。


木の家ってのはな。

生きてるんだ。

木ってのは腐らない限り生き続ける。

ここら辺の家は人が住まなくなってから5年くらいで潰れてしまう。

理由は雪の重みと湿気って言うけどな。

俺はそうだとは思っていない。

木の家は生きている。

だから、主人を持たなくなった家は自然に還ろうとして潰れるんだ。

主人がいない家は、家の形をしている必要がなくなるからな。

この家は生きてるんだ。

大事にしろよ。



家が、生きている。

衝撃的な言葉でした。

命有るものは動植物だけではない。

150年もの月日をこの地で建ちながら見守り続けたこの家には。

確かに命を感じることができる。


この家と共に暮らそう。

この家で共に暮らそう。


そんなことを考える様になりました。

古くて大きな家。

歴史と時間を過ごした家。

多くの人の生き死にを見届け、人々の集いの場所となり、何かを生み、守り続けた家。

‘家’というものは、ただの形ではない。


こんな家を譲り受けることができたことに喜びを感じ。

大切にしていきたいと思い始めました。


ど田舎のたまり場、始めます

-2010年春

移住より1年が経ち、古民家での生活が快適になった頃に気がついたこと。

「田舎、めっちゃ暇!!」

移住してきたぼくには村内はおろか、もちろん長野の別地域にも友達はいません。

いやはや寂しい限り。

いま現在の貧乏暇なし生活では考えられない程田舎なのんびり時間を過ごしておりました。

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