ビオフェルミン誕生ものがたり
大正生まれのビオフェルミン、創業秘話
初代ビオフェルミンが開発されたのは今から100年以上前。
今も本社、工場、研究所を構える神戸の地で1915年(大正4年)に誕生しました。※1
大正時代の初頭、神戸は港町で栄え、ヨーロッパから乳酸菌でできた整腸剤(乳酸菌製剤)が輸入されていました。しかし、第一次世界大戦により整腸剤の輸入も途絶えてしまいました。
そこで、乳酸菌製剤の国内生産を目指したのです。
不老長寿説と乳酸菌の整腸剤
1900年代初頭フランス・パスツール研究所のメチニコフ博士が「不老長寿論
※2」を発表しました。ブルガリアには長寿の人が多く、その原因を研究し、ブルガリアでは牛乳の中に何かが入ったものを飲んでいることに着眼しました。そこから乳酸菌が発見されました。
メチニコフ博士みずから、乳酸菌製剤「ラクトバチリン」を創製したのをきっかけに、ヨーロッパでは何種類かの乳酸菌製剤が発表されました。その一種類である「インテスチフェルミン」が日本へ輸入されていましたが、1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦によって輸入は途絶えてしまいました。
日本国内製造への道
当時、神戸は貿易港で外洋船の寄港地であり、様々な輸入品が運び込まれる一方、感染症なども侵入しやすい場所でありました。抗生物質がない時代であり、感染症は脅威の存在だったことでしょう。
そのような状況で、神戸に在住していた医師であり、日本医師会副会長、兵庫県医師会長であった山本治郎平(やまもと じろへい)は、兵庫県知事の要望もあり、インテスチフェルミンに代わる乳酸菌製剤の開発に挑みました。
生きた乳酸菌を手に入れるまで
乳酸菌製剤を作るためには、生きた菌を増やす純粋培養を行わなければなりません。その方法を探るため数々の文献を求め、パスツール研究所の文献にたどり着きました。ところが文献はフランス語で、当時、日本の医師の多くが学んでいたのはドイツ語であったため、フランス領事館に翻訳を依頼し、なんとか乳酸菌に関する詳細を知ることができたのです。
一方で生きた菌を手に入れるため、当時、神戸市立東山伝染病院長であった天児民恵(あまこ たみえ)博士とともに、ドイツ人貿易商から手に入れた缶詰ヨーグルトから乳酸菌を増やす純粋培養を試みました。しかしそのヨーグルトは、ヨーロッパから長い時間をかけて、炎暑の地中海、そしてインド洋を経由して神戸の地に到着したものであったため、ヨーグルトに含まれる菌は全て死んでしまっていたのです。そこで次に気温が低いシベリア経由でヨーグルトを運び、神戸の地まで生きた菌を運ぶことに成功しました。
そしてついに、パスツール研究所の文献と、シベリア経由で運んできた菌で、乳酸菌の純粋培養に成功にしました。この菌でヨーグルトを作り、神戸市内の医師に毎朝届けて、腸への有効性を確認し、錠剤と粉末剤を製造販売するに至りました。これが1915年(大正4年)5月のことでした。
山本治郎平は、開発したこの乳酸菌製剤に「ビオフェルミン/BIOFERMIN」と命名しました。
初代ビオフェルミンには乳酸菌と糖化菌の2種類の生きた菌が配合されていました。ビオフェルミンとは、
「ビオ」は「BIO:生きた、活性」
「フェルミン」は「FERMENT(フェルメント):発酵、酵素」
に由来し、菌を生きたまま含有するという意味を込め命名されたのです。
新ビオフェルミンSの誕生
初代「ビオフェルミン」に新しく乳酸菌を1種類加えた「新ビオフェルミン」が誕生した後、1987年(昭和62年)、現在も発売されている乳酸菌2種類と、新たにビフィズス菌の合計3種の菌が配合された「新ビオフェルミンS」が開発されました。「S」にも意味があり、Strong、Super、Scale up、そして3種(Sansyu)など様々な意味が込められています。白色のベースにオレンジ色の「S」がとても目を引くパッケージは、当時の社員の手によってデザインされたものでした。
廃業の決意、それを乗り越えての復興
2021年(令和3年)2月には、ビオフェルミン製薬が誕生して、104年を迎えます。その100年以上もの間に、戦争そして戦後の苦境を乗り越えてきましたが、1995年(平成7年)1月17日未曾有の危機に直面しました。
1995年1月17日午前5時46分阪神・淡路大震災が発生。
当時、本社・工場・研究所があった神戸市長田区は、壊滅的な被害を受けました。「神戸の洋館」と称された社屋は全壊、倒壊する大きな被害を受け、生産不能になってしまいました。周辺も建物の倒壊、停電、断水といった被害に加えて火災が発生。しかし、消火栓の破壊等で火を消したくても消せない状態でした。
当時の社長 大西章史(おおにし たかひと)は「もはやこれまで」と倒壊した社屋を前に、廃業を決意したといいます。しかし「もう一度やりなおしたい。」と従業員の願いは強く、社長が廃業を告げようとしたそのとき、当時の労働組合委員長が涙ながらに訴えたのです。そして手探り状態の中、震災復興対策本部を立ち上げ、再建への一歩を踏み出しました。
生き残った「種菌」
震災直後に駆けつけた社員が、倒壊した社屋から、冷凍保存していた「種菌」を救い出したのです。そして被害の甚大さを聞きつけ駆け付けた取引業者により安全に保管できる場所に移されました。
「種菌を一度失うと、二度と同じ乳酸菌はつくれない。」それほどに重要で、会社の命である種菌は、常に冷凍庫に保管されています。いち早く駆けつけた社員が種菌の移動を決断し、救い出したことで、生産再開へと進めたのです。この菌がなければ、再び”ビオフェルミン”がつくられることは、なかったかもしれません。
奇跡のスピード復興
倒壊した工場から使用できる機械を協力会社の工場へ運び出し、各工場へ社員を派遣するなど、社員一丸で生産作業にあたりました。そして震災発生後からわずか3カ月というスピードで再出荷にこぎつけたのです。そして、震災翌年の3月には新本社と新工場を再建し、4月には出荷が始まり「第二の創業」とも呼べる再スタートを切ったのです。
当時の社長は、商品をまっていただいているお客様は勿論のこと「委託会社や官公庁の担当者、地元企業が、ビオフェルミン製薬の危機を我が身のことのように考えてくださったこと、そして社員の思いと団結力で復興を果たすことができた。この感謝と絆を決して忘れてはならない」と話しています。
人生100年腸活プロジェクト
そんなビオフェルミン製薬は、多くの人が100歳以上生きる「人生100年時代」を迎えた今、新しい取り組みとし「人生100年腸活プロジェクト」を始動しました。
このプロジェクトは、乳幼児からお年寄りまで、様々なライフステージでのおなかの悩みに向き合い、人生100年時代を生き抜くあらゆる人の健康で前向きな人生をサポートすることを目的にしています。
創業100年以上の歴史の中で、多くの方にご支援いただきながら様々な困難を乗り越え、常に生活者のおなかの健康を考えて研究を重ねてきました。この100年以上の絆と感謝、そして研究を全ての生活者が長い人生を健康に生きるためのヒントとして還元するべく、それぞれの人生100年に寄り添い、腸活の重要性を発信し、一緒に考えてまいります。
プロジェクトリリース
https://www.biofermin.co.jp/pdf/news_20200901.pdf
これからもビオフェルミン製薬は、
あなたの、そして家族のおなかの健康に寄り添い続けます。
※1:会社創業について
1915年(大正4年)5月「ビオフェルミン」製造を開始。
1917年(大正6年)2月12日、3人の医師と1人の企業家の4人で「株式会社神戸衛生実験所(K.H.L.:Kobe Hygiene Laboratory)」として創立。
1949年(昭和24年)「ビオフェルミン製薬株式会社」と現在の社名に改めています。
※2:日本語翻訳書籍タイトル
ビオフェルミン製薬ホームページ https://www.biofermin.co.jp/
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