シニア向け分譲マンション「中楽坊」物語:3 ~あの人に教わったカレーライス
あの人が来なくなって、もう1年近くになる。取り柄もない、こんな喫茶店にいつも3時くらいにコーヒーを一杯、飲みにきてくださった。
最初の印象は、やや強面の、でもお洒落な初老のじいさんというところ。何度目かに来られたとき「お住まいは?」と訊いてみた。「すぐそこにある中楽坊に越してきたばかり。この辺りのことを知らないから、いろいろ教えてよ」とニコっと微笑んだ。半年くらい経つと、ときどき2~3人の友達と一緒に来られるようになった。中楽坊の人たちで、意外にもと言っては失礼だが、ヨガ教室の仲間とのことだった。あの人は、ヨガ仲間のおばあちゃんのとりとめのない話を、やはり微笑みながらウンウンと聞いておられた。
ウォーキングイベントの後だったか、20人くらいの友達を連れて来られたので、店の椅子が一つ足りなかったことがある。そのときは、あの人はカウンターに入って、私が作るサンドウィッチやカレーライス、コーヒーを運んでくれた。あの人は、カウンターの中でカレーを食べたが、ていねいにニンジンをよけていた。それを見た友達たちが「もうまた。子供じゃあるまいし」と冷やかした。
翌日、来られたとき「ニンジン、苦手なんですね。すいません。」と言ったら、「あの怖かった女房も、これだけは直せなかったなあ」と笑った。
私は「カレー、どうでした?」と尋ねた。「美味しいよ。でもちょっとだけ、アドバイスしておくとね・・・」と語り始めた。私の作り方は全部、お見通しだった。そして、素材や調理手順、隠し味、付け合わせまでいろいろと教えてくれた。その内容は専門的で、見事なまでに理にかなっていて驚いた。途中から私は真剣にメモをとったのだが、あの人は最後に「あくまで、参考までね」と微笑んだ。
次の日から、教えてもらったカレーづくりを開始した。恥ずかしながら、店で出すものの味にあれほど本気で取り組んだことはなかった。改めて本を買って読んでみたし、自分なりに試行錯誤を繰り返した。それでも悩むこともあったので、あの人が来られたときには質問してみようとも考えたが、なぜか「自分でやってみろ」と言われているような気もして、いつもどおり他愛のない話だけをした。あの人から「カレーはどうなった?」と訊かれることもなかった。
カレーライスは、人気メニューになった。遠方から、カレーだけを食べに来る人もいるくらい評判になった。もちろん、誰よりも先に食べて欲しかったのはあの人だったから、完成したと思ったときも、メニューに載せたときも「ぜひ味見を」とお願いしたが、「大丈夫。美味しいに決まってる。分かっているから。」と言って食べようとしなかった。
1年前、今や常連になったヨガの仲間の方に、あの人が亡くなったと聞いた。現役時代は、有名な食品会社の社長さんだったそうだ。結局、あの人がカレーを食べることは一度もなかった。私はあの人に教わったカレーを、今も少しずつ進歩させている。
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