普通の主婦の普通じゃなかった半生 11 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ

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後編: 普通の主婦の普通じゃなかった半生 12 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ

初めて持った夢



手術入院から退院して半年間のリハビリを終え、私はまた歩けるようになりました。

手術前よりも膝のお皿は外れにくくなったとはいえ、完治した訳ではありません。

障害がわかった時と同じ制限は色々とありましたが。

その頃、私はテレビでイルカと泳いでいる女性の映像を見ました。

元々海が大好きで、人間以外の動物すべてが大好きだった私はその映像に憧れました。

綺麗な海に潜ってみたい。

ダイバーになりたい。

漠然とでしたがそんな夢を持ったはじめでした。

膝の悪い私でも重力の無い海の中では自由になれるはず。

スクーバダイビングとタンクを背負わないフリーダイビングの区別すらついていなかったけど、ダイバーになることは私の夢になりました。

でも、障害を持った私に実際可能なことなのか?もわからなかったし、お金も無かった私には、まだ遠い遠い夢でした。



紆余曲折の末母がたどり着いたついた仕事、日本舞踊の家元へ。




その頃の母は日本舞踊の指導に馴染み、体調を崩していた叔母の代稽古をするようになりました。

まもなく叔母は身体の不調を理由に母に「吉野流」家元の座を譲りました。

岐阜の小さな流派とはいえ、当時は100人近いお弟子さんが居ました。

母の初舞台は4歳です。

それからずっと続けてきた日本舞踊。

母の芸、母の舞台は身びいきを除いても引き込まれるほど美しく素晴らしいものでした。

舞台に立つ母を見るときだけは母を心から尊敬できました。

日本舞踊を教えることは母の天職だったと思います。

でも、それまで叔母についてきたお弟子さんたちが、いきなり家元を継いだ母をすんなりと認める訳はありませんでした。

叔母の指導方法と母の指導方法との違いも大きかったように思います。

ほとんどが女ばかりの世界、叔母のすぐ下で幹部をしていた人たちとの確執もありました。

母の神経はすり減っていきました。

その頃の母にはまだ「家元」という看板が重すぎたのだと思います。

母は自律神経失調症になりました。



母との世界放浪の旅のはじまり。



自律神経がおかしくなり、ふらつきで仕事に支障が出て母は困っていました。

そんな時、お医者さんから気分転換に旅行にでも行きなさい、そう勧められました。

それまでの母と私がした旅行といえば2度だけで、そのうちの一度は前に書いた父に会いに行った横浜、もう一度は一泊で鳥羽に行っただけでした。

関係性の薄い母と子、私の手術入院の時すら病院にたまにしか顔を見せなかった母です。

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