震災が私にもたらした能力《第1話》ー衝動ー
2011年3月のその日、私は東京のボロアパートの1室でパートさんと一緒に仕事をしていた。
突然の横揺れに驚き、慌てて駐車場まで飛び出すと、そこに停められていた車はすべて波に揺られるようにユラユラと前後に揺れていた。
隣のゴルフ練習場の柱はしなるように揺れ、いまにも倒れてきそうな勢いだった。
あまりに大きな揺れに、震源は東京に違いないと思った。
しばらくして揺れがおさまると、駐車場に停めていた車に乗り込み、カーラジオをつけた。
予想に反して、ラジオの声が震源は宮城だと告げていた。
それから大急ぎで荷物を片付けて自宅に戻った。
母には地震後すぐにメールを入れたけれど、返信がなかった。車を運転して家に向かっている途中でメールの着信音が鳴った。母からのメールである。
「10メートルの津波が来るって。怖いよ」
そう書かれていた。その後、電話も携帯もつながらなくなり、ぷっつりと連絡が取れなくなってしまった。すでに、地震発生から30分が過ぎていた。津波というものが、地震が発生してからどれぐらいで到着するのか、当時の私にはさっぱり分からなかった。
津波はもう到着したのか、それともまだなのか。
当時小学校1年生と2年生の甥っ子たちは下校の時間帯だった。
海岸沿いを歩いて帰るあの子たちはいまどこにいるだろう?無事にどこかに避難しているだろうか。
私が子供の頃から通学路には「地震が来たら 津波に用心」と書かれた石碑が建っていた。
あの子たちもきっと毎日それを見ながら登下校していたはずだ。
きっと分かっている、大丈夫。大丈夫。
何度も自分に言い聞かせた。
40年以上もマグロ漁船に乗り続けていた父は海の素晴らしさも怖さも知っている。
父はきっと大丈夫。
海岸沿いのオフィスで働く姉はどうだろう。
母は、いまどこにいるのだろう。
「怖いよ」
というメールのやりとりが最後になってしまったらどうしよう。
さまざまな思いが胸をよぎった。
帰宅してすぐにテレビのスイッチを入れると、名取の閖上地区がゆっくりと波に飲まれていく様子が映し出されていた。
ゆっくり、ゆっくり。
けれどもその破壊力は凄まじく、家も車もどんどん流されていく。
渋滞で停まっていた貨物用トラックの屋根の上に登り、迫りくる波を凝視している運転手たちの姿が何人も映し出された。
あとほんの数メートルでそのトラックが飲み込まれる・・という瞬間に映像がパッと切り替わった。
その後、あの人たちがどうなったかを考えるのはとても怖かった。
仙台空港、青森、宮古、たくさんの地域の被害情報が映像とともに流れてくる。
しかし、待てど暮らせど気仙沼の映像が出てこないのである。
何時間観ていても、流れてくる映像は同じ物ばかりだったが、それでもテレビの前のこたつに足を入れてずっとチャンネルをあちらこちらに変えながらテレビにかじりついていた。
そして地震発生から6時間後の20時40分。
ついに気仙沼の映像が流れた。
ヘリコプターに乗ったアナウンサーがカメラに向かってそう叫んでいる。
何時間も待ってようやく映った故郷の映像は、津波どころか広大な火の海であった。
映像を見て、とっさに思ったのはそのことだった。
両親や姉のことは頭に浮かばず、なぜか甥っ子だけがとにかく心配だった。
気仙沼とひと口にいっても、まさか街全体が燃えている訳ではないだろう。
では、一体どのあたりが燃えているのか。燃えているのが沿岸部であればまだ逃げ場がある。
でも、燃えているのが仮に気仙沼大島だったとしたら?
彼らに逃げ場はあるのだろうか?
炎に追いつめられる人々の様子を想像して胸が締め付けられた。
どうか、どうか、みんな無事で。
テレビを見ている途中で、夫とともに出掛けていた子供たちが帰宅した。
まだろくに喋れない子供たちが、
そう言いながら、ニコニコして抱きついてきた。そのとき、ふっと気が緩んで思わず涙が出た。
「だいじょうぶだよ〜。なかないで」
とさらにニコニコする子供たちに、思わずこちらも微笑んだ。
その後は、不安に押しつぶされそうになってもニコニコしていられた。
子供ってすごい。本当にすごい。子供の存在にとにかく感謝しまくった。
子供がいなければ、きっとずっとしかめ面をしてテレビをにらみ続けていたことだろう。
子供の笑顔が張りつめていた気持ちを和らげてくれた。
後で山形に住む友人に聞いた話だけれど、彼女も気仙沼の実家を心配しながらも、夫は自衛隊で石巻にかり出された時、幼い子供たち3人がいてくれたおかげで不安に押しつぶされることなく笑っていられたと言っていた。
結局、その夜は炎に包まれる映像が繰り返されるばかりで、他には何の情報も得られなかった。
その間、ずっと埼玉に単身赴任していた義兄と連絡を取り続けていた。
そして翌朝。
夜が明けると同時に私の制止を振り切り、義兄は車で気仙沼へと向かった。
余震はまだ頻繁に続いていた。
高速道路もあちらこちらが陥没して通行止めになっていた。
テレビやインターネットで得た情報をもとに、
「あそこの道路はまだ通れるらしい」
「被災地では○○がなくて困っているようだから、買っていった方が良い」
「○○まで行くとガソリンがないようだから、途中でガソリンを入れていった方が良い」
そんなメールを義兄に送り続けた。
そうこうしているうちに、気仙沼に自衛隊が入っていく様子がテレビの画面にぽつりぽつりと映り始めた。どうやら朝方までに波は引いたらしいことが映像から分かった。
そこから3日間はテレビの映像と、インターネットの情報だけが頼りだった。
震災から3日後、私の携帯が鳴った。
慌てて携帯を取り上げると、電話をかけてきた相手は私の制止を振り切って気仙沼に向かった義兄だった。
電気がないせいで充電がなくなりそうだとかで、とにかく家族全員無事だということだけ伝えられた。
だから、本当に全員無事なのだと思っていた。
いや、正確には一緒に住んでいた家族は全員無事だったのだから、義兄の報告は間違いではないのだ。
兄からの電話は本当にありがたかった。
私の友人は、震災後一週間も家族との連絡が取れず、悶々とした日々を過ごしていたからだ。
その一週間がどれだけ長く感じたことだろう。
義兄が向かってくれなければ、私もこんなに早く生死を確認することは出来ずにイライラとした日々を過ごしていたに違いない。
実家までは義兄の入っていた寮から高速道路で7時間はかかる。
義兄は、あと1時間で実家につくというところでガソリンがなくなってしまい、そこに車を乗り捨ててヒッチハイクなどを繰り返しながら実家についたらしい。
「らしい」というのは、義兄自身、どうやって家までたどり着いたのか全く覚えていなかったからだ。
それほどまでに義兄は
そんな思いで必死だったのだと思う。
父子家庭で厳しい父に育てられた義兄。
その父親も数年前に癌で亡くしていた。
もう家族を失いたくないと思うのも当然のこと。だから我が身の危険も顧みずに被災地へと向かったのだ。
1週間ほど経った頃、町役場で携帯電話の充電が出来るようになったとかで、震災直後よりはわりと自由に連絡が取れるようになった。
母ともようやく話が出来るようになった。
母の話は落ち着いているようで、支離滅裂で、真意を確かめるのにとても苦労した。
それとも私が傷つかないよう、言葉を選んでいるうちに、よく分からない話になってしまったんだろうか。
母は昔からそうだった。
私が傷つかないように、傷つかないように気を使って、それが全部裏目に出る。
とにかく母が言う話の断片をつなぎ合わせてまとめると
1、震災の前日に母方の祖母は老人ホームに入ったらしい。
2、どうもその入所した施設に津波が来たらしい。
3、でも、祖母は流されることなく、首までは冷たい海水につかったけれど救急車で病院までは搬送されたらしい
そこまでは分かった。
でも、肝心なところがよく分からなかった。
母が現実を受け入れられなかったのか、それとも私を気遣っていたのか。
数日後、練馬に住む叔母と連絡が繋がった。
母の姉であるその人はなぜか明るい口調で、
ととても不思議だった。
これも後から聞いた話だけれど、叔母もこのとき相当辛く苦しかったらしい。
でも、私や周りの人を気遣って懸命に明るく振る舞っていたのだ。
彼女なりの優しさだった。
叔母の話から、母方の祖母が亡くなったのだということがようやく分かった。
救急車に運び込まれるとき、
「大丈夫だよ」
とでもいうかのように、祖母はホームの職員さんに向かってニッコリと微笑んだのだそうだ。
それでホームの人も安心していた。
祖母の運び込まれた病院は市内で唯一の大病院で、祖母が運び込まれたとき、その病院は停電と次々と搬送されてくる人たちで混乱を極めていた。
そんな中、祖母は誰にも気づかれないようにひっそりと亡くなっていた。
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