震災が私にもたらした能力《第3話》ーそれぞれの震災ー
「大丈夫だ。大丈夫だ」
と声をかけた。
するとすぐにジョンは落ち着いた。
でも、震災のストレスが大きかったらしくジョンはその翌年に亡くなってしまった。
父の落胆は相当なものだった。
翌日、父と2人で海岸線へ出掛けると、電信柱が一本立っていた。
すでに震災から2週間以上の時間が経過して、向こう岸の陸前高田市には電気の光もポツポツと見えているのに、実家のあたりはいまだに停電が続いていた。
そのたった一本の電信柱を見て父がポツリと言った。
「電信柱が一本立っただけでも、もう少しで電気がくるんだと思って安心するな」
なぜだか分からないけれど、そのひと言がものすごく胸に響いた。
地震が起こってこの日までの父の思いが、すべてこのひと言に詰め込まれているような気がした。
仙台の高校で養護教諭をしている友人は、震災で大切な生徒を亡くした。
ひどく落ち込んでいたけれどのんびりと悲しみに浸っている暇はなく、片道2時間半の道のりを毎日歩いて通勤して生徒の話を聞いたり、壊れた物の後片付けをしたりしていた。
片付けをしているとまた大きな余震がやってくる。
また棚の物が崩れ落ちる。
また1から片付け直す。
片付けて、崩れて、片付けて、崩れて。
そんな不毛な作業を一日中繰り返して、また2時間半かけてアパートに戻る。
往復6時間。
そんな毎日を繰り返していたにも関わらず
と笑っていた。
と声をかけてあげたかったけれど、周りのもっと大変な状況を知っている彼女は絶対にその言葉を認めようとはしないだろうと思って、ぐっと飲み込んだ。
実家に滞在している間、復興のためになにか出来ないか考え続けていた。
でも、なにも思い浮かばなくて、ずっと叔父のハウスのほうれん草を取り続けていた。
震災以来、ごたごたで収穫されていなかったほうれん草は、とうが立ちそうなほど育っていたけれど、それでも売れるんだそうで、穫れるだけ取って市場に持っていった。
市場へ向かう道すがら、道路の端に大量の魚が落ちていた。異様な光景だと思ったけれど、おそらく震災直後はこの魚たちと同じように人や動物も転がっていたのだろう。
建設会社で働く姉は会社が復興作業の為に大忙しで、現場に行く人たちに
「死体を踏みながらじゃないと、現場にたどり着けない」
という話を聞いて来た。これが震災のリアルだと思った。
姉の会社の同僚も車で逃げる途中に、車ごと津波にさらわれた。
全身へ泥だらけになって、寒さと疲労でぐったりしているところに、翌朝自衛隊が来て救われた。
45号線を車で走らせていると魂が抜けたかのように道路にフラフラと飛び出してくる人が多くて、のんびり運転などしていられなかった。
自暴自棄なのか、はたまたもう何も見えなくなってしまっているのか。
震災後、母も姉も甥っ子たちも明らかに震災のトラウマを抱えて、精神的に不安定になっていた。
心療内科が大繁盛し、薬がないと眠れない人が増えていた。
この人たちのために、私ができることは一体なんだろう?
ずっと自分自身に問い続けていた。
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