おじいさんとの対話 10    結核の原因と原理

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himaari:治療と思って余計な手出しをしてしまうわけか・・・毒素が出ようとして症状が出るのを抑えつけて止めるわけか。

おじいさん:この結果、痰は肺臓内に滞留したまま日を経るにしたがい、漸次固まってしまい、しばらくすると再び浄化が起り風邪を引く。その時医師に診てもらうと、発熱と肺臓内にある痰の固結、咳や吐痰、喘音等によって結核初期と断定するのである。

himaari:そうなんですか逆に取ってしまい、その歴史が長く続いた為に人類は病で死ぬほどの毒素を保有してしまったのかな? 寿命で死ねない、病気で死ぬ身体になってしまったのか。毒素が少ない内なら安心して浄化を済ませられるものを、それを止めようとするから最初は軽い風邪の症状でも次々と病気の元を増やしてしまうのですね。そして体質が悪化して浄化も重度化してしまう。

風邪は万病を防ぐ元

おじいさん:わしがいつも「風邪こそ万病を防ぐ元」という意味が分かるであろう。軽い内に済ましてしまえば、重病など必要なくなる。したがって病気で死ぬなどと言うこともやがて無くなる様になる。

himaari:それで風邪をこじらせるという意味が分かりました。自然に任せて浄化すれば軽く済んでしまうのに、それをまた押し込めてしまうからついには肺炎や結核にまで進んでしまう。

そして究極は治らない結核にまで進んでしまう。さらに結核を止めたら今度は癌の急増でもっと重病が増えてしまった。こんな事を繰り返してきたのが人間と病気の歴史でしょうかね?

おじいさん:病気という浄化作用も初期のうちなら本来ならば安心して治り、再び健康になれるのだが、人間の間違った解釈により逆に浄化停止方法を続けると、いつか治りがたい病気が増えてどうにもこうにもならなくなるわけじゃ。

himaari:持続可能な医学では無かったのですね。近代医学になってからそれが急速に進んだのでしょうね。そして、治りがたい病気が文明人に蔓延して来たと。出さないから体質が悪化して来たわけかな?

おじいさん:しかもそれは子供などにも受け継がれて行く体質なのだから、一代限りでは終わらなくなるのじゃ。

おじいさん:そうですか。生まれながら弱い子供など、同じ親の子でも異なりますよね。それが体質を受け継いだ差というものでしょうか。 親の体質改善が子供を通して行われるというのでしょうか。

おじいさん:一人の体質悪化では済まなくなるわけじゃ。子どもの体質まで影響するからね。

さて続きじゃ。

「なお、また前の時には軽微な肋膜炎もあったのでその固まりが溶けて肺から出ようとする。 これを肺浸潤といい、首や肩の凝りが溶解し、肺の上部から侵入するのを肺門リンパ腺、又は肺尖カタルというのである。」

himaari:なんだか難しい言葉はさっぱり分かりませんが、簡単に言えば「自然は出そうとする」のに、「医学の方では出さないようにする。」ーーーーこの違いでしょうか?

医学の進歩とは毒素固め方法の進歩

おじいさん:そうじゃ。体内の汚物毒素を出すか出さないかの違いじゃな。医学は学問的に詳しく分析して症状を重視するからいろんな病名や症状命を付けるだけじゃ。

根本は体内清浄化作用の経過を言ったまでのことじゃよ。

これを一言で言うと「病気とは自然浄化によって体内の汚物が出ようとする。それを医療は出さない様にする。」

もちろん服薬も注射も安静も何もかもことごとく「固め手段」であるから、『医学の進歩とは毒素の固め方法の進歩』でしかない事は余りにも明らかであろう。

himaari:「医学の進歩とは毒素固め方法の進歩」とは驚きですね。

病気を治すのでは無く、病気を温存するというのか。そういえば、昔「毒をもって毒を制する」と杉田玄白先生もおっしゃっていますが、“毒を制する”というのは“固める”という意味だったんでしょうね。

ところで、その「医学の固め方法」として予防接種はどうなんでしょうね?

僕たちが子供のころから受けて来た予防注射は、いまの時代でもやっていますが。

BCGと予防注射

おじいさん:それについて「近来結核の早期発見を奨励しており、その唯一の手段として用いるのに、ツベルクリンの注射がある。そうして反応のないものを陰性といい、紅く腫れるるのを陽性といい、陽性に対しては先ず半ケ年間は結核発病の危険あるとして、その問一ケ月に一度の試験注射を行うを可としている。半ケ年を経て異常のないものは一先ず注射を解くが、それでも当分三ケ月に一回の注射を励めるのである。最初半ケ年の要注意期間中はなるべく過激な運動を避けるように注意を与える。というのはそれを守らないと、発病の危険があるからというのである。」

 以上じゃ。

半世紀も前だったが参考になるかね。BCGを国を挙げてやっている頃からわしは否定してたのじゃが、今でもやっているのかな。

himaari:ツベルクリン注射ですか・・・・なつかしいなあ。あのころを思いだしますよ。子ども頃は、学校で強制的にされましたね。ところで、今のやり方は詳しくは分かりませんが、基本は同じなんでしょうね。

おじいさん:結核の判定に使われていたツベルクリン反応自体が大いに考慮する必要があるのじゃ。

 「最初ツベルクリンの注射によって陰性であるという事は体力劣弱にして浄化発生の力がないからで、それに引きかえ紅く腫れるのは浄化力旺盛であるからである。すなわち紅く腫脹する理由は、体内に注射液という異物が侵入するためその異物を体内深く侵入せしめざるよう、いわば防衛手段が発生するのである。その防衛手段とは血液が異物侵入局部に集中し、異物との闘争を開始するためである。その結果異物の毒分を弱めて侵入の害から免れようとするのである。」

himaari:へえ~、毒物が入ってくるとその毒物を弱めようとする力が働くんですか?

それで、「薬を長期間使用すると薬の効果が少なくなってくる」という話があるようですね。

おじいさん:その原理としてだが、

「右の理は、最初陰性であったものが、再三注射するや陰性が陰性に転化する。これを医学では陽転というが、このわけは注射液が少量のばあい弱体者は浄化発生の必要が余りないが、多量になる場合はそれを防止するだけの浄化力の発生が必要となるのは当然で、自然は人体擁護の手段を遺憾なく具えているのである。」

himaari:そういう原理ですか・・・・。それではツベルクリン反応はいい加減だというのですか?正確に判定出来るほどのものでは無いとおっしゃるんですね。ツベルクリン反応の結果で結核を断定することの危険性は、最近では一部の医学関係者でも言うようです。

おじいさん:結核について、いずれはわしの説も受け入れられる時期が来るだろうとは思っていたが、どうやら浄化の主流が癌に移ってしまったようじゃな。結核の解剖ではわしの説も興味をもたれないだろうが、人体浄化作用の原理的な解明の基礎となるじゃろう。

himaari:はい、いまや結核はほとんど忘れ去られてしまい、癌が死因の一位となっていますね。それにしても、浄化力が弱い人の方が陰性とはね。異物の侵入に対して抵抗力のある人が陽性になるんですね。

咳は痰を吸引するポンプ作用

おじいさん:次に

「元来肺臓という機能は前に述べたごとく、体内各局部の固結毒素が発熱によって溶解液体化したのをいったん肺臓が吸収する。その毒素は間もなく喀痰となって、次々体外へ排泄されるのである。その際の咳嗽は喀痰を吸引するポンプ作用であるから、咳嗽(せき)の後は必ず喀痰(たん)が出るにみて明らかである。」

himaari:なるほどよく出来ているんですね。吸い出すためにポンプ作用として咳が出る。そして肺臓内の痰を外に出そうとするわけか。肺臓とは呼吸ばかりでなくゴミ収集所みたいな機能もあるのでね。ゴミとは毒素でしょうが。

各家庭(体の中)から集めたゴミ(毒素)を集積所(肺臓)にいったんまとめて(固結)おいて、ある程度溜まったら、次はゴミ収集車(白血球など)が運んで行く。それには発熱(毒素固結箇所)で液状化して運び(移動)し易い形にする。実にうまく出来ている。

おじいさん:医学では肺臓が病気の源だと思い込んでいるが、それは中間ゴミ処理場のような役割じゃ。集めてから排毒する中間的働きをする。病とは全体的な働きなのじゃよ。人体内の浄化作用という総合的機能のひとつが肺の働きじゃ。

himaari:肺臓もそうですが、私たちの身体の働き機能というのは実に素晴らしいものですね。毒を弱めたり、また身体中の毒素を局部に集めたり、今度は外に出してやったりする。中には全体のために一部の細胞が毒素を引き受けて処理したり。人間とは総合機能体として健康を維持しているんですね。その働きの一環として病気がある。病気とは健康維持のために働く浄化作用だとはね。

おじいさん:人体の神秘的な働きは、人間が研究して確認するまでもないが、そこまで確信する為に今の医学は研究を続けているようなものじゃ。だが最初の視点が逆方向だったために研究が壁に突き当たるわけじゃ。

だが、いずれはこの人体機能の素晴らしさに気づくときが来る。人間は既に与えられていたこの素晴らしい能力に逆らわない事が一番の健康法である事に最終的に納得するだけじゃがね。もっとも人間が納得するも何も、人間が造られた時点から機能しているわけじゃ。

himaari:そうか。最初からあるのにそれに気づかなかっただけで、そもそも研究など必要なくなるって事ですか。

おじいさん:人間の方で原因を造って、それを自然が調整して癒す。しかし、その過程で苦痛を味わうから、造った張本人を棚において、他に原因を求める。その研究を真剣にやっているわけじゃが、いずれ気がつくときが来るじゃろう。

「かくして体内の不純物は清掃され、その結果健康は増進されるのであるから、実に自然は人体の健康保持に対しよく出来ているのである。」

himaari:でも今のところ、その様な理解まで行かないので、むしろ人間の方が自然治癒の邪魔をしている方が多いというわけか。けっきょく最後には人間の方が降参する、いや賞賛するのでしょうが、今のところ逆にとっている医学研究というわけか。だから余計な研究と。

体内毒素の一時的停留所

おじいさん:そのよい例が結核でよく分かるじゃろう。

「右の理を知れば肺患などはあり得るはずはないのである。なぜならば、右のごとく体内毒素が排泄の際の一時的停留所ともいうべき機能であるからである。その理を知らない医学は、一時的滞溜の喀痰を肺自体から作られたものと解釈するのである。」

himaari:なるほど、なるほど、何度聞いても、なるほど・・・。よく僕もゴミ出しをさせられるのですが、収集車が来るまえにゴミ置き場に一時的に置くんです。そこを汚いからと言って一時預かりの場所を無くしてもゴミはなくなりませんよね。ゴミは家から出すんですから。

医学は一時預かりの場所(肺臓)をゴミの発生場所だと思っているのですね。だから治療法が検討違いとなってしまう。肺臓だけを対象にしても元から治るわけじゃないのですね。一時的集溜場所を閉鎖してみても、ゴミはどこかで溜まるわけですからね。結局は袋に入れて収集車で運び出さない限り家の中はゴミの山か。

おじいさん:その通り、部屋の掃除嫌いの君も少しは理解できたかな。

そのゴミ、つまり毒素を一時的に圧縮して身体の一部に納めるのが第一浄化作用であり、「毒素集溜固結作用」という事になる。しかし何時までもゴミがあるとすれば家の中はとても活動しにくいじゃろうが。しかも汚物は腐敗するものだから血液は汚れ、細胞も害を受けるじゃろう。結局不要なゴミは外に出さなければならない。そこで第二段階としての排毒の為の浄化作用が起こるわけじゃ。

himaari:身体の局所に集まって固結していた毒素が溶かされて、いったん肺臓に集まる。そしてその毒素が排泄に向かう段階が結核ですね。咳や痰として、時には血液も混じって。

おじいさん:一般的には苦痛などを伴う浄化症状が表に出るから「病気」と名付けるんじゃ。それが何の苦痛も伴わないとすれば、誰も病気とは言わないだろう。ところが排毒作用には当然毒素がある移動と供に苦痛も相当ある。発熱で食も減退したり体も衰弱するわけじゃ。時には体力が保たないため死に至る者もいる。

himaari:浄化作用の苦痛と死に対する恐れや不安ですね。だから浄化作用を停めようとするのが医学(現代西洋医学)か。だけどその治療の柱となっているのが薬という毒だから毒を用いて浄化作用を停めるのは逆療法となるのか。しも停める事に成功したとしても、汚物ゴミ(毒素)が別のはけ口を求めていろんな悪性な病気として出て来るんでしょうね。 それで肺結核が減ってきたら癌が増えたのでしょうか。

おじいさん:そのガンをさらに叩いているのが君たちの時代のようじゃな。そしてガンを叩くとは人間を叩くようなもので、最後には人間そのもの方が参ってしまうからね。「ガンは縮小したが人間も寿命が縮小した(亡くなった)」とね。

himaari:「病気は治ったが人間は死んだ」というブラックジョークですが、その理屈からいうと結核の激減も安心出来ないというのもようやく分かりました。要は体内の毒素汚物があるうちはどんな病気であっても、叩けば叩くほど別の穴から出てくるモグラのようなものなんですね。それでは、もう少し結核ついて続けてください。

おじいさん:癌は君たちの時代だから、ワシの時代の主流だった結核の症状についての続きになる。

「医学の診断の結果ラッセルを認めることになる。ところがラッセルは呼吸による喀痰の響きであり、それを病気と誤り、医学は滞溜喀痰を固める手段をとる。その手段とは安静、薬剤使用、湿布、水冷等」じゃな。だがこれは、「せっかく清掃のために汚物が肺臓という中途の機関まで来たのを食い止めて排泄されないよう極力固めようとする」ことになる。それが「濃度化した喀痰がレントゲン写真に雲影となって写るや、医学では結核と断定する。」これが結核の真相というわけじゃ。

himaari:結核の真相か。せっかく体内各所から集めたゴミと言うのは、つまり毒素ですね。これを肺臓内に止めようとするのが医学なんですか。それじゃ、いつまでもゴミ溜めは汚いまま、毒素が集まったままですね。

おじいさん:そういうことじゃ。医学は極力症状を止めようとする考え方が主となっているから「症状は悪だ」という考えじゃ。そのため結核にしても症状が出ないように押さえ込むわけじゃ。そのやり方が浄化停止によく効く「薬剤」という名前を付けた「毒物」というものじゃ。

himaari:真実としたら、ことは重大ですね。意識的でないとしても、結果的に「医学が結核を作り出している。」しかも「結核を治さないようにしている」という事になりますからね。

信じがたい、いや、信じたくない話ですが。

先に言いました現代にまた「結核非常事態宣言」などというものが出てしまったという事から考えるとかなり真実性があるのかも知れない。

おじいさん:真実かどうかは君の判断に任せるよ。わしは論も大切だが結果を重視して欲しいと思っている。

himaari:実際にこの宣言によって、医学は結核を克服どころか解決できていなかった訳です。そうなると、おじいさんお話による「結核撲滅どころか医学が結核を増や事になる」という話もまんざら嘘ばかりでもないのかな。

おじいさん:増えるのは結核ばかりではない、他の悪性の病気にも転化してしまうからじゃ。体内のゴミ(毒素)が消えない限り病気は増え続けるわけじゃ。

himaari:原理としては毒の関係が病気の解明になりますが、医学ではそうは言いません。結核菌が悪さをする、つまり結核菌の毒が肺病を造り出すというような。

そこで結核というのは結核菌の伝染によるものでしょう?

結核菌は病気の原因では無い

おじいさん:ここで問題なのは結核菌そのものが病気の原因では無いということである。

それについて医学では菌のみに囚われ、菌さえ殺せば結核は解決出来るものと誤信している事である。

himaari:おじいさんの時代にはほとんどが菌だったんでしょうが、現代では主にウイルスが原因とする病気が増えてきていますね。どちらにしてもこのような微生物が侵入して毒性を発揮するから病気になるのだとしています。

おじいさん:いまは結核についてじゃから、他の病状に対しての話は別のところで。

だが、病原をヴィールスや細菌にするのはやはり見当違いじゃ。それらは「結果」じゃ。結果を「原因」だと思い込んでしまった根本的間違いなのじゃ。

himaari:え、菌が原因じゃないのですか?

それじゃ「病原菌」とか「病原ウイルス」とか言うのは、実際は「病結果菌」とか「病結果ウイルス」とでも言わなきゃならなくなるでしょ。

おじいさん:そのとおり、そこに居るから何も原因とは限らない。むしろ結果として見た方がずっと解りやすいじゃろう。目に見えないような極小な生き物をよく理解できないのも無理はないじゃろうがね。ただ発見しただけでは働きが解る事とでもないからじゃ。

そこには細菌の存在理由というものがあるはずじゃ。その理由さえ掴めば人間と病気との関係も分かるのじゃ。だから先ずバイ菌の解剖論じゃな。

himaari:バイ菌の解剖論ですか。バイ菌と言うと病気の原因となる病原性細菌の事ですよね。でもそれは病気の原因ではないとおっしゃる。

おじいさん:結果じゃよ。しかし菌といえどもまさか偶然空中に発生したものでなく、また、人間の体内に理由も無く湧いたのでもない事はもちろんじゃ。その発生原因が必ずどこかにあらねばならない筈である。それがいよいよ、わしによって発見されたので、以下詳しくのべてみよう。

himaari:結核菌も結果であって、肺結核の本当の原因じゃないと言うのですか? 医学の言うな病原では無いとすれば、その理由を詳しく知りたいものですね。

結核菌は自然発生、感染しない

おじいさん:先ず「結核菌は自然発生であって、決して感染ではない。」しかも最初のある時期までは菌はないのである。

himaari:え、感染ではない!? しかも、自然発生ですって? 

おじいさん:こに辺りからわしの論が受け入れがたいものになるじゃろう。よくよく良く読み、検討する必要がある。

だからといって、すべて鵜呑みにする必要もないし、かと言って「非常識論」と言って最初から検討もしないで捨て去ってもいけないのじゃ。

himaari:前置きが長いですね。完全なる非常識論ですか。 それを受け入れるかどうかは別にして聞かせて戴きます。全然検討もしないで捨て去るってのも愚かですからね。どんな非常識な論であっても一応聞きますよ。

おじいさん:「結核は感染でない、発生」だという意味をこれから話してみるが、その前に無菌でも結核はあるという事だ。

「・・・しかしながら、無菌喀痰といえども排泄されずして長く滞留する以上固結するから益々排泄困難になるばかりか、人間の体は体温という微生物発生に好条件があるから喀痰が古くなれば結核菌が自然発生するのは当然である。」

ということじゃ。

himaari:無菌結核というものもあるのですね。そういえば他の感染症と言われるものにも菌やウイルスが発見出来ない感染症と同じ症状が有るとは聞いていますし、刺激によって感染症と同じ症状が出る実験報告もあるとか・・・

病源が居ないのに同じ病気症状が起こるということ。それが不思議でしたね。病原が細菌やウイルスだとすれば矛盾した話ですからね。

おじいさん:それは病源では無いという事だからじゃ。もしもそれらが病源とすれば必ずいつもそこに居るはずじゃ。しかも居ても発症しない場合、居なくても病気発生する場合、というように決定的な因果関係がない事になる。しかし、菌やウイルスが後から自然に湧いて出てくるとしたら意味が分かるじゃろう。

himaari:病原性細菌やウイルスは自然発生したもので結果だというわけですか。しかし、自然発生と言うと「無から有が生じる」って事になりますよね。

科学では「無」は何も無い状態だから、そこから何かが生じる事はあり得ないって事になりますよ。

おじいさん:君たちが「科学」と呼んでいるのは「唯物思想」から生じた「唯物科学」じゃからな。「見えないもの」や「計測できないもの」は無い」とされているわけじゃ。

ところが昔は無いと思っていた世界が実は有ったとなる話はよく聞くだろう。それは計測機器の進歩発達でどんどん見えない世界が見えてきたというわけじゃ。

ゆえに、その「無い」という世界は君たちの時代ではどんどん奥へと入っているじゃないのかね。

himaari:そうですね。いまでは量子物理学とかで今まで無いとされていた「非顕在な世界」の奥へと認識が深くなっているようですね。今まで無かったものが「有る」となったりで。

おじいさん:するとそれは元々「無」じゃなかったわけじゃ。「有る」のに人間の知識が狭かった為に「無い」とされていただけの事じゃ。人間が「計測できない」ので「無い」と思い込んでいただけの科学だったわけじゃ。

無の世界は有の世界

おじいさん:いずれは「無の世界」が「実の世界」であったと認識できるほどまで科学が進歩するじゃろう。わしは既に無の世界は有の世界だという前提をもって科学するのだから、まずは「無の世界を有る」と「認めること」から始めるのじゃ。

himaari:はい、唯物科学の方でも「仮説」が先となっていますからね。本来は検証されてから認められるものでしょうが、先に仮説を立ててしまわないと科学は進歩出来ないわけですね。同じ意味で、おじいさんの説もとりあえず仮説論として聞いてみます。

おじいさん:そうじゃな。最初は推測でも仮説でも想像でもどっちでもよい。

問題はそれによって現実が理解できる様になる事と、それに沿って実際に役に立つ結果が出せるかどうかなのじゃ。一番重要なことは理論や理屈などでは無い、現実に結果が良いということじゃ。人間に役に立つかどうかが問題なのだ。医学の場合は学理が高邁な理屈でいくら立派に思えても、それが実際に病気治癒と健康に役立たなければ何の意味も無いであろう。

himaari:論より証拠ですか。学理などと言うと立派な研究者のものでいかにも科学的な気分がしますけど、素人にはさっぱり意味不明な論文が多いですよね。実際に肝心の結核が解決出来ないとすれば絵に描いた餅ですものね。

おじいさん:さて、実際の結核菌の論だが、「そうして結核菌であるが、これは医学で言うように伝染するものではなく自然発生であるというのは、肺臓内に固めた痰は、時日を経るに従い腐敗する。

腐敗すれば微生物が湧くのは物質の原則であり、しかも体温という好条件がこれに拍車をかけることになる。」

himaari:とすると、肺結核とは結核菌が直接の原因ではなく、あくまで液体化した体内の固結毒素が肺臓内に入り、そこに居続ける間に腐敗菌がわくというのですね。つまり伝染と言うよりも体内自然発生するという説ですね。

おじいさん:そうじゃ、自然発生する。しかし、それは無の世界では無い。有の世界から当然のごとく発生して来るものじゃ。

結果として、医学の誤まりは浄化停止の処置を施すことにより、肺臓内に結核菌を作り培養するという訳になるから、この点パスツールの菌の自然発生否定の説はまったく誤りなのである。

himaari:おじいさんは「無の世界」というのはただ人間がそれを発見できないだけで、もともと「有る世界」だとみているのですね。パスツールの菌の自然発生否定説は間違いだとする医学者や生物学者が世界でも少数ながら居るようですが、体制はやはり「自然発生否定論」が主流ですね。

おじいさん:それは未だ科学では発見できない未熟な科学だからじゃ。自分の不明を棚にあげて、「自分の知り得ない世界はあり得ないと断定する」という一種の思い上がりでしかない。

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