普通の主婦の普通じゃなかった半生 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ 総集編

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なのに、懲りない父は母に隠れて母の妹との関係を続けてしまいました。

自分の父親ながら呆れます。

それがまた母にわかった時、母にはもう父と結婚生活を続ける意思はありませんでした。

母はある日、父と住んでいた家を私と少しのお金とスーツケース一つだけ持って飛び出しました。

調停も慰謝料も無しに、私の養育費さえ請求せずに家出したのです。

私がまだ一歳にもならない時でした。

たった二年の結婚生活でした。




私のかなり変わった子供時代。




そういう訳で母と私は母子家庭になりました。

だけど、母と二人きりの生活ではなく、母は祖父が続けていた吉野舞踊団に戻りました。

それしかスーツケース一つだけ持って家出した母と私が生きていく方法がなかったのです。

吉野舞踊団はかつての華やかさは無くなってはいましたが、その頃はまだ生計を立てていくことのできる劇団ではあったようです。

母の姉たちとたくさんの劇団員がいるそこで私は幼少期を過ごすことになりました。

私は吉野舞踊団の大人たちの中のただ一人の子供でした。

そこで母の姉たちや劇団員の人に面倒をみてもらいながら育ちました。

舞台メイクをした白塗りのお化粧の大人たちの顔が私が見る普通の顔でした。

幼少期、私が起きている時に見る風景は華やかな舞台と、舞台衣装と舞台メイクをした母や叔母たちや劇団員の人たちで、みんなが仕事を終えてお化粧をおとす頃には眠っていたのでしょう。

一般的な子供がするような遊びをした経験はありません。

公演をしては移動の慌ただしい毎日、それでもまわりの大人たちはたった一人の子供である私を可愛がってくれました。

昼と夜の公演の合間でしょうか?

白塗りのお化粧で浴衣をまくった姿のままの叔母が私をプールで遊んでくれている写真が残っています。

2歳の私はそのプールにあったペンギンの噴水の一つが壊れていたことを覚えています。

遊んでもらえる時間などなかった私に、そのプール遊びがきっと一番楽しい時間だったんだと思います。

だけど、母に抱いてもらったり、遊んでもらった記憶はありません。

母は「お母さん」にまったく向いてない人でした。


日本全国どさ回り、安住の地も家もありませんでした。



写真、幼稚園時代の写真が無いので多分1歳半くらいの私と叔母。

私がこの頃見る大人はみんなこんなメイクをしていました。


写真 母と私。やはり白塗りのメイク姿の母です。

幼稚園入園前くらいの時。




見知らぬ土地への定住と子供らしくなかった私の幼稚園時代。




一時はたくさんのお客さんを呼び活気にあふれていた「吉野舞踊団」は、テレビがどの家庭にも当たり前に普及されるとともに、時代の波に押されてどんどん衰退していきました。

東京オリンピックが大きなきっかけだったと聞いています。

それでも祖父母と叔母たちと母と残った劇団員の方々は吉野舞踊団を細々と継続していたのですが、私が幼稚園に入る頃には続けていくことも困難になっていったようです。

それで、叔母のファンでスポンサーが居た縁もゆかりもない岐阜市という地に住むことになりました。

小さな借家に祖父母と叔母二人と母と私、6人暮らしです。

母と叔母たちと残った劇団員の人たちは大きな舞台で公演することは出来なくなり、場末のキャバレーの舞台で芸を続けるしか生きていく手段は無くなっていました。

どんなにそれが辛くても生きていくために他に手段が無かったのです。

当時のキャバレーというところはけっこう広くてダンスホールとキャバクラを足してそこに舞台があるような感じの場所でした。

小さかった私はキャバレーの照明室でキャバレーの中をよく眺めていました。

色とりどりの綺麗なドレスを着て厚化粧をした女性たちが、酔っ払いの男性たちに愛想をふりまきながら接客をする姿をいまだにはっきり覚えています。

高い場所にある照明室から見る薄暗いキャバレーの中に溢れる女性たちはひらひらしたドレスは泳ぎ回る金魚すくいの金魚みたい。

男性たちはその金魚を一生懸命すくおうと金魚すくいを持って綺麗な金魚を追い回している人のように見えました。

そんな光景が私の幼稚園に入った毎日の普通でした。



華やかな日々をおくっていた母がキャバレーの舞台に立ち、酔っ払いのろくに舞台も見ていない男性たちの前で芸を続けることはとても屈辱的なことだったと思います。

それでも巡業を止め私を幼稚園に入れたのは子供らしい日々を過ごさせたかった母の親心だったのでしょう。

だけど、一カ所に定住したことも無く、同世代の友達が居た経験も無い大人ばかりの特殊な環境の中で育った私が、いきなり子供だらけの幼稚園に入れられて順応できる訳はありませんでした。

自分と同じ年齢の子供たちとどう接していいのかわからない。

子供って無邪気なようで残虐です。

大阪人の家族のもと、大阪弁で育った私の言葉からして岐阜市の他の子には異質でからかわれました。

幼稚園に行っても徹底的に仲間はずれにされる毎日、他の子が楽しそうに遊んでいても「仲間に入れて。」と、その一言さえ言えなかった私は完全に孤立していました。

みんなが遊んでいる姿を遠くから膝を抱えて見ているだけの日々。

そんな日々は私にとって苦痛以外の何ものでも無かったです。

幼稚園に行かなきゃいけない朝が来るのが恐かった。

なんで行かなきゃいけないのかわからなかった。

朝になるたびに毎日毎日、登園拒否をしていました。

私を可愛がってくれていた母のすぐ上の叔母は、幼稚園バスに断固として乗るのを拒否っていた私を自転車に乗せて幼稚園まで連れて行ってくれましたが、私は門の前でいつも泣いていました。

叔母の困った顔を覚えています。

小さな私にも叔母が好意でしてくれていることがわかっていました。

叔母に悪いことをしている、どうしよう、、、

そう思えば思うほど、悲しくなって泣いていました。

せっかく入れてもらった幼稚園に私はほとんど行きませんでした。

行けませんでした。

私はずっと自分も子供なのに他の子とどう接していいのか?わからない子供のままでした。



小学校入学、本格的な登校拒否。



そんな子供のまま私は小学校入学を迎えました。

私が小学生になった頃、とうとうやっていけなくなった吉野舞踊団は解散に追い込まれました。

歌のうまかった母は小さなクラブで歌手としての働き口を見つけ、そこで働き始めました。

ホステスだけは嫌だった母の最後のプライドだったと思います。

劇団長をしていた年長の叔母はファンでスポンサーだった方の支援のもと、お弟子さんを集めてもらい日本舞踊の指導をはじめ、母のすぐ上の叔母は観光ホテルのフロントの事務職の仕事につきました。

叔母たちはそれぞれ一緒に住んでいた借家を出て、私は母と祖父母と私の4人暮らしになりました。


私の面倒をみてくれていたのは祖父母でした。

とくに祖母は私の母親代わり、いや?実質母親でした。

私にとってかけがえのなかった存在、それは間違いなく祖母でした。

母は他の子供たちと違う私をどう扱っていいのかわからなかったように思います。

私を持て余していたように思います。

「なんで、あっちゃんは子供らしくできないの?」

そう母からよく言われました。

そんな母に私は懐いていませんでした。

母が「ママ」なのはわかってる。でも私にとってのお母さんはおばあちゃん。

私は祖母が大好きでした。

祖母は根っからの関西人で、冗談ばかり言い笑顔を絶やさない底抜けに明るい人でした。

どんな時も祖母は私の前で哀しい顔も困った顔も見せませんでした。

祖母の前では子供らしくなかった私も無邪気でいられたし、いつも私を全力で笑わせてくれました。

母は9人兄弟の下から2番目だったので、その頃すでに祖母は70歳を超えていて、私の面倒をみることはかなり大変だったと思うのですが、炊事、洗濯、掃除すべてを当たり前のようにしてくれてました。

しんどかっただろうけど、キツそうな顔も一度も見せたことはありませんでした。

何より無償の愛情でいつも私を包んでくれたのが祖母でした。


私は小学生になっても相変わらず学校に行けずにいました。

登校拒否という言葉もなかった時代の登校拒否です。

祖母は学校に行かない私に一切何も強要はしませんでした。

大好きだった祖母に心配をかけるのは嫌だったけど、私は子供たちの中に入っていくのが相変わらず恐かったのです。

まったく学校に行かない私を母は腹を立てて殴ったことがあります。

その時はタオルが真っ赤になるくらいの鼻血が出るほど何度も何度も殴られました。

母もどうしていいのかわからなかったのでしょう。

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