普通の主婦の普通じゃなかった半生 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ 総集編

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また学校に行けなくなってしまった。

今から思うとこれが最初の鬱病だったのでしょう。

祖母を失った心の穴は大きく暗く深いものでした。

そこに入り込んでしまったらもう出てこれないブラックホールのような。

行き着く先に光の見えない黒くて真っ暗な闇です。


中学2年、私はトータルして1ヶ月くらいしか登校していませんでした。

あとの11ヶ月は自分の部屋にこもり、誰とも、必要なこと以外は母とも口をきかない日々でした。

だけど、小学生の時のように完全に家に引きこもることはできませんでした。

祖母が亡くなって家事をしてくれる人が居なくなったからです。

もう私を甘えさせてくれる人は誰もいません。

最低限スーパーや図書館には出かけないと、食料も本もありません。


炊事、洗濯、掃除、そのどれもが私の仕事になりました。

特に炊事、食事は切実な問題でした。

母はまったく家事のできない人だったので料理を作ってもらったことは数えるくらいしかありませんでした。

1日に1食、店屋物をとってもらえればいい方、それで食事がとれる、そんな生活でした。

母からまとまった生活費をもらっていた訳ではない私は食べ物を買うお金をあまり持っていませんでした。

その頃の母はそれくらい私に関心がありませんでした。

母も自分の母親である祖母を亡くした悲しみと、生活に追われる日々で神経がおかしくなっていたのかもしれません。

娘である私に食事をさせる、そんな当たり前のことすらその当時の母にはできていませんでした。

母がテーブルに置いてくれる1000円それが私が生活するすべてのお金でした。

食事以外の生活必需品や銭湯代も含めてです。

毎日じゃないその1000円で次にお金を置いてくれるまでの自分の生活をしていかなければいけなかった訳です。

コンビニやお弁当屋さんなど無かったその頃、スーパーに行き安い食材を買い祖母の作ってくれていた料理を見よう見まねで自炊し食いつなぐしかありませんでした。

今思えば母は育児放棄、ネグレクトでした。

私は銭湯代をうかすためにシンクの水で身体と髪を洗っていました。

それでも、母は無関心だったし、私は私で母に抗議するどころか会話をしようともしませんでした。

母は私にとってそれほど遠い存在だったのです。

特に反抗期に入っていた少女だった私にとって、奥さんが居る恋人を持つ母を見るのも嫌でした。

母の恋人は私にほんの少しの愛情も持っていなかったし、私はその人が大嫌いでした。

今、思っても何故、美しくて男性にモテた母があんな人を何年も恋人にしていたか不思議です。

生活の援助をしてくれる訳でもない普通のサラリーマンで、見た目もぱっとしなくて、面白い訳でも優しい訳でもない。

母は母で逃げ場が欲しかっただけなのかもしれません。


中学校に行けるようになったきっかけは皮肉なことに、中2の終わり頃の近所への引っ越しでした。

昼夜問わず働いて貯めたお金で母がブティックを経営することになったのです。

クラブ歌手の仕事も辞めた母は、それで生活を立て直すつもりだったのでしょう。

そして、母も心機一転してそれまでの薄暗くて狭くてお風呂もなかった環境から脱出したかったのだと思います。

引っ越した先は真新しい南向きの一軒家ではじめてお風呂のついた借家でした。

それまでは北向きの薄暗い部屋に閉じこもり、シンクで身体を洗っていた私にとって毎日入れるお風呂のある明るい部屋は新鮮でした。



幾度となく繰り返された転校。



けど、また転校。。。母は私が転校した先でうまくやれるか?など考えもしなかったと思います。

幼稚園から通算して5回目の転校でした。

娘が何を考え何がしたいか?そういうことに母はまったく興味がありませんでした。

転校に転校を重ねさせることにも、それが娘である私にとって大変なことだとは一切思ってもなかったと思います。

でも、その時の転校は結果的に私にとって環境を変える良いきっかけになったのです。

心の闇に引きずり込まれそうになっていた私にとって、新しい環境はその先につながる光へと導いてくれるものでした。


うんざりしながら行った新しい学校で私はとても面倒見の良い同級生に巡り会いました。

その子は学校に行かない私をとても心配してくれました。

私にとってはじめて自分を心配してくれる子でした。

学校に行けばいつも私のそばに居てあれこれ世話を焼いてくれました。

とても人なつこく優しい性格のその子は私が他の子となじめるように一生懸命になってくれました。

なかなか心を開けなかった私だったのに、その子は友達として私を認め好きになってくれたのです。

そんな彼女に私は少しづつ心を開いていきました。

彼女がしてくれることに答えていかなきゃ!と思うようになりました。

そして彼女は私の初めての親友と呼べる存在になりました。

彼女に心配をかけたくなくて、私はまた徐々に登校するようになっていきました。

彼女は今でも私の大事な友達の一人です。


彼女のおかげで学校に行けるようになったそれは間違いないのですが、もう一つ、恥ずかしい話しですが学校に行けば給食が食べれることも大きかったです。

新しい家に引っ越したからといって、母が食事を作ってくれるようになった訳ではなかったから。

食べることに困っていた私にとってそれも学校に行くきっかけになったことでした。

誰かにご飯を作ってもらえること、たとえそれが給食であっても、それは私にはとてもありがたいことだったのです。

残った給食をもらって持ち帰り食べるものを安く作り、洗濯をし、掃除をする。

そんな中学2年生でした。

本物の主婦である今よりも頑張っていたかもしれません。

その頃はもう寂しがっている暇はありませんでした。

グレる余裕もありませんでした。

14歳の私はただただ生活するのに必死でした。

その頃の私の憧れは清潔な家に、暖かい食事が用意されていて、ふかふかの洗濯物が綺麗にたたんである生活、それをしてもらえること。

主婦になった今もそれは強迫観念のように私の中にあって、手作りの暖かい食事を毎日用意することと、常にふかふかの清潔な洗濯したてのバスタオルや衣類が綺麗にたたんであることがを幸せの象徴みたいに思っています。

当然のようで私には当然でなかったことだったから。



初めての彼氏



写真 15歳、初めての彼氏ができた頃。


笑えなかった私が笑えるようになっていました。



そんな毎日をおくっていた私にも悪いことばかりだった訳ではありませんでした。

私が転校した先の中学校は12クラスもあり、1学年に500人近くも居るマンモス校でした。

私が中3になった時、中2から中3にかけてクラス替えがあり、転校生だった私だけじゃなく、クラスのみんなが知らない子とミックスされたのです。

それで、私だけ浮いた存在では無くなりました。

そして、何より驚いたのは私は異性にそこそこ人気があったのです。

これは謙遜でもなんでもなく、異性を意識する心の余裕なんてそれまで私にはなかったから。

中3になってすぐ、修学旅行がありました。

その修学旅行の東京に向かう新幹線の中で男の子から「付き合ってくれる?」と告られたのです。

その男の子はクラスの中で私もいいなと思っていた子でした。

それで、その場でOKしてカップルになりました。

片思いも経験せず、いきなり彼氏ができたのです。

幸運でした。

実は中学生になってからそれまでも2〜3回、知らない男の子から告白されたことはあったのですが、生活でいっぱいいっぱいだった私はそれどころではなかったし、付き合うといってもそもそも学校に行ってなかったのでお断りしてました。

でも、中3のその時は私にもちょっと遅い恋心が芽生えはじめた矢先だったのです。

げんきんなものです。

はじめてあんなに嫌だった学校に行くことが楽しくなりました。

学校に行けば彼と会えます。

彼はとても明るい人柄で、勉強もスポーツもできて長身のモテ男で、クラスの中心人物でした。

その彼が私を選んでくれたことは驚きだったけど、私の自信になりました。

自分に自信を持ったことなんてなかったのに。

だけど、彼氏ができたからとはいえ、それまで友達付き合いもろくにしてこなかった私には彼とどう付き合っていいのか?あまりわかりませんでした。

とりあえずはじめた交換日記と、たまに夜中にこっそり話す電話(彼の親御さんが厳しかったから)それから、一緒に帰ることや、自転車の二人乗りで彼の腰に手を回すこと、それくらいがいっぱいいっぱいで。

淡い可愛い恋でした。

でも、その彼のおかげで私は学校を休まず彼に会いたいがために毎日登校するようになりました。

これはここに初めて書くことで、その彼も知らないことです。

不登校が完全に治ったのは彼のおかげでした。

学校に行けるようになった私はどんどん元のおばあちゃん譲りの明るさを取り戻していきました。

祖母がブラックホールの向こう側に引っ張り出してくれたみたいに短期間で私は変わっていきました。

友達も男女問わずたくさんできていきました。

はじめて同級生たちと接することが楽しいことだと思えるようになったのです。

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