普通の主婦の普通じゃなかった半生 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ 総集編

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だけど、その時の私には母はただ恐いだけの存在でした。

祖母は私の前に毅然と立ち、盾になって私を守ってくれました。

そして、殴るなら自分を殴りなさいとまで言ってくれました。

私はいつもそんな祖母の後ろに隠れていた子供でした。


母とは当時、というかそれからずっと長いこと大人になるまで、親子らしい会話をした記憶さえほとんどありません。

子供時代は母の顔を見ることすら希なことでした。

母がクラブで歌手として生計をたてることになってから、私が起きて家に居る時間に母は眠っているか家に居なかったからです。

その頃から借家やアパートを何度も引っ越して転々とする生活がはじまります。

同じ家に2年と居なかったと思います。

理由はわかりません。

母のなんらかの事情でしょう。

仕事の都合というには、あまりに近距離な引っ越しを繰り返していたので借金があったのか男性関係なのか、そんなところだろうと思います。

その度に転校していた私は友達など一人もいませんでした。

こんな田舎でただでさえ目立つ転校生、引っ込み思案だった私は自分から人の中に入っていくことはできませんでした。

小学校に行ったのは6年間で半分もなかったと思います。

家に引きこもり本ばかり読んでいる子供。

今でこそ珍しくないと思いますが、当時はそんな子は居ませんでした。

小学校6年生の時に担任の先生が家に来て言いました。

「この子は自閉症だから、このままでは義務教育を精神病院に閉じ込めて受けさせなくてはいけません。」

神経症ではなく精神病だと思われていたのです。

精神病院の鉄格子の中で隔離されて義務教育を終えろと。

本当の話しです。

その頃はそういう認識だったのでしょう。

その話しを聞いた私は無理にでも学校に馴染まないと閉じ込められるという恐怖感でいっぱいになりました。

それで、精神病院に入れられるのが嫌で次の日から勇気を出して登校しはじめました。

不登校=精神病院、今、考えるとひどい担任ですが、そのおかげで学校に行けた訳です。


学校に行くのは苦痛でした。

でも、行かなければ精神病院に入れられ祖母と離れなくてはいけない。

そんなところには行きたくない一心で頑張って登校しました。

幸いお母さんがわりだった祖母の底抜けの明るさで育ててもらった私は、一度馴染むことさえできれば、慣れることさえできれば、明るい性格の子になっていました。

学校に何とか通うことさえできれば、最初の段階の仲間はずれさえ克服すれば、嫌われる性格ではなかったのです。

小学校6年生、私ははじめてまともに学校に行きました。

引っ込み思案な性格も少しだけ治っていきました。

孤立することも少なくなり、同級生と普通に接することができるようになりました。

普通に接してもらうこともできるようになりました。


写真、祖父母


登校拒否をなんとか克服できた私は、中学生になりました。

学校に行けるようになったとはいえ、相変わらず学校は嫌いでしたが。

それでも休みがちだったけれども引きこもることは無くなっていました。

勉強は中の中、お利口さんではなかったし、スポーツも苦手で出来の良い生徒ではなかったけれど。


だけど、学校に行くことに馴染んだ矢先、中1の夏に祖父が亡くなり、後を追うようにして私の誕生日に、大好きな祖母があっけなく亡くなりました。

風邪をこじらせての肺炎、入院してたったの3日で、、、逝ってしまいました。

祖母は81歳になっていました。

後になって思うに高齢で、決して早い死ではなかったのだけれど、亡くなる寸前まで明るくて、年寄り扱いされるのが嫌いで、身綺麗にしていて、ちゃきちゃき家事をこなしてくれていた祖母。

疲れた様子やしんどそうな様子は一度も見せたことが無かった祖母。

中学生になったとはいえ、13歳の子供だった私は祖母はそのままずっとそばに居てくれるものだと思っていました。

突然の別れ。

学校の教室で祖母の死の知らせを受けた時、私はただただあっけにとられていました。


嘘だ! 


信じられませんでした。

まだまだ子供だった私には受け入れることのできないことでした。

でも、それは変えることのできない事実でした。

祖母の亡骸に会った時、祖母の死を現実として突きつけられた時、

悲しいというより私は「無」の無限の中に放り込まれたような心細さを感じました。

私の唯一無二の味方、いつも冗談ばかり言って笑わせてくれた、自分のことなどおかまいなしに私を守り通してくれた祖母。


おばあちゃん、おばあちゃん。

もう、笑ってくれないの?

もう、話してくれないの?

もう、一緒に居てくれないの?

もう、もう、もう、、、


悔しくて仕方なかった。

おばあちゃんを連れて行ってしまった死というものを憎みました。


ありがとうの言葉も一度も言えないまま、孝行の一つもできないまま、祖母は逝ってしまいました。

祖母を亡くした痛みは何十年過ぎた今も胸にのこっています。

大事な大事な人を亡くしたやり場の無い痛みです。


それでも私はその時一度も人前では泣きませんでした。

なぜだか泣けない子供になっていたのです。

母の前ですら泣けませんでした。

私の中で母は家族であって、家族でない存在になっていました。

私は一人部屋にこもって声を殺して泣き続けるような、そんな子供でした。


私を守ってくれる人は誰も居なくなりました。

そこからまた、引きこもりと登校拒否がはじまりました。



引きこもりとひとりぼっちの生活のはじまり。



祖母を亡くしてからはひとりぼっちの生活がはじまりました。

どんなに寂しくても、頼れる人は誰もいません。

母は夜はクラブの歌手を続けていましたが、夜から昼間の仕事に変わりたかったのでしょう。

昼は知り合いのブティックに勤め始め仕事に忙しく、そしてまだ若かった母には恋人が居たので、私と一緒の時間を無理にでも作ろうとはしなかったからです。

経済的に自分と私の生活を守っていくのが母にとって精一杯で。

母も必死だったのだと思います。

帰って来ない夜もありました。


祖母が亡くなってからの私はまったく学校に行かなくなりました。

誰とも口も聞かず、閉じこもる日々でした。

その頃から読書にのめり込んでいきました。

私には本だけが信頼できる友達でした。

本の中の世界の偶像を自分の中に投影して現実から逃避していました。

非現実の世界の中で生きていないと、現実の世界は子供が生きるには辛すぎるものでした。

それでも母が帰ってこない夜には、このままずっとずっと一人きりなのかな?

そんな不安でとても心細かったです。

そんな時には絵を描きました。

海の絵です。

幼い頃、一度だけ連れて行ってもらった海が深く心に残っていて、私は海に憧れていました。

海に思いをはせていると寂しさから逃れられたのです。

青の世界を夢見て、青い絵の具で海の絵をたくさん描きました。


そんな海への憧れが、ダイバーになりたいという夢の原点だったと思います。


写真 15歳の私。



深刻な登校拒否とネグレクト


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