アメフトで首を骨折し、四肢麻痺になった青年がヘッドコーチとしてチームに復帰した話。パート4
これまで歩んできた四半世紀の人生を振り返ってみて、僕は、「強さ」の本当の意味を勘違いしてたと思います。
昔から、自分の弱い姿を見せることが苦手で、辛いことがあってもいつも強がっていました。
中学、高校生のときは友達にも自分の悩みをほとんど相談することなく、しんどくても「しんどくない!」と振舞い、周りから期待される「中村珍晴」を必死に演じてたように思います。
そして周囲から褒められることで安心してました。
自分の周りから人が離れていくことを恐れていました…
もしかしたら、心の何処かで他人を信用してなかったのかもしれません。
だからこそ今回の執筆では、辛かったこと、苦しかったことも含め「ありのまま」の弱い自分を綴るつもりです。(アナと○○の女王みたいですが、笑)
正直、この文章を書いてる今でも事故後の本当の自分の姿を書くことに抵抗があります。
そのため拙い表現もありますが、温かく見守っていただければと思います。
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事故をしたあの年は残暑がとても厳しかった。
9月に入っても35度を超えるような日々が続き、最寄りの駅から病院まで歩いてお見舞いに来てくれる人は、皆汗だくになっていた。
あの日も窓の外に目をやると真夏の青空が広がっていた。
手術から11日が経過した。
この頃から左腕が少し動かせるようになったが、自力でできることは喋ることと天井を見つめることくらいだった。
つまり、身の回りのことで自分ができることは、全くなかった。
食事は家族に食べさせてもらい、着替えや排泄の処理は看護師さんにしてもらっていた。
ちなみに首の神経(頸髄)を完全に損傷すると、尿意や便意の感覚もなくなる(今はリハビリのおかげである程度分かるようになったが)。
そのため普段はオムツを履き、尿や便が漏れたとしても、漏れたこと自体認識することができず、漏れたあとに若い看護師さんに処理をしてもらっていた。
人間の尊厳なんてあったものではない。
惨めな自分の姿を見るたびに、僕のプライドはズタズタに引き裂かれていた。
恥ずかしいという言葉では言い表せないほどだった。
またこの頃からチームメートをはじめ、事故のことを知った多くの知り合いがお見舞いに来てくれた。
チームメートと喋る時間は心の帯を緩めたようにホッとした。
ただ事故以来、初めて僕の姿を見る人は表情が暗く、僕は彼ら彼女らを心配させまいと無理して明るく振舞おうとしていた。
体調が悪いこんな時でも、無意識のうちに自分の弱い姿を見せることを避けていたと思う。
そんな日々を過ごす中で、あの瞬間が訪れた。
手術から11日後の午前10時30分頃、普段この時間に現れることのない、主治医の先生が突然、僕のベットサイドへやって来た。
いつもは優しそうな表情をしている先生の顔が少しこわばっている。
何かよくないことが迫りつつある気がする。
そして、お互いに挨拶を交わした後、重い口を開きこう言った。
何を言っているかよく分からなかった。
しかし、事前にある程度、話を聞いていた母親は、ベッドサイドで泣き崩れるように涙を流していた。僕は母親の姿を目にして、ことの重大さを理解した。
しかし、
宣告を受けた直後は、先生の言葉を受け入れることができず、現実を逃避するように眠りについた。
「自分だけは違う!他の人と一緒にしないでほしい!」本気でそう思っていた。
そのため、このときは落ち込むこともなく、むしろ熱意に溢れていたと思う。
しかし、現実は残酷だ。
何日経っても体調は回復せず、また麻痺の改善も見られない。
そして、手術後から約20日経ったある日、僕は入院後、初めて入浴をすることになった。
もちろん、自分一人ではベッド上で起き上がることすらできないため、入浴は看護師4人の介助で特殊なベッドに移してもらい、お湯に浸かった。このベッドはボタンひとつで平面の状態から30〜40cmほど凹むようになり、その凹みにお湯が溜まる仕組みになっている。
そして、底までまで凹んだ。
しかし、不思議なことにいつまで経ってもお湯の温かさを感じない…
そして、看護師さんが首元を洗うために僕の首に巻きついていたネックカラーを外した瞬間、我が目を疑うような光景が視界に入ってきた。
そこにはお湯の中に、まるで木の枝のような細い細い足があった。
事故以前、小さい頃からスポーツに打ち込んでいた僕の太ももの太さは60cm以上あった。しかし、そこには自分の足とは思えないほど細くなった足があり、しかもお湯の温かさを感じることはなく、それどころかお湯に浸かっている触覚すらなかった。
最初は意味が分からなかったが、すこしずつ現状を理解した。
そして木の枝のような足が自分の足だと認識するに従って、こみ上げてくる悲しみを抑えることができず、僕の心にある何かが崩壊した。
僕は子どものように泣いた。
いつまでたっても涙が止まらない。
自らに問いかけながら、この時に初めて、主治医の先生の宣告の意味、そして自分の置かれた状況を実感した。
この時、担当の看護師さんたちは僕の気持ちが落ち着くまで、いつまでも温かく見守ってくれていた。
「僕の人生はもう終わった…」
絶望の二文字とともに、心の壁に大きな風穴が開いた。
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