アメフトで首を骨折し、四肢麻痺になった青年がヘッドコーチとしてチームに復帰した話。パート5
振り返ってみると、僕が生きたこれまでの26年間は「人との出会い」に恵まれた人生でした。
青春時代、ともに汗を流した中学・高校の野球部の仲間は今でも深い繋がりがあり、また節目節目では恩師と呼べる方々に出会い「人の歩むべき道」を諭していただきました。
そして、何より家族は僕の誇りです。
両親、兄弟だけでなく、心から尊敬する両家の祖父母をはじめ親戚一同に支えてもらい、今日まで道を大きく踏み外すことなく、成長することができました。本当に感謝してもしきれません。
今、障害を抱え日々を過ごすようになり、人は一人では生きられないと強く実感してます。
中学生のとき、今は亡くなった恩師から、
と教えていただきましたが、この事故の経験を通して心から実感してます。
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事故から2ヶ月半が経ち、僕はリハビリ病院へ転院していた。
また、自分の現状を理解し、人目をはばからず号泣したあの日から、気持ちを切り替えるまであまり時間はかからなかった。
もちろん、100%前向きになったわけではない。
一日中、心を落ち着けて過ごせることはなく、一人になったときにはネガティブなことを考え、落ち込むこともよくあった。それでも、日中は現状を忘れるようにリハビリに取り組み、がむしゃらに過ごした。
この頃、麻痺が少しずつ改善し、多少なりとも両腕を動かせるようになった。
体の状態が改善する自分の姿を目にしながら、気持ちの面でも少しずつ前に進むことができた。
しかし、前向きになれた理由に、兄の思いやりに溢れた一言が、大きく影響している。
僕には4歳年上の兄がいる。
一言で表現すると、とても穏やかな人だ。
兄が唯一の兄弟ということもあり、僕は物心がついたときから、いつも兄の後ろ姿を追いかけていた。
(なぜか角刈り。笑)
一般的に男兄弟というものは喧嘩が多く、争ってばかりなイメージがあるかもしれない。
しかし、僕と兄は小さいときからほとんど喧嘩をしたことがなく、また兄が怒っている姿を今まで見たことがない。
僕は典型的な次男坊でいつもワガママばかりしていたが、兄はいつもそんな僕を優しく受け入れてくれていた。
兄は高校を卒業後、就職のため地元を離れ愛知県で寮暮らしをしていた。
そのため、盆休みと正月の帰省以外に会うことはなく、また帰省中も兄は毎晩飲み会で家を空けていたため、顔を合わせることはほとんどなかった。
そんな関係が数年続き、久しぶりに顔を合わして喋った場所が、病院の集中治療室だった。
最初、僕はどんな顔をすればいいか、分からなかったが、彼はヒョイっと病室に現れた。
そんな心配をよそに兄は、怪我をする前と何も変わらず接してくれた。
恐らく、当時の僕の姿を見て、表情も態度も変わらなかったのは兄だけだと思う。
兄の職場から僕が入院していた病院まで新幹線で約1時間かかる。
年頃の男子が、仕事が休みになるたびに、決して近くはない距離を毎週、週刊少年ジャンプとミスタードーナツを持って、お見舞いへ来てくれた。
いつも付き添って身の回りの世話をしてくれていた母も兄がいるときは、ゆっくり休むことができたため、家族にとっても大きな存在だったと思う。
そして、リハビリ病院へ転院して数週間経過したある日、兄と僕は病院のラウンジで一緒にドーナツを食べていた。
すると突然、兄が
驚いた。この人は何を言っているんだ。
さっきとは違う意味で驚いた。
小さいときからワガママで迷惑ばかりかけていた僕のことをこう考えてくれているとは、思ってもいなかった。
兄のこの言葉が僕の気持ちを大きく変えてくれた。
以前に比べ、今できることを頑張ろうと思えるようになった。
僕は今でも兄に対して感謝はもちろん、心から尊敬している。
「思いやり」とは相手の気持ちを理解しようとする姿勢だと思う。
相手の痛みや苦しみを100%分かることは無理だろう。
また、自分の主張だけしていては人間関係は成り立たない。
だからこそ、少しでもいいので、その人の立場を理解しようとし、その人の気持ちを分かろうと努力することが大切だと思う。
僕は兄のこの一言からそう学んだ。
ちなみに彼はその後、本当に仕事を辞め、僕のリハビリと介護を手伝いながら、専門学校に通い、現在は大阪の病院に理学療法士として勤めている。
本当にすごい人だ。
そして兄をはじめ家族の協力のおかげで、僕は半年の入院生活を終え自宅へ帰ることになる。
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