アメフトで首を骨折し、四肢麻痺になった青年がヘッドコーチとしてチームに復帰した話。パート6

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僕は小さい頃から「自分のことは自分で決めなさい」と両親から育てられました。



小学生のときにソフトボールを始めたときも、進学先の高校を決めたときも、両親は特に口出しすることはありませんでした。高校3年生の2月、大学合格が決まり、一人暮らしをするための下宿先を決めるときも一人で新幹線に乗り、アパートの契約をするほどでした。笑


もちろん自分で決めたことに対して中途半端な取り組みをしていたら、叱られることはあったので放任主義ではありませんが、いい意味で自由にしてくれたと思います。


そんな環境で育ったため、今でも僕は自分のことを他人に決められたくない癖がついてます。(たまに頑固と言われますが。笑)



人生は、答えのないことばかりです。

学校の勉強とは違い、人生では、あらかじめ答えが用意されていません。

Google先生で検索しても、どんなに大型の書店へ行ってもあなたの問題の回答は用意されていません。

答えがないから、迷います。


「どういう生き方がしたいのか」と考えを問われたとき、返事に悩みます。

だからこそ自分で答えを決める力が人生においては大切なのかなと最近思うようになりました。

そういう意味ではウチの家庭は英才教育だったかもしれません。笑



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半年間の入院生活を終え、僕は自宅へ戻ることになった。

そして自宅でリハビリ中心の生活を送ることになるが、この道を選択するまで様々な葛藤があった。



僕は試合中に首を骨折し、首の骨の中にある頚髄(けいずい)という神経を損傷した。

障害名は「頸髄損傷」

頚髄は一度、損傷すると二度と再生しないため体に麻痺が残ってしまう。

また現代の医学では治療が不可能だと言われている。



そして現代の病院で行われる頸髄損傷のリハビリは方針がハッキリしてる。

それは麻痺を改善させることは諦め、残っている機能を最大限に活用し、車いすで社会復帰すること。



この考え自体は間違っていないと思う。

車いすであっても自分でできることが増えることで自信に繋がり生きる力になる。

しかし、失った機能を取り戻すことを諦めた結果、立ち歩くことは不可能となり、さらに麻痺した箇所の筋肉は落ち骨格がゆがむこともある。


それでも僕は入院中、社会復帰を目指しリハビリに取り組んでいた。

しょうがない、それしか道がなかったからだ。




しかし、粉雪の舞うある日、新聞の一面記事をきっかけにその考えが大きく揺らぐことになる。


その記事とは

「iPS細胞 発見」





そう2012年にノーベル生理学・医学賞を表彰された世紀の大発見だ。

iPS細胞とは、神経や筋肉などいろいろな体の部分になることができる万能細胞で、理論上は頚髄損傷の治療も可能である。

しかも山中教授は20代の頃に友人が頸髄損傷になり、その人を救いたいという気持ちでこの研究を始めたそうだ。



担当の先生のもとに新聞記事を持って、iPS細胞の移植手術の可能性について聞いてみた。



担当の先生
「あー、もちろん画期的な発見だけど、実用化まで10数年はかかるだろうね」



と軽くあしらわれた。

しかし、



「ん?ということは10数年後には実用される可能ってことか?」



と先生の言葉を聞いたときそう感じた。



その日の晩、心の中に何か引っかかるような感覚だった。



(このまま麻痺した箇所をリハビリしなければ、iPS細胞が実用化されても移植できない体になるのでは…)





翌日から不安と疑惑、そして期待が頭の中をグルグルと駆け巡り、リハビリどころではなくなっていた。

僕は昔から自分の中にハッキリさせたいことがあると周りの言うことを聞かず突き進むという頑固な一面がある。

「真っ直ぐな思い」と言うとカッコイイが、周囲からすると単に面倒くさいだけだ。笑




そして、不自由な手を使いパソコンを操作し、可能な限り調べ尽くした。

すると日本で2箇所だけ脊髄損傷の「立って歩く」ことにフォーカスしたリハビリを行っている場所があった。


ひとつは脊髄損傷者専門のトレーニングジムで専門のトレーナーが指導してくれるが、莫大の費用がかかりまた当時約100人待ちの状態だった。


そしてもうひとつは家族がリハビリの方法を習い、自宅でリハビリを行い定期的に指導を受けるというスタイルで、こちらはジムほど費用はかからないが家族の協力が不可欠になる。




どちらにしろ重要な事は、病院のリハビリは辞めて退院しなければならない。

ようやく車いすに座れるようになっただけで、自宅で生活する姿なんて想像することすらできない。




迷いに迷った。


ただ僕は少しでも可能性があるなら「もう一度立って歩く」ことを諦めることができなかった。

そして決断した。


僕は病院を退院し、自宅で家族の協力のもとリハビリをする道を選択した。




みなさん、想像してほしい。


首から下に麻痺があり、ようやく車いすに座れるようになった息子が「病院を退院する!」と突然言ったら親はどう反応するだろう。

恐らく、ほとんどの親が即答で反対するだろう。




しかし、僕の母親だけは違った。

すぐに「もう一度立って歩きたい」という想いを尊重してくれ、家族を説得し背中を押してくれた。

そして父親は僕が自宅に帰れるように環境を整えてくれ、兄は仕事を辞めリハビリを手伝う準備してくれた。

もしかしたら僕の家族は世間と少しズレているかもしれない。

ただこの常識にとらわれない考えのおかげ一歩を踏み出すことができた。


感謝してもしきれない。





この無謀と思える挑戦は、当たり前だが、壁しかなった。

家族やヘルパーさんに協力してもらい一日約4時間のリハビリをほぼ毎日続けていた。

文字にすると大したことではないかもしれないが、家族と揉めることもたくさんあった。

リハビリを成果が出ずに家族に当たり散らし、泣きながら喧嘩することもあった。

この辺りの話は文章にするとハリー・ポッター並みの長編作品になってしまうため、ここでは割愛する。


そして復学するまでの2年間、自宅でのリハビリ生活を続けることになるが、この間に大きな出来事が2つあった。



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このリハビリは事故から7年経った現在でも続けています。

最初は3人介助でも立つことができませんでしたが、今では膝を軽く支えてもらうと歩行器で立つことができます。



  ↑

こんな感じ。(2014年撮影)


あの時の選択は後悔していません。


なぜならこれは自分自身で決めた道だから。

どんなに迷っても最後の決断は他人に委ねず、自分ですべきだと僕は思います。

あなたの人生を決めるのは他人ではありません。

自分の人生に責任を持つということは自ら決断することではないでしょうか。

僕は両親の愛情からそう学びました。




そして来年、iPS細胞を使用した急性期の脊髄損傷患者の臨床試験が開始される予定です。

あの頃に思い描いた期待は、もう決して夢物語ではありません。

だからこそ、この治療法が確立された時に手術を受けることができるように今後もリハビリを続けています。

もう一度、自分の足でフィールドに立つまで僕は諦めません。



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