僕は車椅子に乗っている。ただ、それだけのこと。~幸せになるための〇〇~

19歳の夏、僕は首を骨折し、首から下の動きと感覚をすべて失いました。



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9年前、僕は大学に入学しアメリカンフットボールを始めました。

進学先に体育学部を選択するくらいスポーツが好きだったので、すぐにこの競技の魅力に惹かれ、無我夢中に練習に取り組みました。

そして、2007年9月1日、デビュー戦を迎えます。

前半が終わり14-7。僕らは7点差で負けていました。

「まだ逆転できる!」ハーフタイムにチームメイトとそう意気込み、後半を迎えます。

後半が始まり5分経過したときのことです。あるプレーで相手選手が僕の方へ走ってきました。何とかこの選手をブロックしよう、そう思い自分の足を前に出した次の瞬間


「バーンッ!!」


雷が落ちたような衝撃とともに周りの光景がスローモーションに流れていきました。

そして、僕の視界に入ってきたのは夏の日の綺麗な青空でした。僕は仰向けで倒れていたんです。


もちろん試合中です。すぐにチームメイトのもとへ戻ろうとしました。チームメイトも僕のことを呼びます。

ただ、僕の体にある異変が起きていました。

首から下が全く動かなかったんです。

フィールド内の異変に気がついたチームのスタッフがタンカを持って僕のもとへ走ってきて、4人がかりでベンチまで運びます。


当然、緊急事態です。すぐに救急車を呼びました。

サイレンの音がだんだん大きくなり、そしてサイレンが止まると救急隊員が駆けつけて来て、いくつかの質問をされました。

救急隊員
きみ、腕動かしてみて
いえ、動かせません
救急隊員
膝は曲げれる?
いや、曲がりません。
救急隊員
じゃあこれ何されてるか分かる?
…すみません。分からないです。

このとき救急隊員の方は僕の太ももをギューッと思いっきりつねっていました。

でも僕はその痛みはおろか、触られていることすら分かりませんでした。相手選手とぶつかった際に首を骨折し、頸髄に傷が入ったことで、首から下の動きと感覚が全てなくなっていたんです。


その後、救急車での病院に搬送され、レントゲンやMRIなどの検査を受けました。

検査の結果、その日のうちに緊急手術をすることになります。

手術室に入ったのが17時。手術が終わったのが23時。約6時間に及ぶ手術でした。

このとき、僕の首の骨は粉々になっていました。そのためメスで首の裏を切開し、粉々になった骨を取り出し、骨盤の骨を移植しボルトで固定するという手術でした。


もちろん手術中は麻酔が入っていたので意識はありません。意識が戻ったのは翌日の10時でした。

首の痛みで目が覚め、現状を理解したとき、担当医の先生が枕元へ来て一言。

担当医
昨夜の手術は無事成功したよ

この言葉を聞いてめちゃくちゃホッとしました。

(良かった。手術は成功したんだ。これでまたアメフトができる。次の試合は2週間後かぁ。早く練習に戻らなきゃ。)

本気でそう思っていました。

しかし、現実は残酷です。

1日が経ち、3日が経ち、1週間たっても体の状態は何も変わりませんでした。むしろ手術の影響で毎日38度以上の熱にうなされ苦しい時間を過ごしていました。


そして事故から10日後のことです。

午前中の回診で担当医の先生が僕のベッドへ来ました。ただいつもと雰囲気が違う。

どこか先生の表情が暗い。そして嫌な予感がしながら重い口を開きました。

担当医
これから言うことをよく聞いてください。



君はもう二度と歩くことはできません。
これからは寝たきりの生活を覚悟してください。

はっきりそう言われました。

どういう意味かよく分かりませんでした。手術は成功したはずなのに。

頸髄は中枢神経で、一度損傷すると回復しないと言われています。

僕の受けた手術は、体の麻痺を改善するものではなく、骨折した首の骨を修復するだけの手術だったんです。

それでも、このときはまだ楽観的でした。歩けないなんて自分に限ってそんなことはない、リハビリをすればもとに戻れる、そう思っていました。


ただ…

オフロに入ってもお湯の温かさが分からない

日に日に痩せて足は木の枝のように細くなっていく

少しずつことの重大さを自覚するに従い、心は暗闇に覆われ、そしてある日とうとう僕の心は崩壊しました。

同級生は楽しそうに大学生活を送っている。なのに自分はなんなんだ。自分で着替えもできない。食事も取れない。排泄の処理は看護師さんにやってもらう。唯一できるのは、ただ天井を見つめるだけ。

…もういいよ。こんなに苦しいならもう楽になりたい。

そう思い電動ベッドのコントローラーのコードを首に巻きそのまま地面に落ちようとしました。

しかし、何時間もがいても自分で体を動かすことができないので結局、命を断つことはできませんでした。

この時が僕の人生で最もどん底だった瞬間です。


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ただ、いつまでも落ち込んでいたわけではありません。

そんな生きる希望を失った僕を救ってくれたのは4歳年上の兄ちゃんの一言でした。


兄ちゃんは高校を卒業し県外の会社に就職したので、約4年間ほとんど会っていませんでした。そして、久しぶりに再開した場所が僕の病室だったんです。兄ちゃんは仕事が休みになるたびに新幹線で病院まで来てくれ、身の回りのお世話をしてくれました。


事故から4ヶ月後のことです。その日も兄ちゃんが病院に来てくれ、二人で話をしていました。

そこで彼が突然こう言ったんです。

兄ちゃん
俺仕事辞めるわ。
!!!!
(何言ってんだこの人は!?)
兄ちゃん
仕事辞めて、理学療法士になろうと思う。ハル(兄は僕をこう呼ぶ)の苦しみや辛さを全て理解することは無理やけど、少しでもいいから力になりたいんよね。

さっきと違う意味でとても驚きました。

小さい時からワガママで迷惑ばかりかけていた自分のことをこんなに思ってくれていることが嬉しかった。そして僕は、ある勘違いをしていることに気が付きました。

僕は事故により全てを失ったと思っていました。

体の自由は奪われ、明るい将来など自分には訪れない、そう思っていました。

でも変わらないものあったんです。

それは、兄ちゃんをはじめとする家族との繋がり、自分の帰りを待ってくれているチームメイトとの絆。

大切な人との繋がりは事故の前と何も変わっていませんでした。そして、自分のことを支えてくれる人が数え切れないほどたくさんいました。


そのことに気が付いたときこのままではダメだという気持ちが少し芽生えたんです。

確かに手足は麻痺していて動かないけど、だけど、だからこそ、今できることを必死に取り組もう。

どんな姿格好でもいいから、

「もう一度大学へ復学して、アメリカンフットボールのフィールドへ戻る」

兄ちゃんの一言をきっかけに、この目標に向かって毎日6時間以上のリハビリに取り組みました。

ちなみに彼は、本当に仕事を辞め、僕のリハビリと介護を手伝いながら、専門学校に通い、現在は理学療法士として病院に勤めています。僕が心から尊敬するカッコいい兄ちゃんです。


そして、約2年半のリハビリ生活を経て、

2010年4月、僕は車椅子に乗って大学に復学します。

その後、車椅子のコーチとしてチームに復帰し、2012年から4年間、母校のヘッドコーチを務めました。

また現在は、競技中の怪我で障害を負ったという特別な経験を活かし、スポーツ心理学の研究者として「スポーツ選手の怪我からの心の成長」というテーマで研究を行なっています。


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目が見えない、耳が聞こえない、言葉を喋ることができない。

3つの障害を抱えながら、障害者の教育・福祉に尽力したヘレン・ケラーがこんな言葉を残しています。

ヘレン・ケラー
ひとつの幸せのドアが閉じるとき、もうひとつのドアが開く。 しかし、わたしたちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気づかない。

2007年9月1日。

この日、僕の幸せのドアはたくさん閉じました。

体の自由を失い、明るい将来なんて自分にはもうやってこない、そう思っていました。

当時は、その閉じたドアばかりに目を向け、落ち込み悩むことが多かったです。でも、今振り返ってみるとあの日があったからこそ手にした新たなドアもありました。


それは「幸せを感じる力」です。

天井を見ることしかできない時間を経験したからこそ、五体満足の素晴らしさに気がつきました。

家族と食事をする。スポーツをする。友達と遊ぶ。

もっと言えば、歩ける、呼吸できる、生きている。

障害を負う前は当たり前と思っていたことが、どれだけ素晴らしいことか学びました。


でも人間は欲深い生き物です。

現状に満足できずに、ここではない「どこか」に幸せを探してしまいます。他人や過去の自分と比べては、「今よりもっと…」という気持ちが強くなり、その気持ちが満たされなくなると、不満や文句というカタチで表に出てきます。

でも幸せというのは、何か得たとき、達成したときに訪れるものではなく、何気ない日常の中にこそ存在するものではないでしょうか。僕は幸せとは、今この瞬間にあるものだと思います。


生きていく中で、自分が望まない出来事が急に訪れることがあります。

ただ、いくら嘆いても過去は変わりません。

僕は、自分に降りかかる全ての出来事に意味があると思っています。たとえ、その出来事が人生を辞めてしまいたいくらい辛いことであっても、無駄な試練はありません。苦労を学ぶ時期。幸せを感じることが出来る時期。数々の失敗と挫折を繰り返して、時には立ち止まり、逃げ出したいことがあっても、今この瞬間を懸命に生きることで人の魂は磨かれていきます。


この障害を通じて、いい意味でも悪い意味でも僕の人生は変わりました。

ウソのように聞こえるかもしれませんが、今はこの障害にとても感謝しています。

あの日の事故があったからこそ、些細な事でも感謝し幸せを感じる自分がいます。僕の周りには大切な家族がいて、信頼できる仲間がいて、そして大好きなアメリカンフットボールに関わることができています。これほど幸せなことはありません。


今回、STORYS.JPを通じて僕の考えや想いを綴ましたが、もちろんすべてが正しいと思っているわけではありません。ただ皆さんがこの先の人生で悩んだり壁にぶち当たったときに「そういえば車いすでも人生を楽しんでいる青年がいたよな」と思い出してくれたら、この場で皆さんと過ごした時間はきっと価値があると、そう信じています。


最後に、皆さんの明るい将来を願い、僕の生き方を表すこの言葉で締めさせてせてください。

「僕は車椅子に乗っている。ただそれだけのこと。」

最後まで読んでいただきありがとうございました。


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