10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(16)

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ところで、術後にどんな説明があったのだろうか?恐る恐る夫に聞いてみた。

まず最初に口にしたのはガンではなく胆石のことだった。胆石が満杯(70粒以上)で胆管に詰まるところだったらしく、ガンよりもそっちの方で危なかったと言われたそうだ。確かにガンで急死はしないが、胆管に石が詰まれば命に関わるという事だったらしい。意外な話に正直驚いた。しかし、この話でガンばかりが恐ろしい病気ではないのだということを再認識させられ、むしろ気持ちが軽くなった気がした。


それから肝臓には術前に認識していなかった転移がもう1ヶ所あったため、恐らく見えないものが他にもあるはずで、秋には再発、再手術することになるだろうと言われたというのだ。つまり半年後には「再手術」と宣告されてしまったわけだが、人間不思議なものでそう言われると妙に納得してしまって『そうか!また秋には手術か!』とスケジュールが決定してしまったかのように感じてしまったのだ。そう言われて「ショック」とか不安とかは全くなかった。現在の延長線上にそのスケジュールは組み込まれていて当たり前に手術を受ける。そんな感じだった。医師に対する信頼というものが大きかったせいもあるかもしれない。しかし、今思い出してみると実に不思議な感覚であった。


大腸のガンそのものは裏側まで突き抜けていたというのだから、全く救いようのない惨状であったわけだが、一番恐れていた腹膜転移はなかったと聞いて『それなら何とかなるだろう』と安心した。


とにかく無事手術が終わったのだから、それでOK。練馬の神社で「あなたは大丈夫!病気と仲良くできるから」と言われた時点で再発は覚悟していた。もちろん再発は嬉しいことではないが、それでも結果的に助かるというのなら、その後に待ち受ける難関も「回復に向けてのプロセス」なのだと納得している部分があった。取り出したものは全てデジタルカメラで撮影したというので、落ち着いたら見せて欲しいと頼んだ。


話を聞いて気分的にすっきりしたせいか私はベッドから抜け出したい気分になった。術後の回復を早めるには歩くしかない事はよく分かっている。ベッドから降りたもののフラフラだったが、どうせなら部屋から出たい。私はナースに頼んで部屋から出ることにした。酸素濃度を測るセンサーを指に付けてガードにつかまり、ナースに支えられながら歩いた。元の病室までは20メートルほど。何とかそこまで頑張って歩くことにした。同じ病室だった仲間の顔を見たかったし、驚かせたかったのだ。一週間ほど前に腹腔鏡手術を受けたIさんはすっかり元気になっていて、術後間もない私が姿を見せたことにビックリしていたが、凄く喜んでくれた。歩けたことで更に生命力が湧き出てきた気がした。


大手術の直後とは思えないほど順調に回復しているかのように見えたのだが、思いがけないアクシデントが待っていた。その夜から試練の「生き地獄」が始まってしまったのだ。


まだ手術の翌日だというのに大分時間が過ぎたように思えたのは、麻酔から引き続き睡眠が長かったせいだろうか?ホテルのシングルルームに泊まったことはあったが、病院の個室というのは初めて。大部屋にいた時と比べれば頻繁にナースが顔を出してくれるが、ブラインドが閉められた時点でかなり不安になってしまった。


それまでは恐らく強い痛み止めが効いていたのだろう。術後、痛いと感じたことはなかったが、急に痛みが襲ってきたのだ。そして、結局は横になることすら出来ないまま一晩を過ごすことになった。私は身体を起こしたまま、掛け布団で口を覆いながら「痛いよ~痛いよ~」と言い続けていた。個室だったからこそ周りに気兼ねなく「痛いよ~痛いよ~」と言い続けられることに内心ほっとした。痛いのに黙っているほど辛いことはない。「痛い」という言葉を口に出すことによって、僅かだが痛みが消えていくような気がした。やはり個室にして良かった。


痛みだけならまだ良かったが、呼吸も苦しくなってきた。40を過ぎてインフルエンザをきっかけに喘息を発症していた私は時々息苦しいことはあったが、呼吸困難と言うほどの状況に陥った経験はなかった。しかし、この時はとにかく酷い痰の絡みで息苦しさが急激に加速していった。何とも恐ろしかった。やがて外が明るくなった頃には、極度の息苦しさで正に「丘で溺れる」という状態になっていた。痛いのも辛いがやはり呼吸困難ほど辛いものはない。もう会話すら出来なくなって苦しさから開放されるなら死んでも良いというような状況になっていた。


朝の回診の時間になり、先生方が入って見えた。この時点では全く会話も出来ず、目をひん剥いて息をしているような状態だった。私は救いを求めるように主治医の先生の方に目をやったが、先生はとても見ていられないという表情で窓の外に視線を移されてしまった。この時ばかりは浮き輪につかまり損ねた気がした。部長先生が声をかけてきてナースに酸素吸入を指示されていた。やがて酸素マスクが装着され「丘で溺れる」という状態からは何とか脱することが出来たのだ。それでも会話できないほどの息苦しさは続いた。


いま思い出しても息苦しさが蘇ってくる。日ごろ普通に呼吸していることが如何に凄いことなのか・・・。


夕方、妹が顔を出してくれた。私からすれば酸素吸入のお蔭で息苦しさが和らぎ助かっていたのだが、酸素マスク姿は妹の目には余りにもショックだったに違いない。「どうしたの~?」と泣きそうな表情のまま帰ってしまった。その日は家族がまだ来てなかっため、何の情報もなく酸素マスクを目にすれば動転するのも無理はない。


翌朝、妹の主人と姪っ子の3人で朝から見舞いに来てくれた。妹は怯えきって夫の影に隠れるようにして私を見ていた。なんとも気の毒だったが、私も酸素を吸いながらやっとの状態で目でお礼を言うのが精一杯。なんとも情けなかった。このことで妹は精神的にダウンしてしまい、しばらくは病院に来れなくなってしまったのだ。本当にかわいそうなことをしてしまった。


しばらくして夫と息子が来た頃には大分状態も落ち着いていた。前日の夜、顔を出してくれた娘から状況は聞いていたと言うことで、私の酸素マスク姿にも慌る様子はなかった。次第に酸素マスクがうっとうしいと感じるまでに回復。酸素マスクというのは本当に苦しい時はありがたいが、状態が良くなってくるとなんともうっとうしいもので、勝手にマスクをかけたり外したりという感じになった。何とか危機は脱した。



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