10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(17)

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そして、翌日、4月20日(日)。息子の通っている英会話スクールのイースター合同イベントが都内で開催され、そこでスピーチをすることになったという。元気ならば是非とも見に行きたいところだったが、夫と娘に応援を頼み、私はビデオ録画を待つことにした。実はその日は夫の誕生日でもあり、密かに心に決めていたことがあった。イベントの帰りに病院に寄ってくれることになっていたので、夫に誕生プレゼントを渡したい。入院前に買っておくべきだったが悔やんでも仕方がない。院内でプレゼントの品を調達するためにはなんとしてでも地下の売店まで歩かなければならないのだ。


術後、呼吸困難という思いがけないアクシデントはあったが、それを乗り越え急速に回復に向かっていることは体感していた。そして、「夫の誕生プレゼントを買うために売店まで行く」という少しばかりハードな目標は、次のステップに向けての突破口のように感じていた。ここで挫けるわけには行かない。ひとり勝手に意気込んでいた。


午前中も予行を兼ねて頑張って歩行訓練はした。しかし、階下まで1人で行けるものか?内心不安はあった。しかも、お腹から管が2本、更に尿管も付いている。腹部から排出された液体は真っ赤。そんな袋をぶら下げて歩いていたら周囲の人がギョッとしやしないか?ためらいもあったが、人目を気にしては何も出来ない。私は意を決して地下売店へと向かった。点滴台につかまるような感じで、やっとエレベーターに乗り込んだ。そして、地下に到着。


当時は売店の規模も大変小さく、商品も数少なかった。正直、誕生祝になるような華やかなものは売っていなかった。長居は出来ないので、その中からすばやく商品を選んだ。文庫本コーナーで「薬になる食べ物」の本を買い、つまみにもなるような袋菓子を買った。多分傍から見たら必死の形相だったに違いない。商品を手に私はマラソンを走り抜いたランナーのような達成感を味わっていた。


病室にたどり着くと、さすがにぐったりしたが、これがゴールではなかった。手紙を書かなければ!点滴は手の甲に刺さっていたから、手紙を書くのは結構難しかった。それでも頑張って便箋2枚に「誕生日」を一緒に祝えないことに対する侘びと感謝の言葉を書いた。日曜とは言え、術後間もないということで見舞い客もなかったので後はゆっくり休み、家族の到着を待った。


3人が到着した時はすでに外は暗くなっていた。私が元気そうにしていることに安心し、スピーチの動画を見ながらイベントの話に花が咲いた。そして、帰り際、夫に誕生プレゼントを差し出した。誕生日には決まって手作りケーキでお祝いしていたのに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。プレゼントは売店で買ったと言ったら驚いていたが、嬉しそうにカバンにしまい帰って行った。




翌月曜日、遂に排ガスがあり食事がでることになった。おならが出たか出ないかなど人様に言うべきものではないが、お腹の手術の際は「最重要事項」のため「出ました!」と報告してどんなにかほっとしたことか。主治医も安心した表情を見せていた。


何しろ入院と同時に絶食、術後も絶食が続いていたので10日も何も食べていないことになる。それでも点滴さえしていればお腹がすくこともなく、過ごせていたのだから点滴の威力には驚かされた。術前にお風呂に入るために点滴を抜いたことがあったが、途端に気絶するほどの空腹感に襲われた。たとえ胃の中が空っぽでも点滴で血糖値が上がっていれば食べていると同じ気分とは!人間はなんと騙されやすいことか?それにしても食事再開までは随分と長い道のりだった気がした。健康であれば10日などと言うのは一瞬で過ぎてしまう。しかしながら、特に過酷だった術後の5日間に関しては、1ヶ月が過ぎたかと思うほどの長さに感じた。




夕方、娘が思いがけないプレゼントを持ってきてくれた。ノートパソコン。これには驚いた。暇な入院生活の時間つぶしには何よりのプレゼント。父親と相談したというが高かったのではないかと気になった。実際は、無線契約を同時に結んだことによって、タダ同然で手に入れたという。今でこそ、ケーブルの差込口がついている病院もあるようだが、当時は無線を使わなければパソコンは繋がらなかった。


大学でデザインを専攻していた娘は課題をパソコンで仕上げることも多く実に詳しい。私がマニュアル嫌いなのを良く分かっているので、要点を分かりやすく手書きで解説したものも持参してくれた。レポート用紙にびっしりと丁寧な文字で事細かに書いてあった。かなりの時間をかけ親のことを思って一生懸命書いてくれたことを思うと胸がいっぱいになった。「これさえあれば退屈じゃないよね!」娘の言葉に一気に回復に向かう気がした。本当にありがたかった。発病以来娘には心配のかけ通し。.娘が冷静なのを良いことに私のほうは甘えっぱなしで親子逆転という感じであった。申し訳ないと思いつつも甘えきってしまった。



そして、もう一つ大事なお土産があった。それは手術で摘出したモノの写真。手術直後、医師の説明の際に見せられたシロモノである。娘はかなり度胸の良い子なのだが、父親に指示されてテキパキと写真を撮ったそうで、普通の神経ならとても見ていられないのだろうが、見事に激写されていた。どれもイチゴパックのような容器に入れられていてグロテスクそのもの。


大腸はかなり使い古された感じで今までの暴飲暴食振りがうかがわれた。腸の内側に花が開いたようにガンが広がっていた。切除された腸の長さは25センチ。そのうちガンの部分は5センチほど。そして肝臓・・・正にレバー色。くり抜かれた患部が真っ2つに割られていて、中の白い部分がガンだという。2つあり、大きさは2センチと5ミリ。術前の検査では1ヶ所だけだったが、小さいほうは開いてみて発見されたいう。


驚いたのは子宮筋腫。ひょうたん型で20センチを超えていたらしい。子宮の外側に出来ていたため片方の卵巣がくっついてしまい、同時切除したという。これに気付かなかったと言う事はどれだけデブだったかという証拠で恥ずかしくなった。更に胆石はビンに収められていて黒い粒が油で光っていた。現物はホールタイプのコショウくらいのサイズだったらしい。見事なまでの粒ぞろい。こんなものが体内で製造されていたとは!ある意味感動した。画像をアップにして数えてみたところ70粒を超えていた。


確かにここまで酷いと気持ち悪いというのを通り越して「感嘆」という感じだったらしい。私はなんか出来の悪い答案用紙を見せられたような感じがした。なんとも恥ずかしい。〇は殆どなく×だらけの答案。名医の手によって×部分は取り除かれた。これからは心を改めていくしかない。そう心に誓った日でもあった。









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