雑誌を作っていたころ(34)

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蜜月からの転落


 新社長の青山氏はかつて、あいであらいふ社で「頭で儲ける時代」の副編集長をしていたとき、海外宝くじの斡旋商売を思いつき、欲の皮の突っ張った読者を会員として囲い込むことに成功した。そしてそのビジネスの危うさを指摘されると、社を去り、独立してワールドマガジン社を始めた。それが短期間で10億円の資産を形成する原動力となり、彼は鶴見に豪邸を建てた。


 日本には「富くじ法」という法律がある。正確には刑法187条の第1項「富くじを発売した者は、2年以下の懲役又は150万円以下の罰金に処する」、第2項「富くじ発売の取次ぎをした者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する」、第3項「第2項の規定するもののほか、富くじを授受した者は、20万円以下の罰金又は科料に処する」という定めで、明治時代にできたものだ。

 この法律には明確な判例がない。唯一、戦前に当時日本領であった台湾のくじの販売斡旋をした大阪の人が罰金刑を受けたというケースがあるだけだ。法律が成立した当時と現在の世相はまったく異なり、しかも地方自治体が第一勧銀(現みずほ銀行)を通じて主催している「宝くじ」の正当性をきちんと規定していない。だから青山氏の始めたビジネスは、法律的なグレーゾーンで稼ごうというものだった。それが将来、危険なことになるというリスクを察知して、あいであらいふ社の嘉藤社長は青山氏を切り離したのだろう。


 もちろん、青山氏も裸足で地雷原に飛び込んだわけではなかった。ワールドマガジン社自身が海外宝くじの斡旋をするのはさすがに危険と考え、二段構えのビジネスモデルを構築した。日本のワールドマガジン社は、海外宝くじの魅力を紹介する月刊会員誌「ロッタリー」を編集発行するだけとし、ロサンゼルスに設立したアメリカ法人が日本人向けに海外宝くじ(アメリカのロトくじや、オーストラリア、ドイツなどのくじ)の販売代行をする。その広告媒体が「ロッタリー」であり、雑誌には大量の申し込みハガキが綴じ込まれていた。

 海外の法人が日本人向けに海外宝くじを売るのなら、富くじ法の規定を逃れることができる。青山氏はそう考えたわけだ。そしてアメリカの法人には大量の販売斡旋手数料が流入するが、これを法外な「広告掲載料」としてワールドマガジン社に環流させる。これがグレーゾーンから濡れ手で粟でお金を稼ぐ彼の錬金術だった。

 ただし、彼にはインターネット時代を迎えた警察当局の焦りが見えていなかった。ワールドマガジン社は10年間「お目こぼし」を受けていただけで、警察が本気になれば、彼の防壁など砂上の楼閣だったのだ。そしてもうひとつ、彼が見落としていた「穴」があった。アメリカ法人の代表者が、青山氏自身だったのだ。これでは当局に狙いをつけたられたときに言い逃れができない。「実態は同一会社ではないか」と言われたらどうしようと考えていたのか。これは後に彼が逮捕されてから知った事実だった。


 青山氏が社長になってからの半年間は、夢のような日々だった。約束通り彼は編集の内部には口をはさまず、ぼくたちの思う通りに仕事をさせてくれた。そして彼の「夢」であった六本木日産ビルへのオフィス移転。ぼくは六本木で本作りをするなんて、なんかしっくりこなくてイヤだったが、大きなビルのワンフロアを全部占拠し、半分が青人社になった。若い社員たちは喜んでいた。


 ぼくは青山氏に出版の仕事を早く覚えてもらおうと、自分の仕事以外の時間をすべて彼と一緒にすごした。夜は日産ビル地下のバーへ行き、彼の好きな赤ワインを飲みながら、ぼくの知っていることをすべて注入した。彼はぼくの話すことをじっくりと聞き、ときおり簡単な質問をした。決して声を荒げたりせず、終始穏やかな態度でいた。「お金があると、こういう人格になるのか」と、ぼくは感心した。


 青山氏が青人社を手に入れたことは、ワールドマガジン社の社員たちにも変化をもたらした。それまで、ワールドマガジン社は直販の雑誌しかなかったので、書店流通の書籍を出すことができなかった。そのために、雑誌の連載をまとめて単行本にすることができず、本格的な出版活動がやりたいと思っていた社員をがっかりさせていたのだ。

 しかし、青人社の出版コードを使えば、それが可能になる。さっそく、ワールドマガジン社に眠っていた企画がいっせいにスタートし、書籍化に向けて動き出した。そうして、「発行・ワールドマガジン社/発売・青人社」の書籍がいくつもできた。


 青人社とワールドマガジン社は、ちょうど同じくらいの規模だった。だから、ぼくらから見るといきなり会社が2倍に拡張したようなものだ。向こうは直販で会員管理の仕事があるため、若い女子社員がたくさんいた。「出版社」だと思ってワールドマガジン社に入ってきたくらいだから、みんな編集に興味があった。青人社の若い編集スタッフは、「なんでも教えてあげるよ」と、どんどん接近していった。まるで養鶏場に見学に来た狐の軍団みたいだった。

 しかし、夢のような日々はそう長くは続かなかった。青山氏が青人社の社長に就任してから半年後、突然に警察の強制捜査がワールドマガジン社ほか同業の2社に対して行われた。当初の容疑は「海外宝くじの販売斡旋に関する詐欺容疑」だった。他の2社は購入者に対して海外宝くじの送付を行っておらず、完全な詐欺だったが、ワールドマガジン社は詐欺ではなかった。すると警察は罪状を「富くじ罪」に切り替えた。要するに潰したかっただけなのだ。青山氏は翌日、警視庁に任意同行を求められ、その場で逮捕・拘留された。

 なぜ警察が急に動いたかと言えば、インターネットを通じての海外宝くじ販売斡旋が急速に増加し、詐欺の被害が膨れあがったからにほかならない。急速に進展するインターネットビジネスで海外の宝くじが自由に販売されるようになってしまえば、第一勧銀(現みずほ)の「宝くじ」は魅力を失う。海外の宝くじには「キャリーオーバー」があり、数十億円もの当選金が当たり前のように出ていた。

「宝くじ」は官許の特権にあぐらをかいた甘いビジネスだった。それがインターネットで特権を突き崩されると、一気に崩壊へと向かってしまう。国と地方の役人にとって、天下り先であり、資金源でもあった宝くじは、何としても死守しなければならないが上だった。だが、彼らが頼りにしている法律は「富くじ法」だけしかない。確かな判例もなく、法廷論争になったら下手をすると「宝くじ」の合法性まで疑われかねなかった。

 だから当局からすると、一罰百戒、素早く見せしめにどこかを叩き、法廷論争なしに刑罰を科してしまい、「実績」を作り上げる必要があったのだ。それで警視庁生活安全課の尻が叩かれたのだろう。


 その日の強制捜査で、同じフロアにあった青人社も業務が停止してしまった。何十人も段ボール箱を持った捜査員が入ってきて、青人社の書類まで押収されたからだ。青人社の代表取締役専務であったぼくの机も、空にされた。

 ワールドマガジン社強制捜査のニュースは、その日のテレビ、新聞をにぎわせ、ワールドマガジン社には購読解除の電話がひっきりなしにかかってきた。彼が10年で築いた帝国は、一瞬のうちに崩壊の瀬戸際に立たされた。そしてそれは、同時に青人社も「一蓮托生」の道を歩むことを予感させた。



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