覚悟(2000.2.26)

 「引き際も芸のうち」という言葉が、小学校以来私の座右の銘となっている。しかし、言葉との出会いから10年近くたった最近になってやっと、この言葉を改めて捉え直すことができた。このシートを書くに当たっても、「引き際」を考えている。




 この銘の出所は池波正太郎作「鬼平犯科帳」である。賊が万全の下準備をして万全の注意で忍びこんだが、たまたま忍び込んだ店から火の手が上がる。賊の頭は、まだ未練が残る手下に向かって言うのだ。「引き際も芸のうちだ」と。




 当初私は単に「諦める」意味でこの言葉を捉えていた。だから諦めの悪い自分に腹を立て、或いは「潔し」の言葉にくるんで「単なる諦め」を助長しようとしていたのだ。




 私は潔い人が好きだ。自分もそうありたいと思う。しかし、「潔い」とはどのようなことなのだろう。最近の人ならば、腹切り問答の浜田国松、車寅次郎を演じた渥美清、そしてゼミの担当であった清水征樹先生。彼らの共通点は何か。




 「覚悟」をしていることだと思う。清水先生曰く、「人格の確立なくして覚悟は不可能」これは自己決定と自己責任から成る自律、その自律に基づかなければ「腹はくくれない」ということだと、清水先生は言う。自己によって自己を見つめ、自己から逃げないこと。メタフィジカルな視点をも持って、自己を見つめる。その上で自己の未来に責任を持つ。或る意味では現在の自己に対する諦めである。しかしそれを単に「諦め」とくくりたくはない。




 むしろ逆である。始めに戻って盗人はどうして諦めたのかと言えば、自分を生かすためである。ここで殺生を犯してまで盗みを働くことは彼らの信念に悖る。第一お縄になっては元も子もないのである。




 自分を生かすために今の自分を捨てる。積み上げてきたものに執着せず、ゼロになることを覚悟する。それが潔いことなのではなかろうか。努力や仕事の積み重ねは、必ずしも報われるとは限らない。現実の世界は、因果関係即ち線形な関係に支配される世界ではない。だからこそ発生する自己責任を予測することは難しく、それ故覚悟するのは難しい。




 しかし、不確実な自己責任に予測を立て、その上で予測を超えた責任をも自己に帰属させるだけの勇気があって初めて、「引き際も芸のうち」と胸を張って言えよう。自己の分を知り、自己という枠組みの中で最善を尽くす。当たり前で陳腐で拙くてつまらないこのことが、やはり重要だと思う。




 文章にせよ絵画にせよ或いは放送番組にせよ、何にでも制限はある。時間、資金、能力、たくさんの制限の中で、それを「作品」とすることは、「閉じた系」にしなくてはならない。尻切れトンボではいけないのである。だとすれば、言葉は悪いがどこかに妥協はあるだろうし、如何にして枠組みぎりぎりまで妥協せず、且つ枠組みを超えないぎりぎりで妥協するか、即ち身を引くことができるか、それが重要になる。そしてそこに「責任を伴った覚悟」があることによって我々は満足を得ることができるし、また不満を覚えることもできる。枠組みがなければ、いつまでも妥協しないのならば学問同様、いつ果てるとも知れぬ欲にかられ、「作品」は完成しない。それは人生で十分だ。


※これは、同志社大学法学部法律学科に在籍した2000.2.26に書いたもののようです。

この文章を、故清水征樹先生に捧げます。

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