名前のない喫茶店~まえおき~後
迷っている間もなく、勢いよく入り口のドアが開いて、誰かが入ってきた。
「中さん、ちょっと!聞いてよ」
「ああ、西さん。コーヒーでいい?」
「あ、うん。あのね、中さん、うちの子がまた、学校行かないって言い出してさ。もう今月に入って3日目よ。4月になって久しぶりの学校だっていうのにさあ。学生なら学校にいるのが当たり前って、私の頃は当たり前に思ってたんやけどなあ」
西さんと呼ばれた40代くらいの女性は、入り口に近いカウンターに勢いよく腰をかけた。作業着のような格好で、首筋に細い金のネックレスをしていた。化粧はほとんどしておらず、丈夫そうな無地のサンダルをはいている。
西さんは、中田さんとひとしきりしゃべった後も、独り言のようにぶつぶつと何か言っていた。西さんが入ってきたことで、この空間は騒がしくなり、東川は少しいづらさを感じていた。僕も平日の昼前に喫茶店にいるような立場ではないかもしれない、彼はそう思っていた。
やがて、中田さんはコーヒーを西さんに出してから、ハムと玉子のサンドイッチとコーヒーを持ってきた。サンドイッチはシンプルで少し大振りだったが、どこか暖かみのあるものだった。コーヒーカップは、よくあるような白い端正なものではなく、少しゴツゴツして赤茶けた色をしていたが、手にしっくりとなじんだ。東川はあっという間に完食した。
窓から見える景色は、部屋で感じるより風が吹いているようだった。遠くで洗濯物が右へ左へ弄ばれるように揺れていた。
東川は席を立って、入り口の傍でテーブルを吹いている中田さんのところに行った。
「あの・・お支払いしたいんですけど」
「うん、そうですか。それはご自由に。ひとつお聞きしてもよろしい?」
「はい」
「どうしてお支払いする気持ちになられたのですか?遠慮とかなら結構ですよ。ここは、組合とかからの補助金で、原価はほとんど問題ないんです。結構学生さんとか、気軽にコーヒーとか飲んでそのまま帰っていく人も多いので、心配はいらないですよ」
「いや、僕、近くの予備校にこれから通い始めるんです。だから学生かってはっきりいわれると、そうでもないし。それに、サンドイッチとてもおいしかったから・・」
「そう、ありがとう。大学受験ですか、大変ですね。それは立派な学生さんですよ・・そうだ、それならお代は神社にお賽銭しておいてください。合格祈願でこのあたりじゃ有名な神社なんですよ」
「いや、でも」
「お名前は?」
「え、東川といいます」
「神様にお支払いしたいお金っていうのはね、今日東川さんがサンドイッチとコーヒーを食べた時間と思ってください。そんな大げさなものではないですが、この時間に何を感じたか。それが全てですから。私は中田といいます。みんなから中さんて呼ばれてます。また、是非来てくださいね、東川さん。行ってらっしゃい」
中さんは、またニコニコしながら扉を開いた。気がつくと、西さんもさっきとはうって変わった笑顔で手を振っていた。それに背中を押されるように、東川は外に出た。
風がまだ吹いていた。やや強いが、暖かい風だった。神社の方に風に押されるように感じた。
神社に来るなんてお正月以来かもしれない。合格祈願のお札やら何やら、親は散々買い揃えていたけど、結局何の役にも立たなかった。結局だめなときはだめだし、誰も助けてはくれないのだと東川は思っていた。
サンドイッチとコーヒーを食べている時間。
それは久しぶりに感じた穏やかなひとときだった。
予備校に通うための初めての一人暮らし。失敗の傷を抱えている暇もなかった。明日への不安も山積みだ。
でも、このひとときだけは、僕は楽しかったと思うことができた。そのことが、何だか有り難かった。有り難い?そんなこと生まれて初めて思ったかもしれない。
お賽銭を投げて、手を合わせ試しに心の中で「ありがとう」と言ってみた。すると、心の中の重かったものが、緩んで流れたような気がした。不思議だった。
帰り道に外で掃除している中さんに出会った。
「あの、中田さん」
「ああ、中さんでいいですよ。なかなか立派なお宮だったでしょう」
「ええ、あの、このお店は何ていう名前なんですか」
「この喫茶店に名前はありません。まあ、近所の人は神社の傍にあるから、神社の喫茶店とか言ってるようですけどね」
「そうなんですか」
「場所なんて、どんな名前でもいいんですよ」
「はい?」
「どんな場所でも、その人がそこを自分の場所だと決めたら、その人だけの場所になります。怖がったり、粋がったりしないで、そのままそこでやればいいだけなんです。お家には、誰が持ち主であるかだけで、建物自体の名前はないでしょ。それと同じことです。ここも、そんな風であればいいなあと、ね」
中さんは、見えなくなるまで手を振ってくれた。東川は自分だけの場所について考えてみた。そして、これからこの街や、あの喫茶店がそのような場所になることを願っていた。
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