一年前に語った自分の人生 自伝序章
あるところに投稿したものになります。また、この文章は2013/11/26に書いたものになります。
そこからも、いろいろな物語ができています。自伝への第一歩というところで。そこに投稿した文章を載せます。
ぶっちゃけるのがいいといわれたので、ぶっちゃけることはそれそれ自体は賭けであるものの、少し書いていこうと思います
わりと悪い人生なんで、読むなら覚悟して呼んでください(笑)
まず、3歳の検診で発達障害の疑いがあるということで毎週検査を受けていました。
5歳の検診でもまた同じ疑いで、検査や、よくなるための、コミュニケーションをするであるとか、自然に触れるであるとかいろんなことをしていき、なんとか普通学級にはいることができました。
小学校の時点で宙に浮いてしまい、いじめにあいます。からかうようなものでしたが、助けてくれる友人もいました。
完全に変人という扱いを小学生の時では受け続けていました。
中学校時代
公立学校です。勉強はできたのですが、宿題をやりませんでした。新興住宅地だったので、半分以上の人が塾に通い、今と違い相対評価なので4と5はとったことはありあません。自分も塾に通い、勉強していました。国語の模試で偏差値60を取ることができたのですが、学校に戻ると、ただの落ちこぼれで国語の成績はずっと2でした。社会は得意だったのですが、100問あるひねくれた問題を70点ほどとって発言回数上位でも3しかとれず、受験前にして受験戦争に敗北しました。挫折感はつよかったです。
母は厳しい、いえ、厳しいのではなく双極性障害といういわゆる躁うつ病という病気で、毎日なんで良い点数が取れないのかと何時間も怒鳴られ続けました。テストで良い点数を取ることをあきらめ、ずっとゲームをしているようになりました。
はまっていたゲームは、三国志、マリオ、ポケモン、星のカービー、Age of EmpireII、ウルティマIV等々。
ウルティマの話は長かったので、もうひとつ作って語りますウルティマについては、一つ下の投稿をよんでください。 ※ブログにあります http://tenku65820.hatenablog.com/entry/2014/08/02/001419
高校時代
高校受験は、内申の問題でほとんど選択肢がなく、公立学校は悪い子が多いからと反対され私立高校へ行くことになりました。
いろいろなところを見に行ったのですが、自分が行くことになる東京実業へ見学にいきました。全国大会へ出場しているというマーチング・バンドの演奏がありました。カラーガード(いわゆる旗を振ってる人たち。振るといっても、スピンさせたりトスしたりします)がかっこよく(後から聞くと、見学会は適当といってましたが)、やりたいと思いました。親からはものすごい反対をうけましたが、東京実業に合格し、マーチングを始めることになります。
高校に入るとき、大きな間違いを犯しました。声変わりがおわっていなくて、声が高かったのですが、恥ずかしくて声を出さないようにしたのです。
※そのあたりの経緯の話 http://storys.jp/story/10797 http://storys.jp/story/12670
すごい演技というのは、ものすごい練習量に後付されているものです。毎日、夜遅くまで練習があり、休みがない月もありました。辛い。辛い日々です。
怒鳴られたりというのは、日常茶飯事でギスギスした空間だったと思います。当時は手を抜くことを知らず、頑張り続けていたのですが、運動神経にめぐまれず、みせどころを任せてもらえることはほとんどなく、冷や飯をくわされていました。
どこかで、心が折れたのでしょう。死にたいという気持ちにだんだん支配されるようになります。これは一年生の時なので2002年くらいでしょうか。残念な人生で死にたいという気分から逃れられるのは2013年4月までまたなければならなかったのです。今から考えるとよく自殺しなかったというところはありますね。自殺する人の気持ちは、今でもわかります。だから、「死ぬな」といわずに「生きて」と言いたいです。
脱線しましたが、話を戻します。
なんとか、少し人数オーバーだったのですが、こぼれないで、大会のメンバーに入ることが出来ました。関東大会を通過して、全国大会。
会場は日本武道館。しかも、来年から高校の部はさいたまスーパーアリーナになるので高校の部最後の日本武道館。小編成金賞。小編成のなかの順位としては2位。どちらかというと、自分は足をひっぱっていたほうかもしれないけれど、この時の感動が、主に音楽活動のステージに立つ原動力になっていますね。
二年生のときはメンバーから外れてカラーガード部門で関東大会三位。
三年生の時はさすがにメンバーに入れてもらえるが、下の学年の何人かのほうが良いポジションだったので、冷や飯感。それでも、さいたまスーパーアリーナで全国大会中編成金賞。
成功体験ともいえますし、集団の中でかなりダメな方だったので、失敗経験ともいえます。
母は相変わらず機嫌が悪く、どんなに疲れて帰ってきてもだいたい怒鳴られました。いくら金がかかっているのか、とか、英語が苦手だったので、なんでそんにできないのかとか。東京実業は偏差値が低いので、普通の教科は得点を取るのは簡単だったのですが、英語は積み重ねが必要だったので、いつも95点と英語の答案があっても、英語が悪いことについて、ねちねちと言われ続けました。
父と母の板挟みとして利用されることもありましたし、母と祖母の板挟みにもされました。姉がいたのですが、逃げて、10年ほど「ごはんができたみたい」くらいしか話をしませんでした。
偏差値が低くてテストが簡単だったため、指定校推薦をとることができました。指定校推薦で大学に行くことになります。
大学にはいっても、うまくはいきませんでした。声を殺したことで心因性失声症になり、視線恐怖症もすでにありました。
それと、ぼろぼろなところから立ち上がるための無駄な自信。が、悪い感じで功を奏し、人間関係はうまくいきませんでした。
吹奏楽部に入っていたのですが3年になったらやめてしまいました。音楽はアコースティックバンドに入り、ピアノは吹奏楽を辞めた後に始めたので、小さい頃からやってる人と比べてやっている期間は少ないです。
ゼミに入ることになるのですが、よくわからない立ち位置にC先輩という人がいました。この人は後で出てきますが、人生に大きな影響を与えます。
情報系のゼミに入り、ずっと研究室にいたのですが、ずっとTwitterをやってました。ちょうど、日本語版がでた直後ですね。このころは、Twitter上で炎上することはなく、平和で楽しかったですね。なうが流行る原因になったのが個人的には、リナックスカフェというところにTwitterがやってるひとがたまってて、入ると、「リナカフェなう」とつぶやいている人がたくさんいたことだと考えているのですが、そのリナカフェにはいって本名の分からないTwitterの人たちとお茶をしたりしたました。
そのあたりの経緯 http://storys.jp/story/11738 http://storys.jp/story/11607
写真愛好会の立ち上げをしようとするのですが、私が頑固すぎてクラッシュしちゃいました。文化祭前だったので、諦めるのは悔しかったので、写真の個展をやりました。
ゼミ長として、ゼミの発表も進めていたんですが、そこももめてクラッシュしました。かわりの人が代表になりました。同時に二つやっていたというのは、現在の行動力につながっているんのかもしれません。
2007,8,9年ネットはいい年でした。Twitter日本語版リリース、ニコニコ動画・Youtube黎明期で、mixiもまだ使ってる人はおおかったですし、VOCALOIDの火付け役である初音ミクもこの時期にでましたね。このころ情報系にいてよかったと思っています。
Twitterの認証は当時は緩かったのでbotを自分のプログラムで動かしたりしていい経験でした。
当時はいわゆるネトウヨ的な感じで、麻生元首相が大好きで、韓国と中国が大嫌いでした。今もその傾向は少しありますけど、好きと嫌いを少し話して考えて、戦略上政治はどうあったらいいかという視点で政治をみています。
ネットは炎上は当時以前からありましたね。
facebookは当時からありましたが、このころは、まだmixiの時代で人がいませんでしたね。まだ潰れないとか話してたら、だいぶ流行るようになりました。
2009年から哲学道場というものに参加してくだらない議論をしていました。哲学カフェにもいきました。やはり、内省(ストレングス・ファインダー)なので、考えることをやめられないですし、それを議論する場所がほしいのですよね。
話を戻します。科研費での研究に参加してC先輩の下でいろいろ雑用をやらされていました。トラブルメーカーでいろいろやらかしますけど、いい人でした。
楽しいけれど、その中に孤独があって、死にたいという気持ちは晴れませんでした。就職活動をしたのですが、うまくいかなく、リーマンショックが起こりそれと、トラウマだらけの英語の単位がとれてないことを理由に就職活動をしませんでした。
すでにダメ人間で、ちゃんと卒論仕上げるんで、単位出してくださいとかいって、単位出た後に卒論を書き終えました。結局卒業は、英語の必修は二つあって、一つは点数に満たなくて、一つはテストを受け忘れて留年しました。
5年生。好きに過ごしていました。受けたい授業をうけたり、サボったり。英語の試験は片方得点を満たしていて、片方またうけわすれました。片方うかっているということで、お情けで卒業できることになりました。4.5年大学にいました。
うつの治療とバンド活動でした。バンド活動といっても、そんなにがっつりやってないかんじでした。しばらくは。そこでいろいろな楽器をたらいまわしにされることで、少しながら、いろいろな楽器ができるようになりました。
2011年にバンドをやめて、生活支援センターというところにいりびたるようになります。そこで、ギターとかピアノで簡単な伴奏をしていました。
2012年に現状を打開しようと思い、心因性失声症と戦う覚悟をきめました。治って、10年ぶりに声を取り戻すことになります。
※そのあたりの経緯の話 http://storys.jp/story/10797 http://storys.jp/story/12670
すこしずつ働いたりするようになります。働いてなかったので面接でおとされまくったのですが。
2012年の7月ごろゼミでお世話になったC先輩に「自殺するから後は任せたい」と言われました。自分自身、死にたい気持ちに支配され続けたので、強く止めることはできず、というよりか、むしろ手助けをしてしまった形になりました。身辺整理を手伝いました。手伝うのを辞めたところで、彼は意志を変えなかったでしょう。サーバ等の受け継ぎが終わったら、彼は、決行し、完遂しました。
その経緯の話 アルコール依存症とその末路 http://storys.jp/story/12150 / 昔、友人が自殺した。身辺整理も手伝った。 http://storys.jp/story/11599
死んだことは悲しかった。しかしながら、彼に手を貸した。呪われても襲われてもしかたないし、殺されても、文句は言えない。複雑な思いを今も抱えています。
人間に対して、疑問をもつようになりました。トラブルメーカーだの社会でやっていけないなど、彼に対して言い放っていた人は少なからずにいましたが、死んだ後、死ぬことはないのにと。悲しみを表明しました。人間らしいと思えば、人間らしいですが、欺瞞的だと思っています。
私自身が辛い時、辛い言葉をかけられたことが少なからずあるので、それ以来、辛そうな人には優しい言葉をかけてあげたいと思うようになりました。
2012年に作曲の師匠と出会いました。幅広い音楽を知っていて、しっちゃかめっちゃかな音響作品や即興演奏を鋭く指摘してもらって、今の即興演奏ができるようになったと思っています。かけがいのない師匠です。即興的なものについては、才能があると言ってもらえました。
同2012年マーチングの楽器パートをやりたいという思いは捨てきれなくて、再チャレンジしますが、一年で辞めます。2013年ですね。
2013年音楽事務所に入ります。今から考えると血迷ってますが、音楽をお金にするためにおかしな人間がでてきてしまうという教訓がえられたので、それをきっかけに、お金のためにおかしくならない人間になろうと誓います。
2013年3月ピアノ教室のレッスンで楽譜を全て忘れたので、即興演奏をしていたら、「作曲のために」グランドピアノ買ったら。と言われました。作曲の先生のお陰ですが、譜面通り演奏するのはぜんぜん苦手なので、ピアノの先生には申し訳ないですけどね。
2013年4月に短期の仕事を初めて、仕事もなんとかこなせるようになって、ここでようやく死にたいという気持ちがなくなります。うつ病になんとかうちかったものの、今のところ、やはり不安傾向は消えないようです。
このあたりの経緯の話 10年間自殺することを考えていた。それを克服した。 http://storys.jp/story/11598
しかしながら、週5日働くのがきつくて、どうしたものかと悩んでいますね。仕事は成果を出そうと思えば出せませますけど、その反動としての体調不良は怖いです。
2013年の5月に楽団に入りました。コルネットという楽器をやっています。
オーケストラにも入りました。練習が月一回なので、全然参加できてないですけれど。
哲学道場はしばらく関東で開催されないので、自分で主催することにしました。2013/12/1に第一回目の自分が主催する哲学道場横浜の発表が控えてます。まだ、発表内容固まってないですけどね。
人権問題などを少し勉強して
どんな人間でも生きる権利があるということ。どんな人間、内容の発表する権利も奪うことができないという考え方を血肉にできたと思います。
最近は「生きてほしい」「生きていても大丈夫」ということをどういう手段かで表現したいんでどうするか考えています。
やはり、どの時点でも人間関係の問題を抱えていましたね。
5321文字
細かいこと入れると本が書けそうです(笑)
<了>
2013/11/26
加藤圭一郎
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