僕の記憶の感情欠落
僕には記憶がある。
もちろん、誰にだって記憶はあるだろう。
嫌だったこと、辛かったこと、楽しかったこと、嬉しかったこと。
たくさんの記憶があると思う。
嫌だったことや辛かったことは、思い出すと、今でも気分が悪くなるだろうか。
楽しかったことや嬉しかったことは、思い出すと、今でも満ち足りた気持ちになるだろうか。
それが、ごく普通のことだ。何もおかしなところなどない。当たり前のこと。
けれど、その「普通」に僕は何故か当てはまらない。
僕には記憶がある。けれど、その記憶に色彩はない。別に白黒なわけではない。ちゃんと色はある。無いのは色彩。一般的には感情と呼ばれるもの。「記憶」を「思い出」に変える代物のことだ。
そう。僕の記憶には、それに付随する「感情」がない。例えるならば、まるでレコードのように、記録された出来事がただ淡々と流れるだけのものだ。
別に、僕はそれで何か不自由を感じたことはあまりなかった。他の人よりも、記憶力が悪いだけなのだろうと、簡単に片付けていた。
ただ、成長するに従って、それが徐々に異質なものに見えてきた。
何年も前の旅行での「記憶」を、ついこの間のことのように楽しそうに語る友人たち。
苦い「記憶」を、辛いという色彩で彩られた「思い出」として語る母親。
僕と違う。僕にはできないこと。
それを当然のように行う彼らを見て、僕は幼い頃には見えなかった「違い」を感じた。
それは自分が思っている以上に、僕に打撃を与えた。
周りと違う。共感できない。それがこれほど苦しいことだとは思わなかった。
辛い、と思った。
だから僕は演じた。「記憶」を「思い出」として語った。
記憶の中にある風景に、一番相応しい感情を“今”の僕の中から引っ張り出して貼り付けると、ほら。「記憶」が「思い出(偽)」になる。
括弧の中は、外からは見えない。見えるのは僕だけ。だから大丈夫。
そうやって、僕は安堵していたのだ。
偽りはすぐに崩れてしまうということを、この時の僕は、まだ知らなかった。
この話は、ここで終わり。
続きはもちろんあるけれども、それは今、僕が歩いている途中なのだ。
バットエンドはごめんだから、ハッピーエンドにしてから続きを書き記したい。
P.S
僕が綴る話はすべてが中途半端だ。それは僕が今でも歩いていて、その先の結末をまだ迎えていないから。
それでも僕は自分自身との対峙のために、こうやって中途半端なことを書き記す。
僕は元々文章にすることが苦手だから、読みたいと思うような文章は、きっと書けない。読みたいと思うような内容の話を書くことも、きっとない。
これは自身へのけじめ。
自分の気持ちの整理。
そして、こんな気持ちを持つ人間がいるのだということを、少しでも知ってもらいたいから。弱い人間というのはどうしても少数で、その存在は周りの人間に理解されない。そうして世間という名の塊に、押し潰されてしまうのは、あまりにも辛いから。
だから僕は、こうして形に残すんだ。
例え不恰好でも、何も残らないよりは、ずっといい。
著者の遥川 玲さんに人生相談を申込む