第3話 ムエタイ指導者と涙のお買い物ドライブ

前編: 第2話 そしてスリッパが残った
後編: 第4話 英語はどこまで必要か?

長身の男が手を振っている。ジェイだ。両腕には、模様付きの長袖シャツでも着てるのではと思うような刺青。ただし日本のとは違って単色で、柄もそんなに細かくない。

私の黄色いジムニーは遠くからでも見つけることができる。だから待ち合わせには便利だ。私はヘッドライトをパッシングしてジェイに答えた。

助手席に乗り込んだジェイは窮屈そうに身を屈めるやいなや、自己紹介を始めた。話すのが好きなようだ。外見に似合わず教養の感じられるきちんとした英語が印象的で、「ちょっと怖いな」と見た目で判断したことを後悔した。

もちろん、このとき私はまだ、数時間後に待ち受ける2つの事件など予想だにしていない。

ジェイはブラジル出身、アムステルダムを拠点に活動するムエタイ指導者だという。彼の指導を待つ子供たちを世界各地に訪ね、日々旅をしながら暮らしている。日本での指導が一段落したところで、普通の暮らしが見てみたかったのだという。

「ムエタイってどんな格闘技なの?」

ドシロウトの質問に、ジェイは優しく笑って答えた。

「たまには僕のことを知らない人と会うのもいいもんだね」

ムエタイについての説明が始まった。20年物のマニュアル車をギシギシと運転しながら聞くには、言葉からイメージを作りながら聞くのがちょっと難しかった。けれど、これだけはスッと入ってきた。

「僕は片目の視野が半分欠けているんだ。だからたまに配慮のない行いをしているように見えて君を傷つけてしまうことがあるかもしれない。そんなときは気にせず言ってね」

おそらく何百回と繰り返してきた自己紹介なのだろう。でもこれを自己紹介の一部としようと決めるまで、幾度となく傷ついてきたであろうジェイを思い、ちょっと心が痛んだ。

5分ほどで家に着き、布製の大きなバッグ3つを二人でクルマから降ろした。リビングで麦茶を飲んだところでジェイがバッグを開けると、トレーニングに使う防具類がゴロゴロ出てきた。珍しいので見ていると、底をゴソゴソ探っていたジェイが一言、悲しそうにつぶやいた。

「ない…。困ったな、PCを充電したいんだけど変換プラグをなくしたみたい。持ってない?」

確か半年前にロンドンへ行ったとき、万能型変換プラグを持って行ったっけ。私は記憶をたどり、机の引き出しなどを探した。けれど、どうやらどこかにしまい込んでしまったらしく見つからない。というわけで、国道19号沿いの家電量販店まで再びドライブすることになった。

持ってきたPCの電源ケーブルをカウンターで見せると、店の人がすぐ変換プラグを持ってきてくれた。厚紙と透明プラスチックに挟まれているので、中身は確認できる。

「これでいいよね?」

私はジェイの顔を見上げた。その瞬間、ジェイは無言でパッケージを開けた。パキパキッとプラスチックのカバーが音を立て、私は声を上げた。

「うわああああ!だめだよ、お金払ってからにしてよ!」

店員もびっくりしてオロオロしている。なのにジェイはかまわず、持ってきたケーブルを売り物の変換プラグに差し込んだ。

「OK、買うよ」

何事もなかったかのようにポケットから千円札を取り出し、ジェイは店員に手渡した。

突然レジのまわりだけ時空と色彩がねじまげられたかのような一瞬の出来事だった。

帰り道、小心者の私はまだドキドキしていて、信号が青になったのに4速で発進しようとしてエンストさせて、気の短い名古屋ナンバーから煽られたりした。

「春日井のおすすめは何?ぜひ体験してみたいな」

ジェイには私が煽られて焦っているのはわからないのだろう。初めて行った場所で地元民と仲良くなったなら誰でも投げかけるであろう質問を、無邪気によこしてくる。うん、ジェイは悪くない。何か教えてあげなきゃ。春日井の名物はサボテンらしいけど、サボテンビールは酒屋に行ったら生産中止と言われたし、春日井市役所のサボテン定食みたいのも売り切れだった。シャッター商店街のサボテンショップみたいのは入りづらかったから無理だな。春日井の名物…春日井の名物…ネピア工場?でも和紙の里とかじゃないからティッシュ作りなんて体験できないだろうし…たぶんコンマ5秒くらいの一瞬で私の小さな脳みそが演算した内容を言語化するとこんな感じになる。

魔が差すというのはこういうことを言うのだろう。演算結果がはじき出された。

「スシロー!」

理由はわからない。本当に、今思ってもなんでかわからない。私は何かが降臨したんじゃないかという感じでスシローをオススメしていた。自信満々で。

「へえ、そんないいとこなの?何するところかよくわかんないけど行ってみよう!」

ジェイはノリノリだ。

なんか違う、なんか違う…そう思いつつも私はスシローへジムニーを走らせた。そして視界に入ったのは阿鼻叫喚の満車と入り口の行列。

そして、ここでやめて一度家に帰って落ち着けばよかったと5分後に後悔するのだ。

「満車だからこっちに停めちゃうね」スシロー駐車場出口向かいのクリニックが週末で休みなのをいいことに、私はジムニーを頭からねじ込んだ。そして位置を調整するためにバック。

「ぐにゅ」車体後部にいやな感触があった。振り返ると、スシロー駐車場の出口から入ろうとして、出てくるクルマとお見合いになって停車している軽自動車を、私は見事にへこませていた。この後のことは思い出したくないので、ジェイが春日井を去る時に残していった言葉を紹介してこの回を終わろうと思う。

「日本人は本当に礼儀正しいっていうのがよくわかったよ。君たちの事故後のやりとりは本当に冷静でお互いをリスペクトしたものだった。あの事故は僕の日本の大切な思い出の一つになるだろう」

ジェイがいい思い出を作ってくれたのならよかった。うん、よかった…うぅ。


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第4話 英語はどこまで必要か?

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